表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

小雪の底に沈む

作者: だんごむし

 灯りもない路地を足音を立てて駆けていくものがあった。それは人間の形をしていたが手足は大きく、それにしては身軽な動きをしたものが。少女の顔と頭を覆う厳ついヘルメット、鉄のアーマーを着込んだ身体、手足はそれこそ鉄の塊といった具合である。そんなものが路地を行くのだ。

 少女がふと後ろを振り向いた瞬間、誰も彼もが寝静まった夜の街に大きな警告音が鳴り響く。窓という窓にいっせいにあかりが灯り、人影がちらついた。途端にざわめき始めた街、少女は焦り、転びそうになりながらもまだひた走る。そんな彼女を追い立てるかのように、または街のざわめきに拍車をかけるかのように警告音に声が重なった。

「特殊緊急事態E、特殊緊急事態Eが発生中。住人は家屋から出ず身の安全を確保せよ。繰り返す、特殊緊急事態Eが――」

 住人の人影たちはさっとカーテンを閉めて窓から離れた。立ち並ぶ家々の中はおそらく、幼子を抱えた家族や地下シェルターへの扉を開いて避難を試みる人などで大騒ぎになっていることだろう。時を同じくして街に向かって何人もの武装兵士が押し寄せ、その間も警告音は鳴り続けている。

「排除対象は人型武装兵器コユキ、見つけ次第破壊せよ」

「非常に高い戦闘能力を持った存在である。心せよ」

「逃亡を許してはならない。この街からけして出してはならない!」

 兵士達の間を指示が飛び交い、それに応じて彼等は展開、小隊を組んで目的物を探そうと走り出した。彼等に捕まっては一巻の終わりだ。裏路地の少女は警告音を耳にするとより奥へ、街の外側へ向けて再び駆け出す。兵士達の指示を盗み聞きするまでもなく目的物が自分であることは分かりきっているのだ。

 機械に包まれた異形の少女はまた一つ角を曲がり歯を食いしばって逃げ続ける――




 それはひどく冷え込んだ雪の日だった。鉛色の空が躊躇うように少しずつはらはらと雪を散らせるせいで、人々の視界にはいつも小さな白い花弁が舞ったのである。温暖な気候のせいか、この地域に雪が降ることは殆どない。それなのに今日は朝からずっとこんな調子であり、日が落ちて数時間経った今も雪は降り続けていた。僅かではあったが雪は積もり、道路や街路樹、街灯、店先の投売り籠、かけていく子どものフードの中、警備員が被る帽子のつばまでもが薄紙を被せたように見える。それは陰惨な戦争の影を忘れさせるほど儚げで物悲しく、見る者を束の間平和な夢へと誘う。

 そんな珍しい景色に心動かされる者は多くいた。大抵退屈を招くだけの天気の話も今日ばかりは違った。街の大通りでは世間話のついでに雪の話が持ち出され、子どものいる家の前には不恰好で小さな雪だるまが並ぶ。テレビの天気予報コーナーではゲストタレントがやや興奮気味に話している。夜だということもあって街に活気は無かったが、それでも平素よりは浮き足立っているように見えなくもない。

 しかし街の郊外に聳え立つ鉄の研究所。これだけは周りの景色などてんでお構い無しに稼動し続けているのである。冷たい蛍光灯の光を漏らすこの建物はとある兵装を開発する為の設備であった。当然戦争に投入される予定のそれは、説明するとすれば、人間に取り付ける義手義足と言うのが一番適切な表現だろう。様々なギミックを仕込んだ重量のある手足。それをコントロールするのは人工知能だけではない。真の指令塔は装備者たる人間の脳。単に強い人間の兵士を作ろうというのではない。研究所が作ろうとしているのは強力な戦闘能力と応用が利く思考、それを組み合わせた強力な兵器だ。まだ研究段階であったものの、完成すればこの戦争の勝利へ近付くことができると信じられていた。


 そんな研究所でこの日、ひとつの兵器が完成した。かの研究がついに一つの実を結んだといってよい。機体名はコユキ。名もなき少女を核として作られた肉と鉄の兵器である。少女の四肢は切断され、血の通わない鉄でできたそれに置き換えられていた。肘と膝に突き刺さった鉄パイプの中には、人体組織と鉄の回路をつなぐための線が通っている。隠されている接合部は繊細で、なるほど、少女の痩せ気味の身体に似合っていた。しかしその先の手足はやや不釣合いな程に大きく作られていた。グレーを基調とした鋼鉄の義手。それは空気圧と油圧を用いて出力が調整できる。今は制限がかけられているものの、その気になれば並みの人間の首など一ひねりで飛ぶ威力を出せるように設計されていた。当然これ以上の力も出すことができる。義足も同様の設計になっているがこちらには追尾機能が付いたミサイルなども搭載されていて、弾数こそ少ないものの、少々の敵をあしらうには十分な量であった。本来はこれとは別に兵器を積み込む手筈となっているので、積んであるものとしてはこの程度である。

 首から頭にかけてを守るヘッドギアの中には少女と機械をつなぐ作り物の神経が通り、それらは外殻の下を蛇のように這い回っている。神経の行く先は脳。頭蓋に空いた穴から肉に埋め込まれた電極に向かって親指の太さほどのチューブが何本も伸びている。これこそが兵装の要とあって、ヘッドギアは分厚く強固だ。

 そして一際目を惹くのが背中。そこにはやはり機械仕掛けの展開可能な翼が取り付けられている。これは短時間の滑空を可能にするもので、主な用途は敵への奇襲であった。高所より銃を持ち敵陣を攻める様は小型の戦闘機のようであると予測される。この翼は砲身に置き換える事も可能であり、移動が容易な砲台の役割を担うこともできるのであった。

 これだけでも十分異様な兵器といえた。しかしそれだけには留まらない。この兵器の特異性を表す一番の点は、人間と人工知能の二つの脳を使用しているということなのだから。

 コユキという兵器は四肢の動かし方を指示する人間のこゆきと、その他エネルギーや危機管理、四肢の状況を観察し適切なアドバイスをする人工知能のコユキの二人で構成されている。

 こゆきは研究所で生まれた親の顔も知らぬ少女だ。件の施設は兵器や薬の開発の為、軍上層部の指示の元秘密裏に検体となる人間を複数抱えていた。少女もそのうちの一人であることは語るまでもない。人工知能・コユキと出会うまで彼女に名前らしい名前はなく、検体番号K-1036という札で管理されていた。彼女は目立った能力も無い普通の少女で性格についても特筆すべき点は無い。研究所の教えるまま、思うがまま、使い勝手の良い検体として育ってきた。従順で検体としては優秀であったが、そのような存在はK-1036以外にも大勢いる。そんな彼女が何の因果か兵装の宿主として選ばれたのだ。彼女は当然困惑し、しかし実験や兵器開発の内容については特に反発も抵抗もしなかった。当然彼女にも研究や兵装について――これからK-1036の身に起こることについて簡単な説明はあったが、それを理解できるほどK-1036は利口ではなかったし、たとえ理解できたとしても拒否権などなかったのだから。こうしてK-1036は訳も分からないまま手術台へ上り、数日後には兵器コユキとして目覚めたのである。

 コユキは研究所で開発された戦闘の為の人工知能だ。人工知能は例の兵装の開発に最初から組み込まれていたパーツで、そのために生み出されたのがコユキである。それは研究所員から膨大な量の戦闘データや地形データを受け取ると、それを元に学習を始めた。その中には彼女が搭載される予定の兵装のことや、検体K-1036のことも知識として含まれていた。コユキは恐るべき学習能力を持った人工知能であり、瞬間的に正しい答えを導き出す事など造作もなかった。その範囲は周囲の状況把握やナビゲーション、作戦の提案、使用者のメンタル管理についてまで多岐にわたる。コユキ単体を別途利用する案も出たほどの出来であった。

 コユキが設計どおりの威力を持ちえるか否かは今後実施されるテストで分かることだが――彼女を作った研究チームは、これが成功であると疑わなかった。

 期待のまなざしと眩しい蛍光灯が照らす手術室の中、ついにコユキは目を覚ます――


 術後の経過を見るための数週間が過ぎ、それが何ら問題ないとされると新たな日々が幕を開ける。訓練とテスト、模擬戦、データ収集……そんなものが毎日毎日飽きる事もなく繰り返され続けていた。延々と同じ作業を続ける。時々改修などもあったが、研究所での二人の日常は灰色そのものであった。そして二人はそれに疑問を持つこともなく過ごしてきた。そんな生活を続けて一年と少し経った頃。そんなある日の夕方、一日の予定は全て終了し二人は自室に戻っていた。自室と言っても豪華なものではない。灰色の床に白い壁、壁と同色の天井は一年以上この部屋で過ごしてきたコユキたちにも素っ気ない他人のような態度をとるし、家具もスリープ状態に入るための装置が目立つ他は小さな棚など印象に残らないものばかり。部屋の隅では支給された本や小さな観葉植物たちが弱々しい葉を広げて住人を慰めようとしていた。そしてその様は天井から吊るされた無遠慮な監視カメラが全て記録している。

 夕方から夜にかけてこゆきはスリープ装置に横たわり、消灯時刻の訪れまで天井を眺めてぼうっとしているのが日課だった。こゆきとコユキの間に戯れのような会話が交わされる事もある。尤も、それは後ほど研究所員が参考データとして閲覧するので思い切った会話はできないのだが。

「ねえコユキ、コユキが生まれた時には雪が降っていたと聞きました」

「そうです。××××年×月×日、天気は雪、さほどひどい雪ではなかったと記録されています。この日から我々はコユキとして――」

「はい。分かってます。だってコユキのことですから」

 こゆきはくすりと笑った後――表情に出るような笑みではなかったが、コユキには少女の感情が動くのが分かった――眠気を追い払うかのように目をニ、三度瞬かせた。コユキは沈黙したままこゆきの言葉を待つ。人工知能が少女と気の合う性格を演じるのは簡単であった。事前に渡されていたデータと一年以上にわたる交流、それらを総合して計算するだけであったからだ。こんな時は急かさず言葉を待つ、それがコユキの導き出した答えなのだ。

「雪って、どんなものですか?」

「検索を実行します……ヒット、雪の映像がありました。閲覧しますか?」

「わぁ、見せてください」

 かしこまりました、という音声と共にこゆきの眼前には薄い透明な板が下りてくる。これは本来指示や簡易マップを表示する為のバイザーだ。その為映像を見るにはやや適さない。研究員に要請すれば小型のモニターくらいは貸してくれたかもしれないし、当然その方が綺麗な映像を見ることが出来ただろう。しかし二人にとってはバイザーを使って観るのが一番だった。

「真っ白ですよ、コユキ。あれは木、今度は屋根……あれは何ですか? 真っ白でとても小さくて、何人も一緒に並んでいますよ」

「ゆきだるま、と呼ばれる造形物です。雪を丸めたものを複数重ね、石や枝などで顔と手足を作ります」

「あんな形をしていたんですね。教えてくれてありがとう、コユキ」

「はい」

 その後もこゆきは歓声を上げたりコユキに質問を投げかけたりしながら映像に見入っていた。一つの映像が終われば次の映像、写真、絵、雪について書かれた本からの抜粋や地方のニュースまで。こゆきは飽きる様子もなく次々と見せてくれとせがむ。その要望に答え続けるコユキ。やがて時間は過ぎ、消灯を告げるアラームが鳴るまでそれは続いた。

「コユキ、私、いつか本物の雪を見てみたいです」

「その要請は――」

「分かってます。おやすみ、コユキ」

「……おやすみなさい。こゆき」

 コユキに人間のような情緒は備えられていない。あるとすれば学習の果てに獲得した能力だけだ。こゆきの小さな願いを記録することは彼女が作られた本来の目的にはそぐわない。記憶したとしても容量の無駄として消されてしまう可能性は十二分にあった。しかしコユキはその願いを記録しておくことにしたのである。


 コユキがこゆきに「今日は雪が降るかもしれません。外に出て一緒に見ませんか」と声をかけたのはその数日後であった。




 これが、コユキたちの持つ記憶の全てである。コユキが生まれてから374日。こゆきが声をかけられてから数時間。少女は兵装ごと研究所を脱出し、寒々とした街の裏路地をひた走っていた。まだ雪は降ってはいなかったが、人の影も無くただ暗いだけのこの場所は必要以上に気温が低いような気がしてならない。表通りの街灯が落とす光も届かない薄暗がりの中機械兵装の小さなランプだけがちらちらと揺れた。

「こゆき、もっと急ぎましょう。ここではまだ敵レーダーの補足範囲内です」

「は、はい……!」

「次の角を左、その先を真っ直ぐです。建物内に生体反応、照合……住人です。このまま走ってください」

 傍目に見れば重たげな手足を付けた少女がひとりで喋っているように見えるだろう。しかし彼女は一人ではない。

 こゆきには研究所を抜け出してしまったことへの罪悪感などは無かった。コユキの態度に違和感を感じてはいたが、きっとこれも何かの検査でこゆきには分からない難しい理由があるに違いないと信じて疑わなかった。雪などというものは口実の一つに過ぎないのだと。それでも彼女は初めて外に出たことに内心浮き足立っていた。もしかしたら本当に雪を見られるかもしれない、などという根拠のない期待さえして。

 コユキはこゆきに対し、今の自分達が危険な存在だとは知らせていなかった。これが検査や訓練ではない事も伝えてはいないのだ。研究所を抜け出したら当然追っ手が向けられることは分かりきっている。最悪の事態も覚悟のうちだった。こゆきを唆したとしてコユキは失敗作の烙印を押され廃棄されることになるだろう。会話のログも逃走経路も、先ほどから送り続けられている停止命令を不受理した記録も残っている。言い逃れする術は無い。コユキを突き動かすものは何も知らず戦場に送り出されるこゆきへの同情心であろうか。そのようなものは無い、それは人工知能自身がよく知っていることである。では、こゆきが戦闘向きの性格でないので彼女以外の新たな宿主を手に入れたいのか。確かにコユキは研究員にそれを何度か打診したことはある。結局上層部が不承認であったとかで、それは叶わなかったのだが。捕まればこゆきも無事では済まないだろうという事も予測は付いている。それらを踏まえて尚、脱走の動機などコユキには分からなかった。

 角を左に曲がる。真っ直ぐ走る。こゆきの脚は足音だけを闇に残して二人を運んでいく。彼女らを見るものは誰もおらず、兵士達はまだ彼女らを見つけられていなかった。だが脚を止めてはいけないとコユキは言う。

「この街を抜けたら隣街です。そこもまだ抜けなければいけません。いいですか」

 機械的な声でコユキは告げた。バイザーを降ろし簡易マップを表示させこゆきにそう説明するのは数度目で、こゆきはその度健気に指示に従っていた。

「はい。でも遠いところに行くのは少し不安です」

「大丈夫です。私は世界中の地図を把握しています。雪を見たら帰りましょう。遠くへは行きません」

「そうですか、コユキがそう言うなら走ります」

「隣街に行くには路地を出て少し広い通りを行かなければなりません。まだ先ですが、そこでは素早い行動をしてください」

「はい。分かりました」

 夜風がこゆきに手を伸ばしむき出しの肩に触れた。その手には赤い血の代わりに細かいガラス片が流れていて、こゆきの肌に無数の引っかき傷をつけるようである。風はどこまでも着いてきて離れない。曇った空から降りてきた風はわざと路地にたむろして、此処を通る人を無差別に嘲笑っているようだった。今この路地では何もかもが遠い他人であり、親切やぬくもりという言葉は軒並み忘れ去られている。ひゅう、と音をたててまた新しい風が降りてくると嗤い声は勢いを増す。その度にこゆきは振り返らずにはいられないのであった。

 彼女は段々不安になっていった。警報音はまだ耳に押し寄せてくるし、辺りは不気味な冷たさで満たされている。見慣れたものは何一つ存在せず、果てしない遠いところを目指し永遠に走ってきたような気さえした。硬い地面はきっと冷たく、そり立つ壁もまた冷たいだろう。風は勢いを増し、警報音に混じって聞こえる誰かの声は全てを責め立てるような棘を含んでいる。そんなものに囲まれていると自分もこの空間に溶けた冷たい風になってしまったような、言いようのない恐怖に襲われるのだった。

 バイザーのマップに表示された彼女らの影は、もうすぐ隣街へ続く通りに差し掛かろうとしている。


 そこは普通の道路よりやや広い程度の通りであった。名前が付くほど広くはなく、しかし車であれば三台はすれ違える程の幅はある。道の脇には食品や衣類を扱う店が並んでおり、今は全てシャッターを下ろした状態になっていた。灰色の口が開く気配はなく、それは覆いかぶさる夜が店の一軒一軒を監視しているせいであるように思える。歩道に散りばめられた幾何学模様のタイルは街路樹の影の下で沈んだ表情を見せていた。空はいよいよ曇り辺りはすっかり風たちの遊び場と化していたので、空や建物の間、地面すれすれなどを容赦なく撫でつけ傷つける音が止むことはなさそうだった。硝子の血液が目に見えるようでこゆきはひとつ身震いをする。

「この先です。右に曲がってください。そしたら真っ直ぐです。簡単なつくりのアーチがあるのでそこを抜けてください」

「右ですね、コユキ。マップを確認しました」

「建物に生体反応。照合結果住人と判断。敵の反応はありません。しかし敵がステルスを使っている可能性があります。よく観察してください」

 はい、と返事をしてからこゆきは深呼吸をした。バイザーをしたまま辺りを見回すと視界には人っ子一人おらず、ただ重い夜があるのみであった。コユキの言った通りだという安心と心臓に針を差し込まれたような緊張。手術を受けた時のことがふと蘇り、こゆきの意識は瞬間まばゆい丸い光と薄緑のゴムで構成された世界に引きずり込まれた。気だるい空気を吸い込んで眠るまでの数秒。目の前にかけられた緑のビニルカーテンの向こうに自分の身体があるとは信じがたい。確かあの時は右手の爪が割れていた。それが薬指であったことまで鮮明に思い出せるのだ。左足の脛に小さな黄土色の痣があった。自分と同じ境遇の子が左手を握ってくれた。うさぎの世話をした時は右手の指で彼等の脚につけられた青色のタグに触れた。はっとして手を伸ばしかけるがその時幻想は跡形もなく消え去り、後には元の景色が残っているだけである。突然の幻想に面くらい目を瞬かせると、冷たい空気が瞼の裏を急に冷やしてきた。こゆきはなんとか訓練で教えられたことをたどたどしく思い出し、低い姿勢で素早く左右を見渡す。そしてやや緊張気味の声で「人影なし、出ます」と吐き出すと――夜と風の中に飛び込んだ。身体の左右を守る壁が無くなると、途端に夜の空気がこゆきの全身にまとわりついてきた。心なしか風の音は小さくなったように感じられるが、それにより風や温度が一層鋭い感触を伴って肌に触れるのである。

 コユキがその異常に気が付いたのは、こゆきが隣街へのアーチを視認した一瞬後のことであった。建物の二階の窓、その向こうで僅かに熱を帯びるものの存在を感知したのだ。その熱は勢いを伴ってコユキの方に真っ直ぐ迫り――ヘッドギアの外殻を掠め地面へと消えた。

「狙撃されています! 損傷軽微。周辺の生体反応を再照合……兵士名簿との合致なし。研究所員名簿との合致なし」

「ひっ……」

「走り続けてください。敵位置を特定……八時の方向。反撃は非推奨です。マップに生体反応の位置を強調して表示します、これらにも――」

 アナウンスは熱を持った一撃の再来によって掻き消された。それは明らかに殺意を持った弾丸である。その攻撃はバックパックの下部に当たり、親指の太さほどもある線状の傷をつけた。今その背中にはなにも装備されていない。滑空翼や小型砲台は取り外され、むき出しの接合部が背後に睨みを利かせている。盾となるものは何もない。バックパックの最奥には稼動用のエネルギータンクと油圧用のオイルが収納されているため、これを失うわけにはいかなかった。

 狙撃手は兵士名簿にも研究所員名簿とも合致しない人物だ。しかしその装備は明らかに研究所付きの兵士のものだった。どこかで騙されていた、欺かれていたことは明白である。この奇襲に関しては待ち伏せされていた可能性が高く、現在地の情報が抜かれていたことは明らかであった。所詮自分達は管理されるだけのモノに過ぎないということなのか。ただ此処をなんとかして抜け出さなければならない。この瞬間にも銃弾は勢いを増していた。致命傷となる傷は無かったのが幸いである。しかしこのままでは捕まってしまうのも時間の問題だった。一瞬で導き出された答案は全て役立たずであり、コユキは己の力が及ばないことを認めざるを得なかった。

「コユキ! 建物の窓から撃たれています!」

「攻撃は致命傷足りえる威力ではありません。正面に立ち塞がる敵がいれば肉弾戦で退けるしかありません。別の道を探しましょう、左腕の操作権限をこちらへ。迎撃します!」

「はい!」

 こゆきは左腕から力が抜けるのを感じた。見た目には何も変化したところは無い。ただ左腕はこゆきの思い通りには動かず、コユキが操作できるようになっている。この機能により人工知能あるいは兵装装備者が戦闘不能に陥ったとしてもある程度は持ちこたえることができるのだ。今回のように操作権限を限定的に割り振ることで、多数の外部刺激を同時に処理することにも役立つ。

 そうしている間にも武装した兵士が姿を見せ射撃を行ってくる。辺りは大型の照明で照らされ昼間のように明るくなった。ひとりひとりの足元から複数の影がやけに長く伸びて、裏路地に頭を突っ込んだり壁に張り付いたりと奇妙な動きを見せる。建物から飛び出した勢いのままこゆきの前に転がり込んで銃を構える兵士の影は、すべからく宙に浮き地面に伏せ消える運命を辿った。彼女の左腕はまるでそこだけ違う人格が宿っているように――実際そうなのだが、事情を知らぬ者もそんな感想を抱くような動きを見せている。手の甲で、肘で、あるいは腕全体で。敵を突き、打ち砕き、なぎ払う姿は、まるで彼女が怯えた顔のお面でも被っているかのような違和感を生み出した。

 隣街へ続くアーチの下には何人もの兵士達が大型の銃を構え並んでいた。これもあらかじめ用意されていたのだろう。三人一組で扱っているその武器は銃と言うよりは砲身が一本の砲台と言った方がしっくりくる。数にして四台。彼等の身体からは煮えたぎった敵意が噴出し嵐のように渦巻いていた。装備によって兵士達の表情は窺えない。しかしその敵意と殺気だけは張り詰めた空気の間を縫ってこゆきの心臓を締め付けた。

「前方にD-3G-556型と酷似した銃の存在を確認。避けてください!」

「え――」

 刹那、空気は悲鳴のような破裂音に引き裂かれた。破裂音は数度連続して響き、続いて火薬臭い煙が蛇のような身体を抱えて空に消えていく。照明に照らされた蛇は不気味に光を反射し、乾いているようにも濡れているようにも見える。彼等が見下ろす地面には粗末なアーチと仰々しい四台の黒い親蛇、残酷な蟻を思わせる兵士達。そして地面に膝をつくひとりの少女があった。

 着弾したのは三発であった。こゆきの顔を掠めていったものが一発、腹を突き抜けて背中を捕らえたものが二発、残りの一つは地面に突き刺さり瓦礫と粉塵を巻き上げる。辺りは埃と煙に覆われて、静かであった街並みは見る影も無い。

 少女の左頬は大きく抉り取られ肉が二枚目の舌となって鎖骨の上で震えていた。舌の上には骨とヘッドギアの破片が散りばめられており、調味料をまぶしたステーキ肉のようにも見えた。火傷した左の眼球が融けてその上に落ちていく。バイザーは歪み、酷く変形していた。左目が融けたのと時を同じくして穴の開いた右胸と腹から形状様々な肉が滴り落ちた。所々白いものが混じっている肉は、グロテスクに艶めきながら少女の足元にぼとぼとと落ちて溜まる。そこは瞬く間に新しい景色に染まっていく。肉と骨の破片で構成された死の大地である。そこでは何もかもが美しい薔薇色であった。

 穴の向こうは夜の空である。命が焼ける臭いを発する穴からは、やはり命が流れ落ちるのであろう。こゆきの体内を駆け巡っていた血が生ぬるい川となって溢れてた。炎上するバックパックからは熱い熱いオイルが流れ出し、胸と腹の穴の中で血と交わる。黒々と熟れたチェリーのような色をした斑模様の川は、少女の太ももを焼きながら地面へと流れ、肉の大地に降り注いだ。

 こゆきはとうとう地面に倒れ伏し、潰れた肺と焼けた喉を痙攣させながら呻き声を上げた。血だまりの上に横たわる彼女の手足は軋む音を立てながらもがき続けている。生気のない身体とうつ伏せの状態から体制を立て直そうとする手足の対比は、好機ではなく哀れを誘うのみであった。

「損傷……ヘッドギア半壊、油圧用オイル及びエネルギータンク全壊、炎上。装備者の生命状態低下……コユキ稼動限界まで残り17秒。16、15」

「……う……あぁ……」

「こゆき。あなたは生命維持に努めてください。私は――」

「……ぁ」

 虚ろな右目が何かを訴えかけるように震えた。赤い涙がつう、と流れバイザーの上に落ちる。言葉らしい言葉は無かったが、コユキはこゆきが感じていることが全て分かった。コユキのアナウンスを理解しているのかも不確かな朦朧とした意識。その信号は弱々しくはあったが、まだ観測することが可能であったからだ。こゆきは痛みと混乱、そして僅かな後悔を感じていた。信号は脳に差し込まれた電極を伝ってコユキに流れ込んでいく。かつて最高の学習能力を持つといわれたコユキにも、この状況で出すべき答えは分からなかった。じわじわと広がる血だまりは冬の外気に冷やされていき、それと同じようにこゆきの意識も消えようとしている。迷っている時間は残されていなかった。


 痛い、熱い、寒い。単純な三つの感覚が交互に、時に混ざり合ってこゆきに押し寄せてきた。いまやこゆきはそれをぼんやり感じる事しかできず、自分の身に起こったことを詳細に知る事も出来なかった。まぁるくぼやけていく視界と遠のいていく周囲の音。重い手足はもう少しも動かせない。地に伏せた状態では満足に息を吸うこともできず、少女は力ない咳と共に赤い唾液を吐き出す。これは訓練などではなかったのだ。ただそれが今更どうというのだろう。

 纏まらない思考の中をカラカラと音をたてながら走馬灯が走った。それは悲しいほど灰色で短く、単調でつまらない映画だ。時々手違いのように混じってくる色彩もけして光を放つことはない。スクリーンは路地の景色を延々と映し、映画は唐突に終わりを迎える。あっけない幕切れは感慨も達成感も、怒りや恨みすらも抱かせてはくれない。きっとそうなるとは薄々分かっていたことだが、雪が見られなかったのは少し残念だったとこゆきは思った。

「……こゆき。雪、です。雪が降っています」

 その時である。落ちかけた意識を掴んで揺り起こす声があった。こゆきは懸命に瞼を開き、また赤い唾を吐きながら目の焦点をあわせようと苦心する。するとどうだろう、彼女の薄く茶色がかった視界に白く光るものが写った。それはひらひらと不規則に舞いながらこゆきの目の前を通り過ぎてゆく。その一粒一粒がはっきり見えたわけではなかったが、こゆきの心を惹きつけるには十分であった。

「………………あ、ぁ」

 こゆきは数秒雪に見惚れていた。雪の冷たさを感じることは出来なかったが、純白の光はこゆきを慰めるようにくるりと回り、優しく触れ、そして消えていく。瞳を閉じても真っ暗な視界に光は降り注ぎ続けた。思わず手を伸ばして雪に触れると、それは一瞬で冷たく輝いて融けてしまう。ふと顔を上げて周囲を見渡せば地面には薄く雪が積もっていた。それは何処までも何処までも続いているようで、目を凝らしても果てが見えない。今や彼女を縛るものは何もなく、細い手足は自由に動かすことができた。少女は頬を紅潮させ飛び回る。身体は綿のように軽く、疲れることさえないのだ。ひとしきり踊り遊んだ後、雪の花びらが仄明るく照らす道をこゆきは口元に微かな笑みを浮かべ走り出した。

「ごめんなさい。こゆき」

 少女は振り返らず、親しんだ声は遠く離れた小雪の底に沈む。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ