第十六話
十月二日、日曜日。
今日のあたしはボーダーのロングスリーブワンピース。ワンピースっていいよね、楽で。男の子も着ればいいのに。
さて、いつものようにクレア公園へ向かうと、待ち合わせ時刻の一時よりも十分くらい早く到着した。そして、ベンチに腰掛けてしおんを待っていたのだけど、一時になってもしおんが来ない。いつもなら五分前には来ていたのに。ちょっと胸騒ぎを感じながら待っていたけど、五分を過ぎ、十分を過ぎてもしおんは現れなかった。
先月半ば、中村から「古谷のことを聞いて回ってるヤツがいる」と聞いてから、あたしはそれとなくしおんを観察していた。最初は気にしている様子もなかったから単なるウワサかと思っていたけど、先週末のしおんは何だか雰囲気が暗かった。もともとしおんは学校ではしゃぐタイプではなかったけど、あたしはそう感じた。別に病気という感じでもなかったから、今日は寝込んでいて来れない、という可能性も低いだろう。もしかしたら、単純に忘れてる? それとも、あたしの正体に気付いちゃった、とか?
十五分過ぎたところで、あたしはしおんの家に行ってみることにした。もしも病気だったらお見舞いくらいしてもいいだろう。手ブラだけど。
クレア公園から歩くこと約十分、しおんの住むアパートに着いた。最短ルートを歩いてきたから行き違いになったりはしていないと思う。郵便受けで確認すると、しおんの家は二〇四号室のようだ。そのまま階段を上がると二階の突き当りが二〇四号室だった。
インターホンのボタンを押すと、室内からチャイムの音がかすかに聞こえた。しばらく反応が無かったので、もう一度ボタンを押そうかと思ったとき、『はい』とインターホン越しに声がした。
「あ、しおんちゃん?」
『え? ゆうりちゃん?』
「なんか待ち合わせ場所に来なかったから、来ちゃった」
『……ごめんなさい』
なんか声に元気がない。もしかしてホントに病気だったのかな?
「こっちこそ押しかけてきてごめんね。体調悪かった?」
『……ちがうの』
「元気なの? なら良かった。ちょっと会える?」
ん? 反応が無い。
『……今日は、無理』
しばらく考えていたかのような間があって、返事があった。『今日は』という事は、後日ならいいということか。だったらあたしの正体に気付いた可能性は消えたな。それにしても様子がおかしすぎる。これでは、じゃあまたね、という気にもならない。
「玄関でもいいから、ちょっと顔見せてもらえないかな」
『…………』
またも、反応が無い。
そのまま廊下で立ち尽くすあたし。
どうしよう、やっぱ無理かな? と思ったところで、ガチャと鍵の開く音がして、少しだけドアがあいた。
「しおんちゃん?」
ドアの隙間から少しだけ見えたしおんは、まるで泣きはらしたかのような顔だった。
「どうしたの!?」
思わずドアを思い切り引くと、内側のドアノブを握っていたしおんが少しよろけた。とっさにしおんを支えようとしたら、右手でしおんを抱きかかえるような体勢になってしまう。左手でドアを抑え、右手でしおんを支えているあたしは身動きが取れなくなってしまった。
あたしの肩に顔をうずめたしおんは、何故かそのまま動かない。よく見るとしおんは少し震えていて、嗚咽が漏れていた。どうやら「泣きはらした」というよりは、今まさに泣いていたようだ。あたしは何て声を掛けたらいいのか分からず、そのままの体勢で固まっていた。
「……ごねんね、ゆうりちゃん。今日は、兄が来るの」
ややしばらく時間があって、しおんはそう答えた。
「兄? 兄って前に話してくれた元兄? それで、どうして泣いてたの?」
「…………」
「よかったら、話してもらえないかな?」
しおんはちょっと迷っているような素振りを見せた後、「入って」と言って、あたしを玄関に招き入れた。
「おじゃまします」
玄関を入るとすぐにダイニングキッチンになっていた。家の中には誰もいないようだ。母親と二人暮らしと言っていたから、たぶん母親はパートにでも行っているんだろう。しおんに促されてダイニングの椅子に座る。しおんもあたしの斜め前、つまり九十度の位置に座る。しおんはこの位置が好きだ。
「……ゆうりちゃん、わたし、全部話そうと思う。聞いてもらえる?」
しおんは何かを決心した様子で、テーブルを見つめたまま話し始めた。
「うん、もちろん」
しおんは思いつめた様子だ。
「前に母が離婚したことは、話したよね。あれは、わたしのせい」
「え?」
「離婚の前日にね、わたし、兄に襲われたの」
ちょっと予想外すぎてピンとこない。
「襲われたって?」
それから、しおんは嗚咽交じりにそのとき起こったことを話してくれた。その話は抽象的で断片的だったけど、要約するとこんな感じだ。
元兄は中学生になったころから荒れて、不登校になった。両親に暴力を振るったり、しおんにセクハラすることもあった。
その日は県民の日で、しおんは学校が休みだった。両親は不在で、しおんは自室で本を読んでいた。すると、突然部屋に元兄が入ってきた。ナイフで脅され、服を脱がされて襲われたうえ、写真も撮られた。
夕方、帰宅した母親は、異変に気付いたらしい。母親に促されて事情を話すと、「もうこんな家にはいられない」という事になり、翌日には離婚届を提出し、必要最低限の荷物を持ってここに引っ越してきた。
あたしとしおんの間に重たい空気が流れる。しおんはテーブルを見つめたまま動かない。あたしの手足の先が痺れるようなこの感覚は何だろう? 怒り? 同情? よくわかんない。でも、しおんは怒って欲しいわけでも同情して欲しいわけでもないと思う。
「……しおんちゃん、話してくれてありがとう。辛いこと思い出させちゃってごめんね。でも、今の話だと離婚したのってしおんちゃんのせいじゃなくて、元兄のせいじゃん」
「ううん、わたしのせい。ゆうりちゃんも、わたしのこと、嫌いになったでしょ?」
「は? なんで?」
今の話のどこにしおんを嫌いになるような要素があっただろうか? 元兄は嫌いになったけど。
「わたしって、不潔だから」
「はぁ? 何言ってんの? そんなわけないじゃん!」
「でも、わたしは……」
「そんなことより! その、元兄が来るってどういうこと!?」
そう、問題はそこじゃなくて、何しに元兄が来るのかだ。
「兄はずっとわたしを探していたみたいで、三日前の下校中に突然声を掛けられたの。それで、母は日曜日に仕事に行くのか聞かれたから……」
「行くって答えたの?」
「うん、そしたら今日の午後に行くから家で待ってろって。逃げたらあの時の写真をばら撒くって」
「時間は決まってないの?」
「言ってなかった」
じゃあ、すぐにでも来るかもしれないってことか。思うことも言いたいことも山ほどあるけど、今はそれどころじゃないな。母親のいない時間を狙ってくるってことは話し合いに来るわけでもないよね。しおんが泣いていたのも、当然また襲われることを想像したからだろう。だったら! 返り討ちにしてやるしかない!
「しおんちゃん、元兄が来たら、あたしが相手するから!」
「えっ?」
そしてあたしは、元兄を返り討ちにする方法を、しおんに伝えた。




