水底に隠して
「あれはなに?」
後続の彼女が特徴的なビルを指差す。
「コクーンタワーって名前だったかな、たしか大学……学習施設だったと思う」
「ふーん、変なの」
まあ確かに奇抜な見た目をしていると思う。
「残りはどのくらい?」
「あと一時間ぐらいかな」
「そろそろ上がろう、さすがに疲れてきた」
「えー、もっと見ていたいのに」
下がっていく水圧に体を順応させながら浮上、生命を感じない沈黙の世界が遠のいていく。生命の源なんて呼ばれていたらしいのがなんとも皮肉めいてるというか。
「あー、疲れた。腹減ったな」
「釣りでもする?」
「この辺じゃなにも釣れないだろ、どうする? 次行くとこでも決めるか」
太陽は天頂よりも傾いた位置にいてまだ昼になってないことを教えてくれる、気乗りはしないが彼女が潜りたいというなら付き合ってやりたい。船内に入って昼食でもとりながら相談タイムだ。
「欲を言えば夜の海に入りたいんだけど」
夜の海、それは幻想的な雰囲気を持ちながらも昼に生きる生命を拒む死の領域。完全なる闇と機能しない平衡感覚のなか、一度でも冷静さを欠けば死の鎌が首を正確に捉えて逃がさない。墨のような闇から手が伸びてくる、足を掴んで離さない。すがるようにしがみつく手が体が、視線が近づいてくる。ガラス越しの大きく見開かれた瞳が見つめてくる、いつの間にマスクを外したのか開放された口元が何かを訴えている音にならず泡になっていくだけで何も聞こえないがその口はたしかに言葉を紡いでいた『助けて』――
――「ごめんごめん! 今のはちょっとした冗談だから気にしないで」
過去を思い出していた、彼女が気遣うような顔をしてこちらを見ている。
「こっちこそごめん、いつか潜らせてやりたいとは思ってるんだけどさ」
「ううん、気にしないで。山のほうとか行きたかったけど時間が少し足りないかな」
「今日は傾斜がきついらしいしどちらにせよ行けないな」
「今日ってそんなに深かった?」
「いや、八王子とかあっちのほうだけ」
世界中の陸地が海の底へと消えた、海水面の上昇が引き起こした世界沈没化現象だったがただの海水面上昇ではなかった。地形に沿うようにして海水面が形成、もともと陸地だった場所の海水は生体分解という特異な性質も持ち合わせている。生体というと御幣があるかもしれない、死体や老廃物などが分解される。その特質ゆえかわからないが魚などは旧来の海のほうでしかその姿を見せず生の雰囲気を感じさせない水没都市が出来上がった。
現在人々はいくつかの海洋プラントか船上での生活を強いられている。海なので潮の満ち引きが存在していて、おかしいぐらい細分化されたエリアで満ち引きがあるので、あるところでは水深六〇メートルだったのに少し離れたら水深二〇メートルだったり、ちょっとした地形とかは無視されるけど標高とかの影響も受けて水の坂とかが当たり前のようにできている。まだ地面があった頃の世界を知っている人が見れば夢と見間違えるような景色、クリアブルーに透き通った世界に閉じ込められた人類の遺構はその姿を変えずに今日も水面下で揺らいでいる。
「今日はもう潜るのやめて次潜る場所探しに行こう」
彼女も了承してくれたのでその日の午後はクルージングツアーになった。東京だった場所のあらかたの名所は回ったから特に行くところもないけど、やることといえば二人とも高いところが好きだから水面から顔を出しているビルに登ったりとかそんな感じ。
「あー、マズい」
気付いたら日が暮れかけてた、ていうかもうほとんど暮れてる。
「早いとこプラントに帰らないと。行こう」
夜を子供より恐れている僕に彼女は呆れているだろうか、柔らかい笑みを浮かべながら頷いた彼女を見て申し訳なく思った。
うかつだった、彼女がいない。運転していて彼女がいなくなったのにまったく気がつかなかった。照明つけて海中を照らす、彼女がどこにいるかの目星もついていないので見つかるとは到底思えない。無線もつけているが向こうが切っているか持っていないかで反応がない。
……行くしかない。さっきまで通っていた道すがら彼女が行きたそうな場所はいくつかあった、そこをしらみつぶしに潜っていく。早い鼓動が聞こえてくる、緊張、深呼吸をしてから闇に身を投じた。すべての音が消えて体の中で様々な音が反響している、ライトをつけて泳ぎ始めた。二〇分ほどの間で何度も闇の底から手が伸びてくるような感覚に襲われた、トラウマを克服できていない。自分の精神衛生なんかより彼女のほうが大事だ、手がかりの無いままかつての繁華街を泳ぐ。
「見つかっちゃったかー」
月明かりのように差し込んだ探査灯に照らされた彼女との無線が回復した、光の筋の中で舞う彼女と照らされた周囲の光景は幻想的で神々しささえ感じた。
「ごめんね、勝手に潜っちゃって」
怒った? と空に浮かぶ彼女を見ているとだんだんなんでもよくなってきた、そもそも最初から怒っていない。
「怒ってはいないけど驚いたし焦った、どうしようかと思って死ぬかと思った」
最悪そのまま置いて帰ったかもしれない、と言ったが。
「意地悪だけど来るって分かってたから潜ったんだ」笑いながら言っていた。
まだまだ行きたいところがあるとかで結局彼女に付き合っていたら途中で何度か休憩を挟んだものの夜明けまで潜ってしまっていた。
「結局こんな時間まで……」
「いいじゃんいいじゃん、トラウマ克服祝いだよ」
亡霊の泳ぐ海は消えてまた幻想的な静かで優しい海が戻ってきた、僕たちはこれからも未来の無い青色の世界をなんの理由もなしに泳ぎ続けると思う、彼女が望むならどこへでも泳ぎに行く。