十一
大方ろくなことにならないだろうと、かねがね思っていた。
両腕両足を野太いロープで捕縛され、口にはさるぐつわを噛まさせられ、何もできぬ無防備な状態で僕たち三人は、見まごう事無く捕まっていた。カーテンがぴしりと締め切られ、心許ない白熱電球だけが弱々しく灯る小さな部屋の隅にごろんと転がされた。大学の教室であることは間違いないが、薄暗さといい周囲の静寂さといい、日曜ではこの異常事態に気付く人はとても望めそうにもない、絶望的な状態だ。カーテンは閉め切られており、僅かばかりの入り陽が辛うじて周囲を窺わせる事を叶えた。
だから元々こんな計画には反対だったんだなんて、今さら言い訳が次々に浮かんでは、後悔の螺旋階段をみるみる間に上り詰めた。
芋虫のように転がる僕たち三人の前には、同じく三人の人影が立ち構えていた。目の前には一人の女性が心苦しそうに萎縮しており、その後ろでは白衣の老人がせわしなく目を動かしながら耳元をかき、一番奥では同じく白衣を着た者が扉にもたれながら腕組みをしていた。
一番手前にいる女性が、ゆっくりと僕に話しかけてくる。
「悠斗くん、ごめんなさいね」
愛梨さんは屈むと顔を隠すように深く深く頭を下げたが、こんな状況に仕立て上げられて謝られたところで申し訳なさなど微塵と感じやしない。
「元々乗り気でなかった悠斗くんにとっては、とんだとばっちりかもしれないね。ごめんなさい。まずどこから説明させてもらおうかな……うん、まずは口元を開放するね」
無理矢理噛ませられていた布が僕の分だけ取り外された。とても状況など把握できるわけがない、しかしこうも捕らわれた状態では高圧的な態度もとれず、実際自分たちの置かれている現状の理解がとても追いつかないのだから、まずは要因を尋ねざるをえない。
「まぁ……どうして教養のありそうな愛梨さんまでが、そうもこの計画に熱くなるんだろう、だなんて疑問は元々あったし、予想外じゃない、というと間違いなく嘘だけど……」
「ごめんなさい」
「謝罪よりまずは現状を聞きたいかな」
どれだけ相手が卑屈に平謝りの姿勢を取ろうとも、とても抗う気力など沸き出てこない、それよりもまずは現状の把握が先決だ。
あの時、僕が女音に言われて太陽を双眼鏡で眺めた時、どうして太陽が白く光って見えるのかと疑問を持ったのも束の間、突然後ろから人の手が伸びてきて、僕の腕を半捻りして背中にあてがうとそのままロープで手首を束縛された。足をかけられて力任せに廊下に倒されたなら、有無を言わさずに口に布を噛まさせられて顔に不透明なビニールを被せられ、両足首をもきつく縛られた。拉致現場とはまさにこんな状況なのだろう、あっという間の出来事であり、相手の姿が見えないので驚きながらも武器を持っていたらと考えると喉が涸れて大きな声が出せず、戸惑いの言葉を二、三述べただけであえなく御用となった。
そのまま最寄りの教室に運ばれて、頭を覆っていたビニールをはがされると、目の前には愛梨さんがいたのだから混乱に拍車がかかり、頭がぐっと重くなった。
愛梨さんは後ろを振り向くと、背後で気まずそうに耳元をかいていた早河教授と頷き合って、僕の横で束縛されたままになっている二人の頭を覆うビニールと口にあてがった布を外した。突然のことに、女音はびくびくとしながら涙目で咽ており、その隣で櫻井名誉教授は観念しきった顔で深く溜息を吐いた。
「なるほどね、早河氏……随分と手荒な真似をしてくれる」
「櫻井さん、すみません」
「いやいや早河氏までが敵だったなら、それはもう諦めもつくというものだよ」
敵? 一体何が、櫻井名誉教授にとっての敵というのか。その敵にどうして早河教授が該当するのか。依然としてさっぱり事情は呑み込めない。
「だから初めに言っただろう、私のことは他言しないで欲しいと……こうなることは分かり切っていたのだから」
「ちょっと待って下さい櫻井名誉教授、どういう事ですか? 何で僕たちが捕まらないと……しかも愛梨さんと早河教授に! 何で二人は敵なんですか、敵って何のことですか?」
「直接本人に聞いたらどうだい」
櫻井名誉教授は顎で早河教授の方に僕の目線を促したが、早河教授は顔を苦くしてそっぽ向いてしまった。仕方ないと、櫻井名誉教授は口を開いた。
「つまり、我々がやっている研究はこうなってしかるべきな一大事象だったのだよ。今一度良く考えてみればどうだ、どうして私がこの研究に協力したのか、どうして君たちが私をメンバーに入れようと思い立ったのか、その発端を」
「その発端と言われましても、僕はただカルストン博士の研究を調べていて……」
ここまで言って、突然頭にひらめきかけてくるものがあった。やけにトントン拍子に事が進むと思ったものだが、もしかして――
「……あ、え、いや、……でも確かにそれなら納得いく……」
「ゆうちー、どういう事……? なんで、どうしちゃったらみんながこうやって私たちをいじめるの?」
僕もまだまだ自分の考えがまとまっていなかった。女音に向くと、一つずつ消化していきながら、ゆっくりと思考を整理していきながら説明する。
「つまり、僕たちはカルストン博士を調べて櫻井名誉教授に辿り着いた、そういうことですよ。早河教授の研究も、櫻井名誉教授の研究にしても双方ともカルストン博士のものであり、だから早河教授が研究に行き詰った時にも、櫻井名誉教授の研究を適応することで成功への道が切り開けたんです。考えれば簡単なこと、双方ともカルストン博士の研究なんですから!」
「え、だからどういう事なの? 同じ人の研究だから早河教授の研究に、名誉教授サマの研究が応用できたんでしょ。それが何が変なの?」
「変じゃないから問題なんですよ。つまり、先ほどの小型太陽、あれは総じてカルストン博士の研究なんです!」
「あ……!」
ようやく言わんとしていることを女音も理解し、僕の頭の中でも次第に全体の事情が明確化してきた。
早河教授は物理学を専門としながらも、いやに宇宙について学識豊かだと感心したものだが、翻ってみればカルストン博士の研究と宇宙そのものがしっかりと繋がっていたのだ。
「じゃあつまりどういうこと? カルストン博士も……太陽を作ろうとしていた、ってこと?」
「そう、そして研究を進める過程で先ほどの僕たちと同様、気付いてしまったんですよ。今もこうして空でギラギラと輝いている太陽は、すべからく人類が神と崇めてきたお天道様は、カルストン博士と同様の原理によって人工的に作られたものであると」
太陽が作りものであった。都市伝説のような、現実味をおぼろげとも感じない事実を掲げれば、女音もすでにロマンで吸収できなくなった事実に息をのむことだけが精一杯の様子だ。
僕自身も実感が伴わず、復唱することで改めて驚きが鮮烈に感じられた。
しかしながらこの話には続きがあるのだ、だからこそ僕は震える唇を今一度ギュッと引き締めて、愛梨さんに正面から向き直った。
「そして今、カルストン博士と同じ末路が僕たちの身にも起ころうとしている……そうだよね、愛梨さん。ネットで見たよ、若く志し半ばにして原因不明で死んだ博士だって。それと同じことが今、ここで起ころうとしているんだ……もみ消しが」
こんがらがった頭で全てを吐きだしてようやく、なるほど全てが繋がった。そうであれば原因不明の死だとオカルトサイトで謳われるのにも納得がいく。何が遺族の要望で死因が公表されていないだ、つまりは殺されて、かつ何らかの圧力により事実は闇に葬られたのだ。どうして櫻井名誉教授が口酸っぱく他言無用の念を押していたかというと、カルストン博士の身に起きた物騒な事実について、確信は抱かずとも大体の見当がついていたからではないだろうか。
「櫻井名誉教授……そうですよね、分かっていたんですよね?」
「まあそうだな、カルストン博士の研究の最終形態が太陽であることは薄々感ずいていたし、博士の死も含め、ほとんど思っていた通りだよ。太陽そのものが人工物とはさすがに意外だったが、いずれにしても命を狙われる危険な研究だと認識はしていた。だからカルストン博士の研究を継ぐことは若くして諦めたし、それ以来カルストン博士に関わらないようにしていたが……どうしてだろうかね、歳をとってしまうとその研究ばかりが頭を舞ってね。私がいつ死んでも不思議ではない今となって、名残惜しくなったんだよ、歴史から消された世紀の大博士の研究が。そんな時に君たちに出会ったのだから、年甲斐もなく計画に乗ってしまったわけだ。だから協力する際に君たちに言っただろう、私の夢はこの研究であり、この研究に人生を捧げると」
人生を捧げる、聞いた時は比喩かと思っていたが、実際に櫻井名誉教授は命が危険に晒されることを承知で協力してくれたのだ。僕たちであれば専門知識もなく、ただ静観しているだけで命の危険は限りなく少なかろうが、研究そのものを司る名誉教授ともなればそうもいくまい。
今更ながらに櫻井名誉教授のことを勝手に他言した行為がいかに軽率な裏切りであったか、無念苦痛の念が心を切り裂いた。
「……だからカルストン博士についてネットで調べていても、早河教授の名前は全く出てこなかったんですね。早河教授は監視者だったんですよね、カルストンについて研究する、この世の真相を暴こうとする者を摘発する……そうですよね? だから櫻井名誉教授の存在を探るために実験をわざと失敗させたし、こうして関係者一同の揃う舞台を作り上げたんだ」
言い切ったなら、早河教授もとうとう観念したとばかりに顔を僕に向け、襟を正して改めて深く頭を垂れた。
「本当にすまなかった、悠斗くんの言う通りだ。私は君たちを監視しながら、今日という日、愛梨くんと協力してこうして騙し打ちをしたんだ。……ただ、これは私に限ったことではない。日本をはじめ世界の科学者たちが様々な機構や団体に所属しているが、その上で常に危険な研究についての抑制や排斥に努めているんだ。我々科学者は様々な兵器で世界を危険に脅かせてきたが、だからこそこのように危険な研究については科学者そのものが監視者となり、研究が成功する前に研究そのものを駆逐しなければならないのだ」
下を向いたままで言葉を一時に述べると、ゆっくりと頭を上げ、僕とその顔を向き合わせた。信念を貫く己に自信を持った、真っ直ぐな目つきだった。
「例えば太陽が化学兵器になりでもしたなら、世の中は戦争では治まらなくなり、果ては地球そのものの破滅へと繋がりかねない。我々科学者には、科学の発展とともに世の中を平和に保つ義務があるんだ」
つまり僕たちが相手にしていたのは、国家レベルで活躍する科学者集団であり、現代科学の世界を牛耳る者たちであり、そしてそれは日本という国家であり、そのおおもとは世界なのだ。早河教授をはじめ、いわば世界中の大半の科学者たちがカルストン博士についての研究を経歴から抹消され、同時にカルストン博士について研究しよう者がいるならこうして見張りながらおおもとの機構へとリークするのだ。
「だからこそ私は君たちにあえてカルストンの研究を吹聴し、案の定……櫻井さん。あなたをこうして引きずり出したんです。一切の協会や団体に属していない一匹狼のあなたが予てよりカルストンの研究に打ち込んでいたことは存じていましたが、ある時を境にぱったりと研究を辞められて……お陰で我々はあなたを直々に咎める機会を失ってしまいました。随分と手荒な方法となりましたが、ようやく研究に引導を渡せそうです」
少なからず二人は研究者として意気投合していたのだろう、早河教授はいつもの笑顔を消してすっぱりと言い放ったが、僅かに眉をひそめて手を強く握り締め、辛々自制しての震えた言葉であった。早河教授もカルストンの研究をずっと続けたかったのかもしれない。そうでなければ櫻井名誉教授を引きずり出すためとはいえ、こうして小さな太陽を実際に実験してしまう必要は無かったのだから。早河教授はずっとカルストンの研究を重ねていたが、その危険性を示唆され、泣く泣く研究をうち切ったのかもしれない。
「櫻井さん……お願いです、研究を辞めると、明言してください。そして我々とともに、正式な団体に所属してください」
櫻井名誉教授は悲しさも怒りも表情に出さず、ただずっと目を瞑り、懇願じみた早河教授の言葉を耳に入れながらうんうんと感慨深く頷いていた。
「何を言うかと思えば。私はただの協力者だよ、計画の立案者が辞めると言えばいつでも断念しようじゃないか。そして正式な団体に所属してくれか……こんな老いぼれが入ったところで何もできはしないよ。それでも、この研究が終わったなら……そうだね、早河氏に頼まれたのだから、あなたと同じ団体を紹介してもらおうか」
短い間ではあったが、カルストンの研究という橋渡しをもってして確かに築かれた二人の絆。一見手ひどいと思われる今回の裏切りでもその関係は崩れぬと、一匹狼の櫻井名誉教授の放った意外な温かい言葉に、早河教授は目元を潤ませ、黙って座り込んでしまった。
続いて櫻井名誉教授と愛梨さんは揃ってこの計画の発起人である女音を見たが、女音がこちらを向けば追随して二人は僕へと目を向ける。愛梨さんと目が合うと、その目が申し訳なさそうに生光を帯びており、改めて裏切られたという事実を突きつけられた。
僕という存在は、櫻井名誉教授を表舞台へと引きづり出すための釣り絵でしかなかったのだ。なすすべもなくがっくりと項垂れながら、それでもまだハッキリとしない事項が残っているのだと、絶望感にめまいを覚えながらも、必死に声をだした。
「それで愛梨さん、どうして愛梨さんまでが……?」
早河教授については分かる、おそらく九分九厘の科学者が同様に僕たちを見つけたならばおおもとの組織に情報を売っただろうから。問題は、どうしてそのおおもとの組織に愛梨さんが該当するのか、それだけが腑に落ちない。
「悠斗くんごめんなさい、本当にごめんなさい……。この人が皆に紹介したかった……天文学研究の椎名徹博士なの」
愛梨さんが手向けた先には、黒髪の長身で眼つきの鋭い、まだ若そうな男性が扉にもたれていた。筋の通った鼻に整った輪郭、白衣を羽織っているために体つきは判断しにくいが、歳は二十代後半くらいではないだろうか。激しい敵意をむき出しにして僕たち三人を見下している。
「君が、愛梨の話していた……悠斗くんだね、はじめまして」
悠然と「はじめまして」だなんて調子のいい。廊下で立ちすくんでいた僕と女音を捕まえたのはこの博士なのだろう、それくらいなんとなしに理解できる。
「ん、椎名って、もしかして……」
「……うん、私の兄なの」
またしても状況はみるみる間にこんがらがってきた。つまり、おそらく、愛梨さんはこの兄より太陽計画の危うさを教授され、偶然同じ学校に通っていた僕を伝って計画の輪の中へと潜り込んだのだろう。身近な位置から巧みに手を引いて、櫻井名誉教授へと導いたのだ。
瞬間に胸がすうっと空いた。一陣の風が通り抜けたかのような果てしない空虚さに襲われた。
「悠斗くん、君の話は愛梨から聞いているよ。告白までしたそうじゃないか、御苦労さま。どうにも地動説を主張し続けた博士よろしく、卓抜し過ぎた科学というものは、人類を混乱の渦中に落し込め、ひいては滅ぼしかねないのだよ、それを理解いただきたい。かつて原子爆弾がそうであったように、太陽という兵器を作り上げることは人の歴史上、決して許されてはならぬ愚行なんだ。繰り返しになるが、化学兵器として人工太陽を作りでもしたなら、望む地域の資源から自然を根絶することだって容易にできるだろうし、そこから人類の破滅が始まるかもしれない……太陽とは、現代の浅ましい人類風情が決して扱ってはならぬ、古代にて自然と共生していた人類の高貴な遺産なんだよ、分かってくれるね?」
恥ずかしくも、天文博士こと徹博士の語った恭しい言葉は何一つとして頭に入って来なかった。そんなことよりも、この兄が妹である愛梨さんを僕にけしかけたのだと思うと、情けなくて仕方がなかった。偶然僕が同じ学校にいたことを知った兄は、愛梨さんに命じて僕に近付き、こうして計画を根本から絶ったのだ。愛梨さんに恋をして、人生のモテ期だなんてはしゃぎながら彼女の一挙手一投足に一喜一憂して……それらすべては虚構の、浮かれた僕自身が作り上げたまやかしだったのだ。
思えば早河教授と出会ってから、愛梨さんと一緒に出かけるなど突然に関係が発展したがなんてことはない、それは必然であり、徹博士の手の平で転がされていたにすぎないのだ。彼女はただ忠実に、僕との親交を深めていったにすぎないのだ。
そんな僕の浅はかな気持ちを利用されてこの計画をおじゃんにされたとなれば、下らない、馬鹿らしい。どこまでも惨めな自分が嫌になり、いっそ笑い飛ばしたかったがそれも不謹慎に思え、かといって辛さに身を任せて一人ぴーぴーと泣き出すこともできないボロボロのプライドがやりきれなかった。
「だから……最近一気に親密になれた気がしたんだね、愛梨さん」
「……ごめんなさい」
愛梨さんこそ今にも泣き出しそうだった。そんな素振りがやはり可愛くて、そう思えてしまう自分がどこまでも哀れで、怒る気力すら湧かなかった。
しかしそんな僕の思いを代弁して尖った声を出したのは誰でもない、女音だった。
「あいちー。この縄をほどいて」
「……女音ちゃん、ごめんだけどそれはできないの。ね、分かって」
「じゃあさ、じゃあさ、あいちーだって私の今の気持ちが分かるでしょ? 私があいちーのことなんて分かるもんか、そうやってゆうちーの純愛を弄ぶ人の気持ちなんて分かってたまるもんか! だまって聞いてればゆうちーを利用したみたいな事言って……一発ビンタして目を開かせてやるんだから、絶対に許さないんだから!」
両手足が縄に結ばれた状態にもかかわらず無理に立ち上がろうとした女音は、すぐにバタンと倒れ込んだが、その目だけはずっと愛梨さんに向いていた。まさか僕がそんなに慕われているとは露知らず、惨めな自分が慰められるのを感じてまた涙腺が緩もうとする。涙もろいわけでもないのに、惨めな人間とはこうも精神的に脆弱になってしまうのか。
「女音ちゃん、私だって……こんなにひどい、裏切ると分かっている関係なんて演じたくなかったわよ! 私の良心の呵責も知らないくせに、勝手な事言わないで! 告白された時に、嬉しいくせに後ろめたさから返答できなかった葛藤が、果てには断るしかなかった私の気持ちが分かるわけないでしょう! なによ、あなたのその甘い香水が、どれだけ私に辛かったのか分かりもしないでしょ?」
「だったら普通の恋をすればいいじゃない、なんで裏切るの、なんで叶わないなんて決めつけるの! ドラマのヒロイン気取って馬鹿みたい!」
鼻息を荒くした女音に怒鳴りつけられ、いよいよもって自制できなくなったのか、愛梨さんはその場に泣き崩れた。
静かな教室はうたた混乱の一途を辿っていく。女音は一度早河教授の方を向いて悲しそうに目を潤ませたが、次には何事もなかったかのように強い目を徹博士に向けた。
「とおるって言ったわよね、あいちーにこんな事をさせるお兄さんなんて、最悪で最低なんだから」
「最悪ね、君たちにとってはそう映るだろう、否定はしない。そもそもにして、俺達は君たちには到底分らぬ世界の住民なんだよ。社会に縛られながら、工場で汗水垂らしてこき使われ働かされる君たちとは違うんだ」
「私のことをちょっとでも調べたなら分かるでしょ。私たちにこんな事をして……自分の命が惜しくないの?」
女音の放った一言に、度肝を抜かれた。この絶対不利な状況で、あろうことか相手に向けて命が惜しくないかなどと現実離れした言葉を吐いたのだ。女音の発言に根拠を求めるわけではないが、それにしてもこうもやぶさかでない言葉が飛び出したことこそが、僕を絶句させた。目まぐるしく現れる事実と変化に、ただただ驚いてばかりいた。
徹博士は女音の言葉を聞くと、末梢的な発言だと言いたげに鼻で笑った。
「どうせ君たちは、愛梨は昼間に仕事をしているだなんて聞かされているんだろう? この機会に本当のことを教えよう、こいつは昼にも全日制の学校に通っているんだよ。一日二回、昼と夜でそれぞれ異なる高校に通っているんだ。それがどれだけ過酷か分かるか? 世界的な研究者の両親を持ち、遊ぶことも知らずに勉学に打ち込む……こうも君たちとは住む世界の違う人間なんだよ。特に女音くん、君とは対照的過ぎる」
「何が言いたいのよ……」
徹博士が含みを持たせると、とたん女音は物怖じした。
奥歯に物が挟まりでもしたような渋い顔をした女音を見下しながら、相手は続けた。
「君のお父さんは、あのS社の社長だそうだね。S社といえば裏の世界でも名が挙がるほど、やましい確執で話題の絶えない会社だ、我々もおいそれと手出しできるわけもなく、とりわけ君たちの捕獲がこうも遅れた最大の要因こそがそれだ」
なんということだ、女音は一体どんな親の元に生まれたのだろう、親の顔が見てみたいと何度と思ったものだが、あろうことかS社の社長とは! 工場において、どうして女音が仕事もせずに日柄しゃべり続けていても、遅刻をしても、前日にいきなり有給を取ろうとも誰一人言い咎めないのだろうかと疑問だったが、裏にはそんなからくりがあったのだ。S社といえば僕たちの働く工場の親会社に当たる、いわば僕たちはS社から仕事を貰っている状態なのだ。親会社の社長の娘とあれば、当然誰一人と言い咎められるわけがない。
徹博士は、余裕綽々(しやくしやく)といった表情のまま続きを話しだす。
「しかし所詮、親は親、子は子だ。言いたいことは分かるだろう? 跡取りの男の子が欲しかったと生まれた時より捨てられたも同然で、義務教育すら放棄せしめられて子会社の工場で働かされる君と、将来を有望視され幼少期より手塩にかけて育てられた愛梨では、その価値が全く違うのだよ」
あたかも勿体つけた言い回しであったが、僕の心情は相手の思い通りに揺さぶられてしまっていた。
「……女音先輩が、捨てられた?」
「悠斗くんも知らないだろう、彼女はまだ十三歳になったばかりのお子様だ。今なお義務教育すらも怠って、毎日工場でせっせと働かされている。辛うじて親に面倒を見てもらい、教育も放棄してせいぜい一日一日を過ごしていく、乞食のような存在だ」
義務教育を放棄させられ、愛情も注がれずに働かされる、とても今の世に似つかわしくない惨状だった。そんな事実をこの場で大っぴらにあげつらわれる女音を思うと、胸がキリキリと針が刺さったかのように痛んで仕方なかった。普通の家に生まれていれば、男の子として生まれていれば……家で両親に可愛がられ、手造りのハンバーグだっていくらでも食べられただろうのに。家に帰っても誰もいないというのに、独り侘しくあの簡素な部屋で一体何をしているのだろうか。そんな幼い時期より一人で暮らしでいて、夜は何を思って床に就くのだろうか。
そうか。だから女音は夜を嫌い、昼に憧れ、ひいては太陽に思いを馳せていたのではなかろうか。女音にとっての生きがいは、昼間にしかなかったのだろう。僕は想像以上に女音という人間の大部分を担っていたのかもしれない。
目の前の男は、そんな他言できぬような彼女の過去を、あろうことかあざけって言い放つのだ。
「ところで女音くん、まさか君が危険に晒されたことでお父さんが心配してくれるだなんて思っていないかい? だったらそれはとんだ自意識過剰だ。実際、裏の人間を何人と派遣されでもされたなら俺たちは本当に危なかったよ。いつの世もお国の人間が恐れるのは、反社会的な者たちと相場は決まっていてね。ただ、君の親に限ってそれはない、それが分かったからこうして強硬手段に出ているんだ。俺の命がないだなんて笑わせる、そんな脅しなんてきかない。むしろ君がいなくなることで、お父さんから感謝されるくらいかもしれないね」
「黙れ!」
あまりな言いように、とうとう僕も黙りきれなかった。女音が不要だ、親に必要とされていない、むしろいなくなって喜ばれる、そんな事があるはずがない。
声を張り上げた僕を見て、皆は目をぱちくりとさせていた。
「徹博士、この縄をほどいてくれませんか?」
女音が愛梨さんへ向けた言葉をそっくり真似た発言に、博士も口を尖らせた。
「つまらない強情を張る……すでにこの大学校舎は俺たちの関係者が数十人で取り囲んでいる。もう詰んでいる、素直に諦めるんだ」
「詰んでなんていないわよ」
女音の発言に、その場がまたもや静寂となった。
僕が顔を向けると、女音はこの上なく幸せそうに顔を真っ赤に紅潮させ、歯を見せた笑顔で応じてくれた。
「んふふー、ゆうちー、ありがとう。すっごく嬉しかった」
「強がりはよすんだな。女音くん、君が思っている以上に、君の父親は君を必要としていない」
「うん、うん、あなたの言う通りよ。私はお父さんからちっとも必要とされていない、それは確かよ。私は、ね」
「負け惜しみを……ん?」
ここで突然携帯電話の電子音が鳴り響き、会話が中断する。愛梨さんの兄は何か言いたくてたまらなさそうな顔を残して、渋々携帯電話に耳を当てた。
「どうした?」
しばし電話をしていたが、その顔色はみるみる血の気が引いて青白くなっていく。頭をわしわしと掻きながら、落ち着きなくなって会話もままならずに叫びだした。
「おい、それはどういう事だ! 確認しただろう、娘には誰も見張りはいない、それは確かなんだろう? なのになんで俺たちの行動がばれるんだ! 待て、おい、おい……!」
僕が隣に目を向けると、得意げな顔をした女音が「ね?」と首をかしげて見せる。間違いない、女音の父親伝いに、好ましくない客人がこの校舎、ひいてはこの教室へ向かってやって来たのだろう。直後に階下で発砲したと思しき乾いた破裂音が鳴り響き、この場の皆が飛び上がった。
口元を僅かに震わせて、それでも徹博士は剣幕をむき出しにして女音を睨みつけた。
「この……一体どんな手品を使ったんだ! なんでだ、なんでお前なんかを助けにくるんだ!」
「残念。確かにお父さんは私なんて必要としていないから、私が捕まったと知ったところで眉一つ動かさなかったでしょうね。でもでも、勘違いしてもらうと困るんだけど、それでも私はお父さんの娘なのよ。あなたの敗因はこれに尽きるんだから」
「くそ、なんだと言うんだ、ふざけるな……ここまできて……!」
徹博士は目の色を変えて、今にも掴みかかってきそうに僕たちに歩み寄ってきたが、女音は何一つとして慌てずに言ってのけた。
「これ以上私たちに手出ししない方がいいわよ? あなたの運が良かったところは、こうして誰も傷つけずにいたことよ。そうでなければ、とてもあなたの命は保証できなかったんだから」
言われるともう駄目と悟ったか、徹博士は膝をガクンと折らせて、その場に座り込んだ。
すぐにもその部屋に黒スーツにサングラスといった定番ともいえよう柄の悪そうな者が何人と乗り込んでくると、僕たちを保護しながら目の前の三人を瞬く間にひっ捕らえてしまった。
非現実的な出来事もここまでくると清々しい、僕はどうしてもこれが夢でないという事が納得できなかった。




