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外つ夜の調べ  作者: アウレア
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人形遊び

 これはまだ天地(あめつち)が別れてよりしばらく、神も人も、動物も植物も、風も海も、路端の石や土塊も、皆がその意思を通わせ、力ある約定がこの世を覆っていた頃。唯一つの人の国に、ある王女がいた。名はマリオン。


 人の国の女王も王配も輝かしいほどに美しく、神々に仕える妖精共もその美しさには嫉妬し、そして彼らが定命の存在であることに安堵していた。美しく永遠に神々に侍ることこそ、妖精の存在意義である故に。


 しかし、彼らの子である王女はどうか。――ああ、マリオン。果たして真に彼らの子か。天の主神がそう嘆くほど、その姿は十人並みで、両親の輝かしい容姿はまるで消え失せていた。美の女神の嫉妬か、あるいは天の主神の妻、天の神々の女主人の呪いか。そのように世界に噂されるほどに。


 しかし、マリオンはその容姿を除いては、両親の才を遺憾無く引き継いでいた。特に力ある約定を紡ぐ魔法の才は、両親を凌駕していた。その片鱗は彼女が五歳の時には見え始め人形を大理石の床から生み出し、しかも自在に動かしてみせるほどであった。彼女の口の上手さ故か、利発さ故か、彼女は言葉巧みに世界と約束を紡ぐのだ。





 マリオンの才は勉学にも政治にも発揮され、世界に愛されんばかりであったが、それだけにその容姿を惜しまれた。何よりマリオン自身が、最もそれを気にしていたのだった。なぜこんなにも両親と姿が違うのだろうか。本当に自分は父母の子だろうか。だがこのようなこと両親はもちろんのこと、他の誰にも相談できはしない。王族が不安を吐露するなどもってのほか、そして政務に忙しい父母にこのようなこと言えるはずもない。心許せる友もおらず、マリオンは幼い頃から得意な人形遊びの魔法で孤独と不安を紛らわせた。


 マリオンは特に石から人形を生み出すことを好んだ。それは生物ではない石には魂がなく、個の概念が薄い希薄な意思しか持たぬためであった。意志が希薄で、自我を持たない彼らは、どのように形を変えても文句を言ったりはしない。むしろ形を与えられることを好んだ。しかし、魂を持つ生物は大きな意志から離され確たる自我を持ち、そのため木々や花々は自らの体を作り変えられることを嫌った。マリオンもいかに魔法に優れているとはいえ、真に嫌っていることを強要することができるはずもなく、石を使って人形を作っていた。


 マリオンはいくつも人形を作ったが、中でもお気に入りの人形があった。実際の大人と同じ大きさで、雪のように白く美しい石膏(アラバスター)の肌、蒼穹を写した水宝玉(アクアマリン)の瞳に、炎の如く輝く火蛋白石(ファイア・オパール)の髪、顔立ちはどこかマリオンの母の面影を残す、マリオンが思い描く理想の王女、理想の自分としての人形である。マリオンは遊びの中では理想の自分だった。


 マリオンは他にも大臣の人形や騎士団長の人形、文官や兵士の人形に、商人の人形、果ては村人の人形までも作って、遊んだ。これらの人形の(ロール)はマリオンに多様な視点を持たせる事になった。例えばマリオンが女王としてある政策を実施する。すると大臣はどうするか、どうなるか。文官は、商人は、そして平民たちや農民たちは。また歴史の授業で習ったある時点の状況を想定し、歴史ではどうなったか、自分ならどうするか、その時にはどうなるか。勉強の復習にも使った。次第に人形も増えていき、それはいつしか人形遊びの範疇を超え、人形たちで構成される小さな国、一種の箱庭とも呼べるようになっていた。マリオンは時に役を追求するため、お忍びで街に下りて平民に交ざり、馬で農村まで遠乗りし、商家を訪れて話を聞いた。そうしてマリオンは様々な役を自分のものとし、ただの王族にはない様々な気付きを得たのだ。





 その日はマリオンの十歳の誕生日であった。王城の中でも格別に大きいホールには、貴族はもちろんのこと、あらゆる動物たちの王までも訪れて、彼女を祝福した。森の小鳥たちや虫たちは、木々や花々からの祝辞を伝え、空の雲も、風も、水も、火も、石も、土も、彼女を言祝いだ。天の神々も妖精を遣って祝福した。城下では祝いのために多くの料理や酒が無料で振る舞われ、城に上がれぬ商人や平民もマリオンの誕生日を祝った。次代の女王が利発で親しみやすく、素晴らしいことをこの世の皆が知っていた。


 夜も更け、月が中天にかかる頃になっても宴は続いていた。小鳥の歌声や妖精たちの踊りも終わり、そろそろ宴もおひらきかという時、ホールの真ん中に、それは現れた。

 それの身長は三メートルほどもあり、冬を写した白い肌、月光の溶けた銀の髪と瞳をもち、夜の全てで織られた天鵞絨の外套を纏っていた。その美しさと言えば、女王すらも霞むほどである。杖をついてゆっくりとマリオンのもとに歩く彼女のことを、誰もが知っていた。マリオンは彼女がこちらに近づいてくるのを見て、慌ててその場に跪いた。周囲もそれに続いて伏せていく。


「陽の当たらぬ全てを統べることを、創造の父であり母である彼方の方に与えられたこの私が、夜と闇に連なる神々と、地の底の国を代表して、また、あらゆる美と、美を愛するものを代表して、貴方が今日この日に生きていてくれることを祝福する、マリオン」


 彼女は腰を深く曲げて、マリオンの小さな手を取りそう言った。するとマリオンは夜の闇の、あらゆるものを眠りに誘う暖かさと冷たさに包まれたかのように感じられ、そしてそこに込められた言祝ぎを確かに感じた。

 目の前に立つ夜天の公主にして、地の底の女王、あらゆる美と芸術を保護し、そして何より、唯一、天の主神と並ぶ、最高神である彼女がなぜわざわざ、人の国に降り立ち、ましてや自分を言祝いだのか、マリオンには全く分からなかった。いやこの場にいる誰もが分からず、そして言葉を失っていた。

 彼女は周りの困惑を見て取ったが意に介さず言葉を続けた。


「マリオン、君は彼の美しい人形たちを生み出したことをこの世に誇るべきだ。君は私が保護するべき芸術家であり、職人だ。ああ、マリオン。君が王女でなければ地の底に案内したのに。マリオン、人の国の王女を捨て、私の国でただの芸術家として暮らしはしないか」


 マリオンは耳を疑った。至高の芸術家達しか住めない、地の底の国に誘われているのだ。だがマリオンは美しい人形を作ろうとして作っているのではないし、芸術家でも、職人でもない。人形たちは寂しさを紛らわせるためのもので、今では自分の考えをまとめたり試したりするための道具にすぎない。


「行くことはできません、夜の全てを統べし御方。私はまず王女であり、次なる女王であり、人の国を導かなければなりませんから」


 だからマリオンは毅然として誘いを断った。


「そう答えると知っていたよ、マリオン。君は気高い王女である故に。だが君がその使命を捨て去る時、私はいつでも君を歓迎することを覚えていてほしい。……さあ、マリオン。私が願う時は終わった。次は君の願いを叶える時だ。私に叶うことならどんなことでも一つ叶えてあげよう。何を望む? 美しさ? 力? 至高の財? 君は何を望む、マリオン」


 骨のように白い手が、顔を伏せているマリオンの顎に添えられ、そっと持ち上げられた。底のない銀の瞳がマリオンの瞳を覗き込み、心の奥底まで何もかもを見透かされるようだった。マリオンは恐れ多く、断ろうかとも思ったが、ある事に気付いて、そして願いがふと浮かんだ。


「では、私が作った人形を壊れないようにしてください。私は自分が作った人形が壊れるのを見るたびに、私の中のものが亡くなったように感じるのです」


 それはマリオンが役を作り込みすぎることの弊害であった。一つの人形が壊れればその役は永久に失われ、二度と同じものは現れないのだ。


「それが本当の望みかい? 女王としての知恵や、君が昔散々悩んだその容姿、あるいはもっと素晴らしい魔法の力だって私は与えてやれるのに」

「これが私の望みです、尊き御方。知恵も力も、私が自分を磨いて手に入れてこそ。このくすんだ赤毛の髪も、美しいとはいえない顔立ちも、全てが私です。たとえ貴方様と言えど奪わせはいたしません。それに貴方様が気付かせてくださいましたから」


 マリオンの言葉に彼女は微笑むとまっすぐに立ち上がって、手に持っている杖で床を小さく叩いた。小さな波が、しかし世界の隅々にまで衰えることなく伝わり、世界に一つ約定が加わった。


「さあ、マリオン。これで世界は、つまり魂を持たない風や石塊、水や火、光も闇も時さえも、君の人形を傷つけることはなくなった。だけどこれではまだ完璧ではない。魂を持つものたちには、魔法と言えど強制できない。君も知っているだろう、マリオン。彼らを縛るのは王の誓約だけだ。幸いここには王たちがいる。森の植物たちに声を届かせることも、その返事を聞くことも容易いことだ。後は君が約束を紡ぐだけ。できるね、マリオン。ほら、君の言葉は千里を過ぎてなお届く。世界の全てが君の声を聞けるだろう」


 マリオンが頷くと、小さな約束が間に交わされ、マリオンの声が世界に届く事になった。


「私の願いはただ一つ。大切な私の人形たちが、形を失わずに在れること。至尊の方の御名を借り、ただここに希います」


 マリオンの願いは世界に響いた。まず彼女の母であり人の王である女王が願いに応えた。


「都栄える人というものを代表して、貴方の人形を決して傷つけないと誓いましょう、マリオン」


 女王は微笑んで応えた。あるいはそれは一度もわがままを言ったことのなかったマリオンの、ささやかな願いに対する母としての一面であったかもしれない。


「誇り高き狼とそれに連なるものを代表して、貴方の人形を決して傷つけないと誓いましょう、愛らしい御方」


「草原の猛き獅子とそれに連なるものを代表して、人形を決して傷つけないと誓おう、女王の御子よ」


「花蜜に集いし蜂とそれに連なるものを代表して、傷つけないと誓いましょう、気高き方」

 ホールのあちこちであらゆる動物たちの王が約束を紡ぐ。


《樫、人形、不懐》


《杉、約束、無傷》



 そして森の植物たちも次々と応え、ここに今マリオンの人形は決して何者にも傷つけられないことが世界に約束された。最後に生まれ落ちたヤドリギを除いては。



「ああ、マリオン。どうやらタイミングが悪かったようだね。ヤドリギというものはほんのついさっき、この世に生まれ落ちたばかり。まだ意思も希薄で約束を紡ぐこともできない。こればかりはどうしようもないが、これでは君の願いを叶えたとは言えないね」

「いいえ、むしろこれだけでも……」


 マリオンはこんなにも多くと約束を紡いだことに感動していた。ここにまた一つ力ある約定が世界に紡がれ、しかもそれを自分が成したのだ。このようなこと神代の時にしか無かったことだ。


「ダメだ、マリオン。これは私の矜持の問題だ。願いを叶えると言っておきながら、その願いを叶えられないなどと。他に何か願いはないかい? さあ、もう一度、願いを」


 マリオンは今度こそ何も思いつかなかった。いや、今はあの魔法を紡いだ余韻で、願いを考えるどころではなかった。


「何も、何もありませんわ」

「……なら、こうしよう、マリオン。この願いは保留だ。君に願いができた時、そしてそれをこの私が叶えられるならば、必ず君の願いを聞き届けよう。それがいつ、どこであっても。君が願いを口にすれば必ず」


 彼女はそう言うと、マリオンの手をそっと取って口付けた。


「マリオン、君は皆に愛されている。君がその気高さと女王として人を導く心を忘れない限り、君は名君として世界に名を残すだろう。願わくばそうあらんことを」


 神はそう最後に言い残して消えた。後には白い灰が積もっている。そのあまりに大きな存在の余韻はしばらく残ったが、程なくして解散となった。マリオンにとってあまりにも大きな出来事だった。





「おや、マリー。久しぶりだね」

「ええ、おばさま。このところ忙しくて。久しぶりの休日なの。おばさまのパンを楽しみにしていたのよ」


 マリー、街娘としてのマリオンはお忍びで街に出ていた。その姿は金の髪に青の目で、マリオン本人とは似ても似つかない。マリオンはかつて見た神を真似て、自らが作った人形に意識を移して動かす魔法を生み出したのだ。あの三年前の誕生日、神は大理石の人形に憑依して地上に顕現していたことを、あの冷たい石の肌に触れたマリオンは気付いていた。


「このブリオッシュとそっちのパイ、あ、これは新商品? これも一つ頂けるかしら?」

「あいよ。ちょっと待ってな、今温めるから」


 パン屋の夫人はマリオンの選んだものを長い棒のついた鉄板に乗せ、オーブンに入れた。マリオン行きつけのパン屋で、夫婦二人で経営している。ここで買ったパンを持ち帰って食べるのが、お忍びに街に下りる楽しみの一つだ。


「そういえば、今日はおじさまはいらっしゃらないのね。いつもならそういう仕事はおじさまがやってらっしゃるでしょ?」

「それがどうも風邪でも引いたらしくてね。この三日くらい熱を出して寝込んでるのさ。大通りにある花屋のクララも似たような症状で休んでるっていうし、マリーも気をつけるのよ」

「流行病かしら、ひどくならないと良いのだけれど。おばさまも気をつけてね」


 マリオンは買ったパンをバスケットに入れてその場を去った。パンの値段は大きく変わっておらず、新商品を試作できているようであるし、今年も近辺の小麦は問題なかったようだ。だが、どうにも熱病が流行っているらしく、パン屋や花屋だけでなく、雑貨屋でも同じような症状を聞いた。市場で露店を開いていた行商人の話では農村部でも広まっているという。どうにも嫌な予感がして、マリオンは知らず早足になって城に戻った。


 マリオンの嫌な予感は当たった。流行病は猛威を振るい、農村から都市に至るまで大勢が患った。対策を講じようとしたときには既に遅く、様々な業務で支障をきたすほどであった。大勢の病人が集められて隔離され、神官の祈祷や魔法が試されたが効果はなかった。分かったことと言えば、最初は風邪と同程度の熱が三日は続き、運が良ければ平熱に戻って命を取り留める。しかし残りは、その後意識が朦朧とするほどの高熱になり、およそ二日で息絶える、ということだ。大人ほどよく罹り、子供で罹ったものはほとんど居ないというのも大きな特徴かもしれない。

 この病はマリオンにとっても多くのものを奪い取った。パン屋の夫婦、乳母、幼い頃から仕えてくれた侍女、王配――マリオンの父も亡くなり、そして今、母も奪おうとしている。


「お母様、しっかりして!」

「ああ、マリオン。よく聞いて。もう私も長くないわ。ほら、あの人が向こうに立ってる。私を呼んでるわ」


 マリオンはあの母がこんなにも弱っているのを見て、ますます悲しくなった。


「そんなの幻よ。そこにお父様なんていないわ。気を強く持って、お母様。熱が下がった人だっているもの。お願いお母様、まだこの国にお母様は必要だわ」

「マリオン、貴方は私の自慢の娘だわ。貴方ならきっと立派な女王になる。私がいなくても――」


 そこで女王は意識を失った。外では赤い月が中天に輝いていた。


「お母様、お母様! 嘘よ! 目を開けて! 神よ、お母様を助けて!」


 願いは届かなかった。この病魔もまた魂を持ち、魔法に縛られないゆえに。

 二日後、女王は眠るように息絶えた。事態が収束するまでに国のあちこちで悲嘆の声が響き、死者は大人の約七割にも及んだ。このことは国民の多くに暗い影を落とし、次の女王が未だ十三歳の子供だということも、それに拍車をかけた。




 マリオンは聞くまでもなく、強い王が求められていることを知っていた。今のこの暗い現状では自分のような幼い王は頼りなく見られているということも。マリオンは為政者としての能力は十分であったが、如何せん、歳ばかりは変えようもなく、若さゆえに弱く見られることは仕方のないことではあった。だが、この現状から復興するには文官たちを指揮して効率良く進める必要がある。彼らに侮られていてはどうしようもない。

 そこでマリオンは女王に即位するにあたって、一計を案じた。若さゆえに見くびられるなら、若さを捨てればよいのだ。


 国の影を払うように、戴冠式は盛大に行われた。戴冠式に出席した誰もが驚き、民衆も皆驚いた。女王の冠を頂いたのはあのマリオンではなかったのだ。どこか女王に似た、炎の美しい髪と水色の瞳の彼女は、年の頃は十七ほどで、民衆に自らをガラテアと名乗った。そして王女マリオンも亡くなり、王家の傍流である彼女が即位したのだと告げた。


 無論これは全くの詭弁であった。ガラテアと名乗る彼女は実のところ人形であり、マリオン自身が操っているのであった。マリオンは自身が女王としての役を与えていた人形を、本当に女王にしてしまったのである。このことを知っているのは宰相や侍従長など、極々一部に限られ、マリオン自身は女王の侍女に扮した。


 新女王は様々なことを行った。まず文官を育成する学校を作り、その門戸を平民に至るまで広く開放した。学費は無料で、入学試験に合格したなら誰でも入ることができた。また、農村部への移民を推奨し、資金援助も行った。農村部では労働力の低下が先の病魔の流行で著しく、農作物の生産は急務であった。他にも様々な復興政策を行い、国はゆっくりと立ち直りつつあった。





「我らが麗しの女王陛下に、乾杯!」

「「「乾杯!」」」


 酒場には仕事上がりと見える労働者たちが酒を飲んでいた。景気は上々のようだ。この五年でようやく食物の価格もかつての水準に戻り、酒などの嗜好品も行き渡るようになった。


「店主、ミルクを頂けるかしら」

「マリー、ここは酒場だっていつも言っているだろう。酒を頼みな。……ほらよ、ミルク」


 マリーの人形を使って、マリオンは今日も街を探索していた。あれから五年。今では街もすっかり明るくなった。年配を街で見かけることがあまりないことをのぞけば、かつての賑わいが戻りつつある。こういったところはやはり城にいるだけではわからない。


「そうおっしゃいながら、いつもミルクを置いていますわね」

「偶々だ。偶々」


 この酒場の店主はいつも偶々ミルクを置いている、良い店主だ。マリオンの近頃のお気に入りである。とは言え人形の身であるので、実際のところ飲むと言っても体の中に作った袋の中に貯まるだけなのだが。ここではいろいろな場所で働く労働者の話を聞くことができ、マリオンにとって非常に有用な場所であった。


「我らが麗しの女王陛下に!」


 また誰かが乾杯している。あの文句はこの数年で流行り、今では定番となっている。女王の評判は良く、美しく積極的に動く女王を皆が讃えていた。


「ありがとう、店主。また来るわね」


 だがマリオンは何度もそうした乾杯を聞いていると落ち着かなくなって、酒場を去った。マリオンの近頃の悩みが原因だ。悩みとは自分が女王であるはずなのに、まるで他人が女王のような、あるいは自分自身とひどく乖離した像が女王として独り歩きしているような、そんなことだ。無論それは、自分自身を死んだことにし、ガラテアという自分自身であり、そして別人を女王にしたことが原因である。あの時の判断が間違いだとは思わないが、時々無性に考えてしまうのだ。もしかすれば自分が本当にいなくなっても女王はいて、政治をしていくのではないかと。そしてもしそうなら、自分に何の意味があるだろう、と。もちろんガラテアとは人形であるから、自分がいなければどうにもならないことは、マリオンにも分かっている。しかしそれでもあまりの市井の噂と自分との乖離に、女王が別人のように感じられる時もあり、そのように考えてしまうのだった。


 マリオンはこのガラテアという人形をひどく気に入っていた。幼い頃からの寂しさを紛らわせる友人であり、自分の理想像であり、自分の最高傑作だ。マリオンは普段は侍女としてこの人形の近くに侍りながら、魔法を使って人形を動かし、話し、政務を行っている。そして日々の政務が終われば部屋に戻り、人形の手入れや改良を行う。擬似的に飲食をすることが出来る機構を持たせたり、あるいはある程度の受け答えを自動化したりなどだ。

 この日もそうした手入れの最中であった。


「もしガラテアに魂が宿って、自我を持てば、私はいらないのかな。もしこの人形に魂が宿せれば……」


――その願い聞き届けたよ。


 つぶやいたその時であった。部屋に声が響き、直後部屋を目の開けられないほどの閃光が満たした。光が収まった時、何やら光の玉が浮いており、人形へと吸い込まれていく。

 マリオンはかつての誕生日を思い出した。今響いた声は。そしてならば、それは。


「待って! 取り消して! ダメだわ!」


 もし人形に魂が宿ったならば、自分はどうすれば良いのだろう。女王として人を導くことこそが使命であるこの自分は。

そうマリオンが思う間にも、光の玉は人形へと吸い込まれていき、そして完全に収まった。

 まず人形の虚ろな目に光が灯った。魂の炉が冷たい体に熱を伝え、そして立ち上がった。腕を曲げ伸ばし、手を開閉し、体の動作を一つ一つ確かめているようだ。


「うっ、あ、そんな……」


 マリオンにはそれが、絶望の塊のように見えた。


「これが、妾の身体か」


 人形が、ガラテアが喋った。マリオンは自分の存在価値が砕け散った音を確かに聞いた。


「本当に、本当に魂が宿ってしまったの?」

「貴方の願いはたしかに果たされた。こうしてここに妾があるのがその証拠」

「いいえ、いいえ、いいえ! お前は人形だわ! 私が作った、ただの人形! おとなしくその体、私に明け渡しなさい!」


 マリオンは人形に意識を移す魔法を使うと、それは何の障害もなく発動し、人形はマリオンの思うがままになった。


「なんだ、やっぱり人形じゃない。魂があるなら魔法が効くはず無いもの。そうよ、魂なんて無い……」


 マリオンはそこで安堵して意識が途切れた。


「やれやれ、世話のやける創造主だ」


 ガラテアは意識を失ったマリオンの身体をそっと持ち上げ、ベッドに寝かせた。




 マリオンはこの時気付いていなかったが、自分自身が身に着けていたはずの女王としての、為政者としての知識や振る舞いが全て抜け落ちていた。翌日の政務の時、それはマリオンを混乱させ、政務を混乱させた。マリオンが魔法を解いたすきを狙って、なんとかガラテアが事態を収束させ、そしてマリオンに説明した。


「妾の魂は、もとはと言えば女王としての資質を兼ね備えたものとして創造された。そのもととなったのは当然、マリオン、貴方だ。そのために貴方からはその知識や判断基準などを抜き取られ、妾が備えることとなったのだろう」

「それじゃあ、私はもう二度と正しい女王として振る舞えないってことじゃない! 返して、返しなさい! それは私のもの、私だけのものなのよ! その体も、何もかも、私に明け渡しなさい!」


 その日を境に、女王が狂ったと噂が流れた。女王は朝と昼とでは言っていることが真逆になったり、礼法を忘れたかのような振る舞いをしたり、命令を聞かないものに魔法で脅したり、すぐに感情的になって八つ当たりしたりした。そして次第にそれは圧政につながり、女王は自分の言うとおりにならないものを政治から遠ざけ、時に見せしめのように魔法で惨殺した。かと思えば突然善政のようなことをすることもある。女王は狂ってしまったのだ。


「このようなこと、やめるのだ!」

「うるさい! 何もかも奪ったくせに! 一体何が正しいの? 私には全てできたはずなのに! 私は女王なのよ! 国を、人を導けたはずなのに! 貴方が何もかも奪った!」


 マリオンとガラテアは夜毎魔法が切れる度に争った。マリオンは激しい勘気でガラテアに当たり散らし、疲れて翌日も寝てしまうことすらあった。あるいは情緒の不安定さから一日中寝ているようなときも。そのようなときにはガラテアが政務を行い、そしてマリオンとガラテアの二人の差が、周囲からは狂ったように見え、事実ガラテアに魂が宿ってから、事態は何もかも狂ってしまった。







 その蜂起は起こるべくして起こった。狂った女王を打倒するために、民衆は武器を手にして立ち上がった。女王の味方など、もはや侍女の他には居ない。女王は玉座の間で侍女を侍らせ、虚しく嗤っていた。


「はっ。これが私の最後か。こうなるのも当然ね。私は何もかも失ってしまった」


 玉座の間に大勢の兵士が入ってくる。これで何度目かはマリオンも数えていない。だが、どれだけ来ても同じことだった。いかなる鋼の剣も、鋭い矢も、火や土、水や風の魔法も、女王を傷つけることはできず、そして女王の強大な魔法の前に為す術もなく斃れ、去っていく。女王はいつも律儀に、決まった時間に玉座の間に居た。最後の時間を惜しむようにして。マリオンはいつかこうなることを、どこか冷静な部分では感じ取っていた。ガラテアは遅かれ早かれこうなるだろうことを知っていた。二人は優れた女王であったが故に。


 明くる日も玉座の間に武装した男がやってきた。だがいつもと違い今日は一人であり、そしてその武器は新緑の枝で作られた槍だった。マリオンはそれを見て、悟った。あれはこの人形を破壊すると。この世で唯一つ人形を傷つけられるヤドリギでできた槍だった。そしてその槍が人形を貫こうとした時、玉座に侍っていた一つの人影がそれを遮った。

 マリオンである。男はそのことに呆気にとられていた。侍女がいまだに残っているのは女王に脅されて強制されているとばかり思っていたのだ。だが、彼女はこうして女王をかばった。あまりのことに槍を手放してしまったほどだ。

 ガラテアは崩れ落ちるマリオンをとっさに支えた。


「どうして……なぜ、この身を助けた?」

「貴方は私の人形、私の物、私の臣下、私の女王、そして私の友。貴方を誰にも破壊させたりしない。……可笑しいわね、貴方を憎んでいるのに。許せないのに。けれど、貴方の体が貫かれるのを見たくなかった」


 そう言い残してマリオンは死んだ。


「我が魂の主よ、これが貴方の望んだ結末か!? 人は王を失い、解き放たれた。二度と一つに纏まらず、大地は永く混乱するだろう。貴方も優れた人形師を一人失った!」


 ガラテアは今ここを見ているであろう神に憤った。そしてマリオンの亡骸を抱えると、男を無視して城を出た。

 人間は王を失い、その誓約は打ち捨てられた。人間は次の王を決めるために相争い、多くの血が大地を穢した。そして増え続ける人間は住処を求めて森を切り拓き、動物達を駆逐し、人間と動物たちは良き隣人ではなくなった。次第に世界も動物も植物も人間に心を閉ざし、彼らの声を聞くことはできなくなった。人間が大地を支配する時代の幕開けである。





「とんでもないことをしてくれましたね、姉上」


 地の底の仄かに薄暗い泉の淵に二柱の神がいた。泉には地上の混乱ぶりと、ガラテアがあの後城を出てマリオンを埋葬し、人気のない場所で暮らしているさまが映し出されている。


「とんでもないこと? 人間を恐れた君たちが、王という枷を人に嵌めたことこそ、彼方の方に対する叛逆、よほどとんでもないことじゃないか。人間の無限の可能性を閉ざす、恐ろしい所業だ」


 この姉弟神の姉の方は言うまでもなく、この地底の女王、陽の当たらぬ全てを統べる彼の神であり、弟と言えば、陽の当たる全てを統べ、天に連なる神々の主であった。


「我々は人間をより良い方向に導こうとしていた! 世界を混乱させている姉上や、姉上以外、誰も存在を知らない彼方の何某とは違う!」

「そう言って、何百年、世界は停滞していた? 君たちはただ人間を恐れていただけだ。彼らがこのまま世界の神秘を解き明かし、事象を全て解明していく中で、神は否定され、信仰は薄れ、消え、忘れ去られるだろう。そうなれば神は消滅する。定められた役目しか持たず、しかもいずれは神秘とともに消える運命にあると知って、君たちは無限の可能性を持つ人間たちに嫉妬し、恐れ、そして飼いならそうとした。だけど今こうして神が人を飼う時代は終わる。これからは人が人を導く時代だ。……マリオンには悪いことをしたな。彼女がもっと後に生まれていれば」


 この姉弟神は事あるごとにこのように争い、そして神々の多くは天の主たる弟が作り出していたために、姉たる夜天の公主は天を追われ、このように地の底にいるのであった。


「よくもそのようなこと……人の死を見て愉しんでいるくせに!」

「刹那を生きる人間の煌めきは、死の際にあってこそより輝くというものでしょう? 生への渇望や、死の恐怖を超越する強い感情、人の生き汚さと高潔さ、今の私達が持ち得ない、素晴らしく美しいものじゃないか。美しいものは見て触れて楽しむものだよ」

「……話にならない!」


 そう言って一柱の神が天へと帰った。残された神は泉にまた別の光景を映し出した。マリオンが凶刃に倒れ、ガラテアが慟哭するところだ。


「結末を望むなど、未来も見えず、定め得ず、導こうにも失敗する、私には恐れ多いことだよ。それに私にとってはマリオンがこの地の底に来るのも、あるいはこうして躯を晒すのもどちらに転んでも美味しいもの」


 泉には何度もマリオンの死に際が繰り返されて映し出され、神は泉の淵でそれをずっと見ていた。


「だが、そうだね、マリオン。君を犠牲にして悪かったと思う程度には、私は君の才を惜しむらしい。君は私にない全てを持っていた。限りある生、美しいものを生み出す力、人を導く力、自らの生を投げ打つ高潔さ」





――君は美しかった、マリオン。


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