第九話
この後の予定は六時から各自夕食、七時からビンゴ大会、その後フリータイムがあって九時に消灯だ。まずはその六時までに入浴を済ませなければならない。
さて、とりあえずロッカールームに荷物を取りに行く。その後が問題だ。チェックイン(といってもルームキーを受け取るだけ)はしおんが済ませていると思うけど、そうするとしおんが部屋にいないとあたしは部屋に入れない。かといってこの格好のまま男風呂にもいけない。今ならロッカールームに誰もいないけど、こんなところでウィッグを取って、万一誰かに見られたら大変だ。
仕方がないので荷物を持ってロッカールームを出ると、ロビーに向かう。
ロビーには誰もいない。二階の食堂もまだ準備中のようだった。そういえば食堂前にもトイレがあったなと思い出したあたしは、二階への階段を上ってみた。予想通り二階トイレは無人のようだ。周囲に人がいないことを再度確認すると、男子トイレに駆け込んだ。個室に入り、ウィッグとダテメガネを外し、予備で持ってきていたユニセックスのスポーツウェアに着替える。そしてそのまま男風呂に直行した。
夕食まであと二十分もないけど、おれはもともと湯船にゆっくりつかるタイプではないから、それだけあれば充分だ。脱衣所でさっさと服を脱いで大浴場に向かう。大浴場もかなり豪華な造りで洗い場には一人分づつ仕切りがある。先客は四人いて、そのうちの二人は新井と小野だった。まさか正体がバレるとは思わないけど、念のため近づかないようにしよう。
おれが洗い場で頭を洗っていると、背後を新井と小野が通り過ぎた。こいつらも烏の行水タイプだな。
「吉田ちゃん、可愛かったなー。欲を言えばもう少し身長が……」
なんて声が聞こえた。新井、明日覚えてろ。
気が付くと、大浴場はおれ一人で貸し切り状態になっていた。大きな湯船に一人でつかるとなかなかに気分がいい。とはいえここで長風呂してしまっては夕食に遅刻だ。しおんも待ってるだろうし。
おれは湯船を出ると脱衣所に向かった。そして脱衣所に入るとほぼ同時に、新井と小野が脱衣所から出ていくのが見えた。脱衣所に残っているのはおれと、扇風機の前で涼んでいる男子二人だけだ。おれが体を拭いていると、その男子二人の会話が聞こえてきた。
「……それにしても古谷には驚いたな」
「声かけたとたんに『話しかけないでよ!』だもんねぇ」
「髪も短いし別人かと思ったぜ」
古谷ってしおんか? まぁ、『話しかけないでよ!』なんて言うのはしおんしかいないよな。興味を持ったおれは、バスタオルを腰に巻くと、その二人に話しかけた。
「古谷って、古谷しおんのこと?」
二人そろってこっちを向く。
「そうそう。あいつ知ってんの?」
「今、同じ小学校だけど、あいつすげえ男嫌いでさ。古谷に話しかける男子なんていないよ?」
「そうなの? なんか印象ちがうな」
「あいつ、去年の秋に転校してきたんだけど、最初からそんな感じだったけどなぁ」
「ああ、俺たちはテニススクールで古谷と一緒だったんだけど、突然いなくなったのはそのくらいだった」
転入は突然だったけど、いなくなったのも突然だったのか。
「そのころは男子とも話してたんだ?」
「まぁ、お喋りな方じゃなかったけど。男子とも喋ってたな」
「髪も長くて、ワンピースとか似合ってたよね」
長い髪? ワンピース? んー? たしかに全然印象違うな。
「そうだったんだぁ。あ、急に話しかけて悪かったね」
「いや。じゃあそろそろ食堂行くか」
時計を見ると、六時五分前だ。おれはあわててバスタオルを取って、パンツを履いた。
「おまえ、そのパンツ……」
へ? パンツを見ると、かわいいレースとリボンがついていた。
「あ、お姉ちゃんの持ってきちゃったみたい……」
「いや、見なかったことにしとくよ。じゃ、またな」
そう言って二人は脱衣所を出て行った。何か、かわいそうな目で見られちゃった。
でも脱衣所に一人になったのは都合がいい。いまから入ってくるやつもいないだろうから、寝巻用に持ってきていたロングTシャツとショートパンツに着替える。そして洗面台のドライヤーで髪を乾かすとウィッグをかぶり、ダテメガネをかける。あとは荷物を持って脱衣所を出るだけなんだけど、念のため脱衣所から廊下の様子をうかがう。よし、誰もいない。あたしは脱衣所を出ると、宿泊棟へ向かった。
部屋割りによるとあたしたちの部屋は三階の三〇三号室だ。階段を駆け上って三〇三号室にたどり着くと、ドアをこんこんノックしてみた。
やや間があって、しおんが顔を出した。よかった、待っててくれた。
「しおんちゃんごめーん! おそくなったー!」
「え? 大丈夫よ? 食堂七時までだし」
時刻はすでに六時を回っていたけど、気にしていない様子だ。
「いや、ホントごめん!」
「そんなに謝らなくても。なに? 怒ってるとでも思った?」
「うん」
「ひどっ。わたし、そんなに短気じゃないよ」
と笑いながらしおんは言った。あたしは、遅れたのが『悠太』だったらきっと罵詈雑言を浴びせられてるトコだと思って苦笑してしまった。
そして、部屋に荷物だけ置くと、そのまま二人で食堂に向かう。階段を下りて宿泊棟を出ると、ロビー棟へ。二階が渡り廊下でつながっていれば食堂はすぐそばなのに、やたらと遠回りだ。
「しおんちゃん、最初は初級コースにいたよね?」
「うん、でも途中でコーチに中級コースに行かされちゃった」
「やっぱ上手いんだねー。最初から中級コースに行けばよかったのに」
「そんな上手くないし、中級の子ってみんなテニスシューズ履いてたから、行きづらかったの」
ふーん、テニス用のシューズなんてあるんだ、とか思いながらロビー棟の階段を上る。食堂に入ると、さすがに先客でいっぱいだった。やっぱりセルフサービスで、今度は「牛丼」と「親子丼」の二択だった。
「うーん、あたしは牛丼かな」
「わたしは親子丼で」
カウンターには「牛丼」と「親子丼」の札がさがっていて、好きな方に並ぶ、と言ってももう列はなかったのですぐに注文する。
「おばちゃーん、牛丼一丁!」
「はいよー。大盛りにするかい?」
と聞かれた。
「もちろん!」
と言ってから「ヤベ」とか思ったけど、まあいいや。ゆうりモードでもお腹は空くのだ。
果たして出てきたのはラーメン用か思うような大きな丼に山盛りの牛丼と、豚汁と見間違えそうなサイズの味噌汁だった。
「ありがとー!」
と言ってトレイに乗せると、ずっしり重い。そしてすでに親子丼を持って待っていたしおんと合流する。
「なにそれ、大盛り?」
「あはは、たぶん、余ってたんじゃないかなぁ?」
そしてトレイを持って空いている席を探していると、
「吉田さん!」
と声を掛けられた。平山さんだ。小森さんもいる。
「ここ、空いてるよ?」
二人が座っていたのは四人用の席だったので、二人分空いていた。
「そう? じゃ、相席させてもらっていい?」
「どーぞどーぞ」
空いていた席にあたしとしおんが座る。そしてしおんを紹介した。
「こちらは同室の古谷さん。よろしくね?」
しおんがペコリと頭を下げると、平山さんと小森さんも
「平山です。よろしくー」
「小森です。よろしくお願いします」
と挨拶した。
「吉田さんのそれ、すごいね! うらやましいなぁ!」
平山さんが、ほとんど食べ終えていた自分の親子丼と見比べながら言う。
「最後だったから、余ってたんだよ」
あたしが言うと、カウンターの方から、
「牛丼おかわりあるよー。欲しい子はおいでー」
とおばちゃんの声が聞こえた。ああ、やっぱり余らせてたのか。その声を聞いたらしい男子が何人か席を立つのが見えた。
「私ももらってこよ!」
と平山さんが残っていた親子丼を掻きこんだ。
あたしたちもいただきますをして食事を始める。平山さんがおかわりをもらいに行ってしまい、一人残された小森さんを見ると。まだ半分くらい残っている親子丼をおちょぼ口で上品に食べている。豪快な平山さんとは対称的だ。そこに、平山さんがおかわりの牛丼をうれしそうに抱えて戻ってきた。
「牛丼と親子丼、さっきすごく迷ったんだよねー」
と言うと、二杯目とは思えない速度で食べ始めた。
平山さんと小森さんは性格は対称的に見えるけど、共通しているところもある。それはあまり運動が得意ではなさそうという点だ。そんな二人がテニス教室に参加していることに、あたしはちょっと興味を持っていた。
「平山さんと小森さんは、何でこの教室に参加したの?」
「ん? 似合わない?」
あたしが聞くと、平山さんがニヤリとして答える。
「そんなことはないけど……」
「いや、いいの。私も似合わないと思ってるから。私と小森さんは幼馴染なんだけどね、私が今月末に引っ越すことになっちゃって、転校することになったんだ」
「へえ、それは残念だね」
「そんなに遠くの学校じゃないんだけどね。ただね、二人で修学旅行に行くの、楽しみにしてたのに行けなくなっちゃったから、代わりにこの教室に参加したの」
すると今まで黙って聞いていたしおんが、口を開いた。
「わかります、それ。やっぱりお泊りの思い出も欲しいですよね。わたしもそう思ってゆうりちゃん……吉田さんを誘ったから」
へ? テニスやりたくて参加したんじゃないの? あたしはそのしおんの告白にドキドキしてしまった。