人なるもの
一
「お頭、船倉に紛れ込んでいたやつが!」
密貿易船ワルキュリアスの甲板上に二人の男が現れた。一人はこの船の主計長であり、片手で人一人を持ち上げる熊のような大男だ。そして彼に持ち上げられて連れられた優男といえば、くすんだ金の髪、舞台俳優のような顔立ち、鼠色の外套に、首からはリュートを下げており、そして何より白濁した瞳が彼を盲者であると告げていた。
「なんだ、吟遊詩人の類いか? 密航者は海に突き落とすのが船の掟だぞ、ダグラス。わざわざ俺に聞く必要はねえ」
「お頭、それが、こいつが言うには魔術師だそうで。海に突き落とせばこの船を呪うと」
船乗りにとって魔術師は恐るべき存在だ。彼らにかかれば風が吹くも吹かぬも意のまま、雷雨を呼ぶこともできるという。その数は少なくいささか誇張されているといっても、魔術師という未知の存在は迷信深い船乗りにとって恐怖の対象だった。
「魔術師だと? こんな世界の端に魔術師がいるか! それに魔術師ならこんな見窄らしい格好で、吟遊詩人の真似事などしているはずがねえ。海に突き落としちまいな!」
だが、お頭と呼ばれた男は現実の魔術師というものを知っていた。彼らは五王国のどこであっても最高の待遇で迎えられ、その生活は上級貴族にも匹敵する。目の前の男のような見窄らしい存在ではない。
「待て、船長よ。この白濁した瞳が貴方を捉えるのを見て、まだこの私が騙りだと言うか」
魔術師の口から確かにお頭の瞳を捉えて、そんな言葉が出た。お頭と男が睨み合うかのような形だ。目が見えていない男には不可能に思われることだった。
「ふん、そんなもん、俺の声から場所を推測したんだろう。高さまでぴったりなのは褒めてやるぜ。魔術師だって信じてほしけりゃ確かな証拠を見せな。おい、こいつの身包みを剥いで海に投げ捨てろ!」
お頭の指示でダグラスによってリュートを外され、外套を剥かれると、首からもう一つ銀の細い鎖をかけているのが見つかった。その先は服の内側に入り込んでいるが、このような魔術師騙りが持っているのに相応しくないように思われた。だがそれを外すためにダグラスが手を伸ばそうとした時、黒い影が伸びてその腕を払った。ダグラスは払われた瞬間に、恐怖に直接触れたように感じ、恐ろしさと驚きのあまり腰を抜かし、背中から倒れ込んだ。見ていれば黒い影は宙にとどまり、そしてそのまま黒い犬をかたどった。人間と同じほどもある大きさで、目に当たる部分には赤い光が輝いていた。
「やれやれ、穏便に事を済ませたかったのだが。これが私の使い魔、バーゲストだ。どうかね、船長。使い魔を連れる者など魔術師しかいない。これでもまだ私を疑うか?」
お頭はあからさまに顔をしかめたが、諦めたように両手を上げ、悪態をついた。
「けっ。まさか本物とはな。魔術師様がなんでまたこんなところに」
そこでお頭は言葉を切ると、恭しく、そしておどけたように続けた。
「言っておきますが、魔術師様。この船には貴賓室もなければ、食事は最悪。おまけに目的地はこの世の果て、アンクル島。毎日のように揺れに襲われ、七つの山が煙を吹き、空はどんより灰被り。悪い日には火まで吹く。そんな所ですよ。別の船とお間違いじゃありませんか? それとも、そのお犬様に守らせている物と、何か関係があるんで?」
魔術師はダグラスが放り出した外套やリュートを拾いながら一瞬逡巡し、口を開いた。
「間違ってなどいない。お前たちも知るように、ヴァイスシュヴァイク王国から、弥終の島、アンクル島へ向かう船はこれしかないのだからな。そしていかにも、島へ向かうのはこれが関係している。知りたいと言うなら聞かせてやろう。この宝玉の恐ろしさをな」
そうして魔術師は静かに語り出した。
幕間
ある山の火口から噴煙に紛れて一羽の鷹が飛び出した。夜闇に溶ける翼は人の体よりも大きく、その凶星の如き赤い瞳は、鳥にあり得ざる知性を湛えていた。鷹は瞬く間に世界の空を数度旋回し、その夜の全ての出来事を見て取った。そして自らが探し求めるに最も近い獲物を見つけると音も立てずに降り立った。
ニ
ヴァイスシュヴァイク公領の公都の薄暗い裏路地に、然る少女がいた。殴られた顔は赤く腫れ、見るにも耐えぬ様で、しかしてその腹は年不相応に膨らんでいた。太っているのではない。そこにはもはや誤魔化して店に出ることもできぬほど育った生命が宿っていたのだ。
少女は娼婦だった。だが、子を孕んだことが発覚するや楼主は怒り狂い、少女を痛めつけて放逐した。最下層の娼館の衛生環境はお世辞にも良いとはいえず、そんな環境で子を産むということは命がけであった。ましてや幼い少女となればなおさらだ。楼主はこれ以上数多いるうちの一人である少女に手間をかける気にはなれなかった。仮に産ませたとして、赤子を売るのも、少女の遺体を捨てるのも楽ではない。ともすれば妊婦専門の妓楼に売り払うところだが、少女に温情をかけたとも言える。
しかしその温情が少女を途方に暮れさせていた。少女は物心付いた頃から街に立っていた。今更これ以外何をすれば良いかもわからないのだ。このように腫れ上がった顔では仕事はもちろん、ただ喋るということすらも苦痛であり、今日を生きる日銭を稼ぐのもままならない。しかし、食べ物を盗むという発想すらないほどに、少女は娼館の外の世界を知らなかった。
そうして少女が路地裏で途方にくれていると空に一匹の鷹を見つけた。それはあまりにも大きく、こちらに一直線に襲いかからんばかりに降りてくる。まさしく怪鳥であり、他人に見られれば大混乱に陥ったであろう。だが少女にはもはやそれが現実か、あるいはあまりの空腹ゆえに見える夢幻かの区別もつかず、ただ見つめるだけだった。
大鷹は音もなく優雅に民家の屋根に止まった。少女は仰ぎ見るようにその大鷹を目で追い、そしてその深紅の瞳と目があった。
「この夜の中で最も不幸にして無垢なる少女よ、我が主、夜天の公主にして、地の底の女王、この世の真なる美を生み出せしお方が、汝の境遇を憐れみ、この宝を与えるとのことだ。受け取るが良い」
少女は大鷹がどこからか取り出した、尋常ではない妖しい蒼い輝きを放つ宝玉を受け取るまで、ただ目の前の出来事を呆然と眺めていた。宝玉はこれがまた見事な装飾の施された銀の指輪の台座に収まっており、また不思議なことにどの指につけても、大きさを違えることがなかった。少女は指に嵌めた指輪の重みで、ようやくこれが夢ではないことを認識すると、途端に驚愕した。このような大きな鷹がいること、路地裏とは言え通りはそこまで離れていないにも関わらず、通行人の誰ひとりとしてこの大鷹に気づかないこと、そして何よりその鷹が喋り、あまつさえこのような魔法の宝飾を渡すということなどありえないことが、いくら物知らぬ少女にも分かったのだ。
「こ、これはなに? これ一つでギンカサンマイがいくつもらえるの? どうして私にこれをくれるの?」
少女は未だ飛び立つ様子を見せない大鷹に向かって矢継ぎ早に質問し、そして再び驚愕した。先程まで腫れ上がって喋ることも苦痛だったはずの顔が、治っていることに気付いたのだ。それだけではない、体の傷が、汚れが、全て消えていたのだ。
「それなるは、世にも稀な青深き金剛石。それも地の底の国で最も素晴らしい職人が加工した珠玉の品だ。ギンカサンマイがいくつかだと? 馬鹿馬鹿しすぎて比べる気にもならんわ。欲深な人間どもがどれほど金貨を積もうとも、これほどの品を手に入れることはできん」
その答えに少女は三度驚愕した。ギンカサンマイ――銀貨三枚は少女にとって唯一にして絶対の価値基準、自らの一夜の値段であったから。通貨の概念すら知らずとも、客が店にギンカサンマイなる物を渡して、その対価が自分であることを少女は知っていた。そしてそれと、比べ物にもならぬほどの物とは一体どれほどの物なのか。一夜どころではない、自らの一生よりも価値がある物だと少女は気付かされたのだ。
「どうして、これを私に? 私がほしいのはこんな物じゃない。今の飢えをしのげるパン、毎日を生きられるだけの仕事なのに」
彼女にとってパンとは仕事の対価として与えられるものであり、何かを売買するという概念を、彼女は持っていなかった。
「我が主は汝のその境遇に同情し、また、その無垢、貨幣の魔物が心に巣食っておらん様を見て、戯れにお与えになったのだ。だがもし、それをパンに代えたいと言うなら、表通りにある最も大きい店舗を構える商会に、それを持ち込むが良い。真っ当な善人ならば、とてもそれに値をつけることなどできん。だが、凡百の商人ならばそれを汝が望むだけのパンに代えてくれるだろうよ」
そう言ったが最後、大鷹は羽ばたいて夜闇の何処かへ消えてしまった。少女は大鷹の言ったことが半分もわからなかったが、とりあえずその宝石をパンに代えるため、表通りを目指した。
少女は表通りの中でも一際大きく、一際明るい建物に入った。たまたま店番をしていた番頭は、少女を見て、まず眉をひそめ、次いで少女のちぐはぐさを不思議に思った。その身なりといったら、まるでボロ布のようだ。だが、それにも関わらず、肌はシミひとつなく、髪は輝くよう、しかも見たこともない宝飾を手にしている。平民でも貴族でもない、今まで出会ったことのない人物なのだ。
「本日はどのような御用でしょう、お客様」
とはいえ、たとえどんな人物でも客である限りはもてなさなければならない。番頭は少女について考えるのをやめ、仕事のための思考に切り替えた。
「ここに来れば、これを好きなだけのパンと交換してくれるって聞いたんだけれど……」
そう言って少女はおずおずと宝石を指から外した。番頭はこれを聞いてますます不思議に思った。どうやら目の前の存在は、ここがどういう場所なのかも、あるいは貨幣や商売の概念すらも知らないらしいことを悟ったのだ。そしてその申し出を聞いて、改めてその宝石を見ても、この素晴らしい宝玉に一体どれほどの値をつければよいのか、番頭には全く分からなかった。そこで丁稚を呼び、急いで会長の家へと走らせ、自分は少女をここに留めておくことにした。
「お客様、どうぞこちらへ。今、会長をお呼びしますから、それまでお茶でも飲んでお待ち下さい」
番頭は応接室への扉を開け、少女は言われるままにおずおずと部屋に入った。そしてそこに置かれている体が沈むようなソファに座っていると、給仕がお茶と焼き菓子を運んできた。
「あの、これ食べて良いんですか?」
「ええ、どうぞ」
焼き菓子を一つ食べて、少女はその甘さに感動した。こんなに甘いものは食べたことがない。しかも、それがいくつも無造作に積まれているのだ。
「これ、凄く甘いです。ほ、本当に食べていいんですか?」
「ええ。我々はこの特別な砂糖を商ってここまで大きくなったのです。心配には及びませんよ。会長が来るまでごゆっくりどうぞ」
三
エルッキ・オッコネンは北方に位置する小国の寒村に生まれ、食べても太らない特別な砂糖によって、一代で商会を興した。故郷に群生している樹の蜜から精製されるそれは、特に貴族や王族の女性に飛ぶように売れた。
エルッキが寝る前に帳簿を付けているところ、来客の知らせがあった。丁稚のヤンである。
「どうした、ヤン。何か起こったのか?」
「はい、会長。それが、不可思議な女の子が、指輪を売りたいと」
エルッキは不可思議な、という部分に興味を惹かれたが、しかし、納得はしなかった。寒村にいた頃からの親友であり、番頭であるヘンリッキがその程度で自分を呼ぶはずもない。
「ヤン、もっと詳しく話しなさい。その程度なら、ヘンリッキは自分で判断できたはずだろう」
「はい、会長。えっと、その。なんだか不思議な女の子だったんです。スラムの子供だって着ないようなボロ布を着ていて、けど、髪は蜂蜜のように艶があって、しかも肌は白磁みたいなんです。あまりにも服とギャップがあって、なんていうか、ぜんぜん、どんな生まれなのか分からない感じです。しかも、持ち込んできた指輪も土台には不死鳥や竜が彫られていて、しかも見たことないくらい大きな青い宝石が嵌められていたんです。宝石自体が光を反射して無数の青に輝いていて、ヘンリッキ様もとても自分では値をつけられないとおっしゃっていました。あ、そう言えば、女の子は変なことも言っていました。なんか、売るんじゃなくて、パンと交換したいとかなんとか……」
エルッキは話を聞き、なるほど、不可思議だと納得した。
「なるほど、たしかに判断できかねることだ。どれ、直接会おうじゃないか」
そして奴隷に馬車を用意させ、店の裏に付けさせた。裏口から入れば、音で気付いたのかすぐ出迎えの者が来る。
「お疲れ様です、会長。お疲れのところ申し訳ありません」
「気にしなくていい。それより、例の客はまだ残っているのか?」
「はい、応接室に。ヘンリッキ様が対応されています」
応接室へと向かいながら現状を確認していく。背格好などは話に聞いたとおりで、なんでも甘いものに関心を持っているようだ。だが、この商会のことも、あの砂糖のことも知らなかったようだ。
「入るぞ」
エルッキは一言声をかけてから応接室の扉を開け、中に入った。ヘンリッキが立ち上がろうとしていたが、手で制止する。そして例の客を見ようとして、机の上にある指輪に目が惹かれ、そして驚愕した。こんなに素晴らしいものが、この世に存在していたのか。なるほど、たしかに価値をつけかねる。しかもパンと交換などとは。
「お客様、大変お待たせしました。私がこの商会の会長、エルッキです。お客様は、なんでも、こちらの指輪をパンと交換することをご所望だとか」
「えっと、はい。ここならできるって聞いて」
エルッキはありふれた挨拶をしながら、目の前の少女を観察した。たしかに、美しい髪に肌だ。そしてまさにボロ布のような服である。だがエルッキは目を見て悟った。この女は高貴な出ではあるまい。あるいはそうだとしても相当疎まれているであろうと。少女の生気を宿さない目は、奴隷の目だ。明日何かやろうとか、やりたいとかそういった希望を宿していない。だが、万が一ということもある。
「お客様。大変申し訳無いのですが、私共にはこれに値するパンを支払えそうもありません。いえ、それどころか、恥ずかしいことですが、これに果たしてどれほどの値をつければよいのか、全く想像もできないのです。全く申し訳ありません」
エルッキはしばらく考えた後、そう言って頭を深々と下げた。ヘンリッキは驚いたが、続いて直ぐに頭を下げた。
「え、そんな……。わ、分かりました。頭を上げてください」
「誠に申し訳ありません。出口まで、お見送りさせていただきます」
エルッキは少女に立ち上がるよう促し、出口まで見送った。少女は残念そうに、トボトボと去っていった。
そしてエルッキは、馬車の御者として連れてきた奴隷に静かに命じた。
「エドガー、今出ていった少女を追いなさい。そしてもしスラムに留まるようなら、分かるな?」
「はい、ご主人様」
エドガーは少女の後を追っていった。エルッキは凡百の商人でもなければ、真っ当な善人でもない。時にあくどいことにも手を染めて一代で大商会を築いた、稀代の商人なのである。
翌朝、エルッキの指には蒼く輝く宝玉の指輪が嵌められていた。幼い妊婦の死体が川に上ったことなど、誰の口にも上らなかった。
四
エルッキは指輪を手に入れてからと言うもの、毎日その指輪を嵌めて仕事をしていた。だがヘンリッキから、あまりに素晴らしい指輪なので、商談中にしていてはエルッキの清貧なイメージを損なってしまうと言われ、泣く泣く指輪を外し、誂えた豪華な箱に保管した。そして毎朝毎夜、保管箱から取り出してはその指輪を愛でた。
だが、ある日のこと、仕事から帰ってきたエルッキが、指輪を愛でて疲れを癒そうと保管箱を開けると、指輪は入っていなかった。
「ない! ない、ない、ない、ない! どこだ、どこへ行った!」
指輪が入っているはずの保管箱や、それが入っていた引き出し、棚、その周りを全て漁るが、あの蒼の輝きを見つけることができない。そのことがエルッキを余計に焦らせ、一種の錯乱状態へと陥らせる。
「馬鹿な、今朝までここにあったはず……。一体どこへ」
しばらく探すものの見つからない。使用人に聞いても部屋には立ち入れないので分からないと言う。
「旦那様、奥様がお戻りになられました」
「ん、ああ……。今行こう」
エルッキは使用人に言われて、妻が公爵夫人のサロンに招かれていたことを思い出した。どうやら終わって帰ってきたらしい。妻ならば、もしかしたら知っているかもしれない。
「遅かったな、ヨゼフィーネ……。おい、何だ、その指にある物は。なぜお前が着けている、ヨゼフィーネ!」
エルッキは帰ってきた妻を見て目を見開き、そして激怒した。彼女の指にはあの指輪が嵌められていたのだ。エルッキは近づいてその指から乱暴に指輪を奪いとり、自分の指に嵌めた。
「この指輪は私のものだ。いくらお前が男爵家の娘でも、これだけは渡さんぞ!」
ヨゼフィーネは貴族への販路と箔付けのために事業に失敗した貧乏男爵家から貰った嫁であった。エルッキは協力を得るために様々なものを買い与えていたが、この指輪だけは決して触れさせるつもりはなかった。
「この指輪にどれほど価値が有ることか。お前のような価値の分からん女が着けて良いものではないのだ!」
エルッキは怒りに任せて妻を激しく罵り、さらには打擲しようとした。だが、振り上げた腕が下ろされることはなかった。エルッキの腕を若い男が掴んでいたのだ。
「まあ、まあ、落ち着いてください」
全く何の特徴もない、平凡な顔の男だった。おまけにかすかに微笑みを浮かべ、怒りも過ぎ去り多少冷静になるほどだった。
「これは、客人がいたとは気付かずに失礼を。見苦しいところをお見せしてしまいましたな」
「いえ、これほどのもの。大事にしまっておきたい気持ちは良くわかります。しかもそれがまさか、勝手に持ち出されてしまっていては。しかし、奥様もこうして反省しておりますから、ここは一つ、怒りをお収めください」
客人にこうまで言われてしまっては、エルッキも少なくともこの客の前では落ち着いたように振る舞わなければならなかった。
「ええ、そうですな。ヨゼフィーネ、お前はもう下がっていなさい。おい、誰か。お客様を応接室に」
エルッキの言葉を聞きつけて、主人の怒りを避けて部屋の外にいた使用人たちがヨゼフィーネの手を引いて連れ出し、若い男を応接室へと案内した。
エルッキは軽く身だしなみを整えてから、応接室へと入った。
「お待たせして申し訳ありません。この度は一体どのようなご用事でしょう。どこか高貴なお方の従者様とお見受けいたしますが」
もっともこのタイミングで来る用事など一つしか無いとエルッキは考えていた。
「お察しの通り、私はヴァイスシュヴァイク公の近習、マクシミリアンと申します。我が主はたまたまサロンにお越しになっていた奥様を見て、あの指輪を大層気に入られまして、譲り受けたいと仰せです。無論、謝礼は相応のものを用意するとも仰せです」
――やはりそうか。そうは思ったが、しかしエルッキはこの指輪にどれほどの大金が積まれようとも決して譲るつもりはなかった。とはいえ彼の有名なヴァイスシュヴァイク公の考える指輪の価値と言うものも気になり話を促した。
「ほう、それは。この指輪に相応の謝礼ともなれば、相当なものなのでしょうな。一体どれほどのもので?」
「我が主は、もしその指輪をお譲りいただけるなら、貴方方に領内で関税を免除する特許状を発行すると仰せです。特許商人になるということは、ただ関税を免除されるだけでなく、その名誉や信用も得るということです。それがどれほど商いにおいて利益に成るか。商売に疎い私にも分かるほどなのですから、貴方にもよくお分かりと思います」
王領や公領の特許商人になることは、商人ならば一度は夢見ることだ。エルッキはなまじ商人として大成しつつあるだけに、いずれは特許商人になることも可能だと考えていた。
だがこの指輪に比べれば、そのような夢、如何ほどのものだろうか。この指輪の素晴らしさと言えば、たとえ金山の採掘権であろうと値はしない。
「どうやら、ご不満のようですね?」
「おや、顔に出てしまいましたかな。ええ、残念ながら。私もこの指輪を得る前なら、宝石一つで特許状が頂けるなら安いものだと考えていましたが、しかしこれを知った後となっては」
その言葉を聞いて、マクシミリアンはエルッキの指に嵌められている指輪を見た。そして納得したように頷くと立ち上がって言った。
「分かりました。そのように我が主に申しておきましょう。もっとも我が主もそれで諦めがつくような方ではありませんから、またお会いするかもしれませんね。それではこれで」
エルッキも立ち上がり、玄関まで見送る。エルッキには、これで特許商人への道が絶たれたかもしれないというのに、全く後悔はなかった。
五
「……と申しておりました」
「ふん、業突く張りの悪徳商人めが。あのような至宝、どこでどうやって手に入れたか知らんが真っ当な手段ではあるまい。この四英傑たる儂がせっかく譲歩してやったと言うのに断ったこと、必ず後悔させてやるぞ」
豪奢に設えられた一室で二人の男が話していた。平凡な顔の男、マクシミリアンとその主、ヴァイスシュヴァイク公アルブレヒトである。アルブレヒトはかつて王国統一の際には現王とともに戦場で腕を鳴らし、他の三公爵とともに四英傑などと呼び習わされていたが、今では醜く肥え太り、かつての勇姿は見る影もない。
「マックス、前々から調べさせているあの砂糖は何か分かったか?」
アルブレヒトは以前からエルッキが扱う砂糖の販売を自らの手の者で行うことを画策していた。そうすれば王国内でさらに自らの影響力が増すからである。
「どうやらあれは北方で生えている樹の樹液を用いているようです。詳しい精製方法は分かりませんでしたが、砂糖の出処を探ったところシラカバの群生地帯ばかりでした。北方諸国に分散して生産拠点を持っているようです」
公爵家の情報網は異国にまで及び、短期間で成果を上げていた。
「そのシラカバはこっちでは育たんのか?」
「この辺りでは見ることもありませんね。魔術師を動員すれば話は別でしょうが。それに、樹もすぐ成長するわけではありません。北方から成木をそのまま持ってこれるかどうか……」
流石に貴重な魔術師を使ってまで砂糖を作ることはできない。今でさえ、危険はないとは言え、貴重な工作員を派遣しているというのに。
「自分で生産するのは無理か。仕方がない、あの商会を引き込むしかないようだな」
「しかし、つい先程特許商人への誘いを断られたばかりです。如何致しましょう?」
マクシミリアンは彼の商会を引き込めるか疑問だったが、しかしアルブレヒトはその姿はすっかり変わってしまったとは言え、その狡猾な智略は健在であった。
「なにもあの男をこちらに引き込む必要はない。ようは商会のルートが手に入ればよいのだ。聞くところによれば、そのエルッキとか言う男、普段は温厚ななりをしているが、その実、気性が荒いところもあるようではないか。関税を引き上げ、奴と取引している商会には手を引かせろ。奴も砂糖だけを商っているわけではないはずだ。外圧を加えた上で、内部で不和を煽れ。そうだな、番頭が会長の地位を狙っているとか、なんでも良い。疑心暗鬼にさせ孤立させるのだ。しかる後に誰か別の人間を立て、その首を挿げ替えようではないか」
「離間工作にはそれなりの資金と期間が必要になりますが」
「あの至宝を手に入れるためなら、いくら掛けても良い!」
その一声でマクシミリアンの次の仕事が始まった。
幕間
エルッキ・オッコネンは近頃常に不機嫌だった。毎日朝も、昼も、夜も指輪を愛で、一日中指に嵌めていも収まらない。公爵の特許状を断って早数ヶ月、商会が主に扱う砂糖の関税はまず二倍になり、二週間で三倍、今では五倍にもなっていた。さらには、富裕層に人気のある北方の毛織物や彫刻品の取引も断られている。砂糖を運ぶ際にこちらから持って行く荷も仕入れることができない。砂糖は値が上がってなお、未だ取引できているが、このまま値が上がればどうなるかは明らかだ。しかもこの頃は規定の量がミスにより届いていないことも頻発している。全くもって腹立たしいことである。そのためか、エルッキは使用人や従業員のほんの些細なミスにも激しく怒鳴り、打擲することも多くなっていた。
その度にヘンリッキがなんとか場を収めていたため、従業員たちの間では、エルッキのことは腫れ物に触るような扱いになり、逆にヘンリッキの人気は高まっていた。
今では、ヘンリッキ様が会長になればいいのに、などとの陰口が聞こえてくる始末である。
――冗談ではない、この商会を築き上げたのはこの私だ。
エルッキは次第に商会内で孤立していった。
六
「どういうことだ。説明しろ、ヘンリッキ!」
商会の応接室にエルッキ、ヘンリッキ、そしてマクシミリアンの三人はいた。
「銀行の融資でなんとかやってきていましたが、もう限界です、会長。公爵様に慈悲を乞うしか無い」
「そうではない、これはどういうことかと聞いているんだ!」
エルッキはヘンリッキに契約書を突きつけた。その内容は商会の経営権をヴァイスシュヴァイク家に譲るかわりに、現在の負債もまたヴァイスシュヴァイク家が負担するというものだ。だがそこには条件が二つあり、一つはエルッキ・オッコネンの解雇。そしてもう一つが指輪の引き渡しだった。ヘンリッキの名で署名がされている。
「この指輪は私の物だ!」
「融資の返済期限は今日まででございますよ。満額返済してくださると言うなら、私共も追加の融資を考えないではありません」
マクシミリアンは、今日は銀行の頭取としても商会を訪れていた。とは言え、エルッキがその銀行がヴァイスシュヴァイク公のものであることを知ったのは、マクシミリアンが訪れたからである。
「くそ、そんなことができるか! ヘンリッキ、私を裏切るのか! 誰がこの商会をここまで大きくしたと思っている! 誰が、あの砂糖を考えた! 恩を仇で返しよって!」
「会長、いや、エルッキ。もうあんたにはついていけない。もう俺達は村で悪さしてたときみたいに二人だけじゃないんだ。従業員らの面倒を見てやらないといけないんだよ。俺にも家族がいる」
そう言われてエルッキはもはや、避けられぬ運命を悟った。
「だが、これは渡さんぞ! 家でも商会でもなんでも持っていくが良い! こいつだけは渡さん!」
「やれやれ。物分りの悪い人ですね。貴方はもう少し賢いと思ってましたが。貴方の家なんて大した額にもなりません。それじゃあ、全然足りないんですよ……。衛兵!」
マクシミリアンは窓を開け、外に待機させていた数人の衛兵を呼んだ。
「分かっているでしょうが、債務の不履行は強制労働刑です。連行しなさい」
マクシミリアンの一言で衛兵がエルッキを取り囲み、抵抗するエルッキを連れて行った。無論、あの指輪を取り上げることも忘れない。
「さて、これにて条件は揃いました。私もこの負債はヴァイスシュヴァイク家から取り立てるとしましょう。ああ、それからこちらにもサインを」
マクシミリアンは冗談めかしてそう言った。無論、ヴァイスシュヴァイク公が設立した銀行であるから、負債は全く問題にならない。そして今、もう一つの契約書が提示された。ヴァイスシュヴァイク家は商会の経営をヘンリッキ・カイヤライネンに委託するというものだ。
斯くして、ヴァイスシュヴァイク公は蒼の至宝を手に入れ、ヘンリッキは商会長になった。エルッキはと言うと、翌日牢屋で首を吊っているのが見つかった。
七
その通告はあまりにも唐突であるように思われた。
――公は公たる身分でありながら、王に与えられるが如き神の奇跡を手にしていることはあり得べからざることである。しかるに今から月が欠け、満ちるまでにその神器を我がもとに届けるべし。
ヴァイスシュヴァイク公アルブレヒトのもとに王から届いた通告はあまりにも唐突であり、また、到底納得の行くものではなかった。
「アレクサンダーめ、耄碌しよったか。戦では我らに頼り切りだった優男が。目にもの見せてくれようぞ。一体誰の力で王国を統一できたのか思い出させてくれるわ」
アルブレヒトはこの通告を拒否した。その後も再三に渡り通告がなされたが、その全てを拒否するとついには国王アレクサンダーもその重い腰を上げ、出兵した。
国王アレクサンダーは他の三公爵にも逆賊討つべしと檄文を送ったが、当然のように無視された。公爵家を軽んじる今回の通告は他の三公爵にとっても唾棄すべきものなのである。当然その王に協力などできない。
戦いはシュトラスベルク平原で行われることとなった。さらには国王と公爵がそれぞれの総大将を務めており、激戦が予想された。兵力は国王軍三万に対して公爵軍は四万五千。数の上では公爵軍有利だが、国王軍のうち三割は常備軍であり、兵全体の質は公爵軍に勝っていた。
アルブレヒトは鶴翼の陣を敷き、また彼の指輪はもちろん、ダイヤモンドの散りばめられた黄金の鎧を身に纏い、開戦前から、中央でその存在をアピールする。敵中央を釣り出して突出させ、数を活かして左右両翼から包囲、殲滅する作戦である。
事前に定められた時間に、戦闘は始まった。まずお互いに弓で応戦し、そして距離が十分に近づくと槍を激しく交わす。
アルブレヒトの目論見通り、中央部は左右両翼に比べ王国軍の攻勢が激しく、激戦となった。公爵軍も重装歩兵が敵を受け止め、巧みに後退していく。アルブレヒトも体は衰えたとは言え、その指揮、戦術には陰りは見られなかった。
だが、戦は水物。戦場では何が起こるか分からないものだ。王国軍中央が突出に気付いて下がろうとした時のことだ。アルブレヒトはいち早くそれに気づき、すかさず一歩前に出て叫んだ。
「遠からん者は音に聞け、近くば寄って目にも見よ! 我こそは四英傑が一人、アルブレヒト・フォン・ヴァイスシュ――」
敵を引き寄せるための名乗りは、最後まで続くことはなかった。王国軍がアルブレヒトに弓を射かけたのだ。通常その矢が重装鎧を貫くことはないが、視界確保のためのスリットを通してたまたま矢が突き刺さり、倒れ込んだのだ。
王国軍はこれを好機と見てすかさず前進した。アルブレヒトのもとに群がり槍で鎧の隙間を幾度も突き刺した。その度に鎧から金切り声が上がる。公爵軍も救援に向かおうとしたが、初め倒れたことによって戦死したように見えたことや、敵が勢いづいたことでそれは叶わなかった。アルブレヒトは痛みに絶叫しながら息絶えたのだ。
王国軍はアルブレヒトが死してなおその死体に群がった。何せ金に金剛石の鎧である。一部でも持ち帰れば平民は数年遊んで暮らせる物だ。アルブレヒトは足や腕、指の一本一本に至るまでばらばらにされ、無残な死に様を晒した。
これにより王国軍有利に一気に傾くかと思われたが、そうはならなかった。公爵軍の副将を務めていたマクシミリアンが総指揮を引き継ぎ、アルブレヒトの弔い合戦だと、全軍を鼓舞したのだ。中央は十分に突出したため、両翼を閉じ、包囲網を形成する。そして騎兵で左右から突進を繰り返し、王国軍を屠殺していった。
国王とその近衛が這う這うの体でなんとかその包囲網を抜けたが、残りは酷い有様で、ほとんど助かることはなかった。
この戦いを機に、四公爵家はそれぞれ王国から独立を宣言した。統一されていた王国は崩壊し、再び戦乱の時代が始まったのだ。
そして彼の神秘の体現は、この戦を経て一時は失われていたが、再び世に出ると数々の富豪、権力者がこの至宝を巡って百年以上も相争った。
八
「それで、その神秘の体現とやらが、その首から下がってるってのか?」
甲板上から場所を変え、船長室で魔術師とお頭が話していた。
「そのとおりだ。これには見る者の物欲を増幅させ、一度指に嵌めたなら決して捨て去ることのできない執着を生み出す呪いが掛けられている。おいそれと常人の肉眼に触れさせるものではない」
「だが、話によれば最初の少女はそれを売ろうとしたらしいじゃないか」
「彼女は奴隷で物欲というものがよくわかっていなかったのだろう。さらに物欲以外の欲望があればこの効果が薄れるということも我々の実験で分かった。だが、それでも指に嵌めてしまえばお終いだ。捨て去ることなどできなくなる。物欲がこれっぽっちも存在しない限りは」
お頭は話を聞き何やらとんでもないことに巻き込まれたのではないかと危惧した。そもそもこんなところに魔術師がいるということが常識の埒外である。
「分かった、要はそいつを見なきゃ良いんだな。おとなしく従うよ、魔術師様。ところで、なぜアンクル島へ?」
「アンクル島には地下世界への入口がある。我々はこれを元の持ち主、地下世界の主にして、夜天の公主、地の底の女王にこれを突き返すことを決めた」
「地下世界に、夜天の公主。本当に実在するのか? おとぎ話だろう」
アンクル島で生まれ育ったお頭は地下世界や女王の話も知っていた。しかしそれは飽くまでもおとぎ話としてだ。とても実在を信じることなどできない。
「ああ、存在している。夜天の公主は我々が古い時代に捨て去った神だ。大陸で陽神教が信仰を広げ、異教を根絶させたため、彼女は大陸からアンクル島へと追いやられた。古き神々の一柱だよ」
お頭には、そのような説明を聞いても全く信じることはできない。ただこの眼の前の魔術師が言うなら、きっとそうなのだろう。
「まあ、俺は深くは考えねえ。あんたを島に連れていけば良いんだろう? 魔術師様が乗っているなら心強い」
「ああ、よろしく頼むぞ」
お頭は少しでも早く島に着くように、甲板上に戻って指揮を取ることにした。魔術師は提供されたこの部屋でしばし眠ることにした。話を続けていて疲れていたし、密航中はろくに睡眠が取れなかったのだ。
幕間
アンクル島はその日も灰に塗れていた。七つの山は絶えず煙を吹き出し、日に数度は大地を揺らしている。この数日の間でお頭と魔術師は随分意気投合していたが、ついには別れを告げる時がやってきた。
「世話になったな、船長」
「はっきり言って、密航はもう勘弁してもらいたいもんですね。次は正面から堂々とお乗りください」
お頭は戯けて言った。
「ああ、そうするとしよう」
魔術師は苦笑しながら答えた。
「野郎ども、出港だ! 帆をはれ、錨を上げろ!」
そうして船は進んでいく。島に魔術師を残して。
九
地下世界への道は無明の闇だった。七つの山のうちの一つの火口が地下世界からの煙を吹き出しているのだ。そこには煙の他には闇しかなく、魔術の視界を持ってしてなお、足元が見えるのがやっとである。音もなく、空気すらも重い。だがそれでもただ前へと歩いた。現世にあってはならぬ物を、隠世へと返すため。
時間の感覚も分からなくなるほど歩いた頃、ついには光が差し込んだ。地下世界である。
そこはあまりにも地上とかけ離れていた。大理石と黄金でできた、数十階はある尖塔が立ち並び、道は馬よりも速く動くものが無数に駆けていた。街灯の冷たい光が日の差さぬ世界を照らし、何やら得も言わぬ良い香りが満ちている。
呆気にとられるとはまさにこのことだ。魔術師は歩いた疲れも忘れて、ただその光景に魅入っていた。
――満足いただけたかな、人間。
突然、そんな声が聞こえ、現実に引き戻される。あまりの寒気を感じて、背後に振り返れば、いつの間にか若い女が立っていた。無論、ただの女ではない。近くにいるだけで寒気すら感じる存在感。その身長は三メートルほどもあり、月光を溶かした白銀の髪と瞳、白雪も斯くやという肌、夜の全てで織られた天鵞絨の外套をまとっていた。魔術師に視線の高さを合わせて、その腰を曲げ、杖をついている。
「貴方は、まさか」
「いかにも。この私こそが夜天の公主。なんでも、私の落とした宝を届けに来てくれたとか。ありがたいことだ」
女は長い腕、そして長い指を伸ばし、鎖に触れ、持ち上げた。ただそれだけで、魔術師は竦み上がるような恐怖を覚え、バーゲストは鎖を守る使命も捨てて、どこかへと逃げ去った。
「ふむ、どうやら無事なようだな」
魔術師の首元から蒼く輝く金剛石が取り出される。鎖は女がほんの少し指を立てただけでたやすく切断され、地面に落ちた。そして指輪はまるではじめからそこにあったかのように、彼女の指に収まる。
「そろそろ回収しようかと思っていたのだ。都合よく持ってきてくれて助かったぞ、人間。対価に何を望む? 使い切れぬほどの金か、あるいは名誉か。比類なき魔力を望むか? 永遠の生を望むか? あるいは、その目に光を灯したいか?」
それは魔術師にとって思ってもみない提案だった。ただその使命感のみに突き動かされ、ここまで持ってきたのだ。その対価などとは考えたこともなかった。ましてや瞳のことなど。
「本当に、この目を治すことが出来るのか? この瞳は生まれつきのもの。どのような薬も魔術も効果はなかった」
聞いた魔術師は半信半疑だった。これまでありとあらゆることを試し、失敗した。だが、今回はあるいは。
「無論だ。では治してやろう」
女は魔術師の瞳に手をかざし、目を瞑らせた。
「地上に出るまでその目を開けてはならぬ。魔法で視界を得てもならぬ。目を瞑った無明の中をただ歩き続け、地上に出たと思ったならば目を開くのだ。もしそこが地上ならばお前の目は永久に光を灯すだろう。だが、もしそうでなければその瞬間にも光は永久に失われてしまうであろう。では、さらばだ、人間よ。ここは隠世、人の住まわざる場所。疾く去ね」
女の持つ気配が消えた。そして魔術師はゆっくりと地上へと歩き出した。
十
魔術師は歩いた。音もなく、空気は重く、そして今度は光すら無い道を。やがて再び時間の感覚が消えても、ただ惰性で歩き続ける。ただ光がないと言うだけで、こんなにも世界は恐ろしいものになってしまうのか。だが、それでも魔術師は希望を抱いて、地上へ戻るために一歩一歩前へと歩んだ。
そしてついに瞼の裏に光が差し込んだ。
――地上だ!
そうして目を見開き、暗闇の一歩先に光を見た。そして世界は再び闇に包まれた。ここは光こそ差し込んでいたが、未だ隠世の中だったのだ。
男は再び闇に囚われ、恐怖に囚われた。今度は希望のない、永遠の闇である。魔術師は視界を得る魔術を試した。しかし、何も変わらない。何も起こらない。光は失われたままだった。
魔術師は絶望した。この時も分からない永遠の闇の中で過ごすなど耐えられない。
あと一歩で地上というところで、男は息絶えたのだった。
――所詮は人間か。なんとも浅はかなことよ……。全く人なるものは、浅ましく愚かで、強欲。救いようもない。
弥終の地の底で神は嗤った。