なぜ?文学評論はつまらないのか? それは純粋に作品そのものへ迫らないからだ
なぜ文学評論はつまらないのか?
それは、、
たとえば、、
ある作品、、ゲーテのファウストでもいいでしょう。
そういう作品を読んで、
読者である自身の読書体験として、、
生々しく?内在化されて
作者の心情に、接続された読者の心情として
一体化されたまさに「読書体験」としての
読者の心情の吐露ではないから、、、
いわゆる『文芸評論』なるものはいつだって空々しくて味気なくって
つまらないのですよ。
つまり、
評論家というのは
「自分は公平ですよ。第三者的に冷静にこの作品を評論してるんですよ」と、
言う、この態度こそが、
自分を出さないというか
自分の心情を隠すというか、
まるで他人事のように
この作品の成立年代の時代背景とか
「ファウスト」のホムンクルスはパラケルススから
影響を受けて書かれただの、
ゲーテはフリーデリケを捨ててしまった懺悔をこの作品に投影しているだの、
初版はどこでどの出版社から出されただの、、
ゲーテの、交友関係はこの時どうだったとか、、
そんなことばかりを熱心に詳しく、、これでもかこれでもかと
詳細に1000ページも書き綴ってよしとする態度。
これだから、、文学評論ってつまらないんですよ。
ありていにいわせてもらえば、、
そんなことはどうだっていいんですよ。
作品自体をあなたが読んでみて
自身の心情に触れたか触れなかったのか、、
要するに、、
読書体験って、、それだけでしょ?
夏目漱石の「我が輩は猫である」における、ホフマンのカーテルムルの影響について、、、
なんてどうでもいいんですよ。
「我が輩は猫である」が読んでみてあなたの琴線に触れたか触れなかったか、、、
読書って突き詰めれば、、
それオンリーですよ。
夏目漱石が胃が悪かったので、その影響で作品に影響してるとか、、
そんなの、一読者にとっては、、どうでもいいことです。
作品自体がそこにあり、、
それにたいして直ぐな心で対峙して
それをあなたが読むという体験から、、
あなたは作品自体から何を感じたか、、
それがすべてですよ。
時代背景だの、、
作者の交友関係だの
成立年代だの
一読者のあなたにとっては
まあ、知っていてもいいかなあ、、、、程度ですよね。
別に知らなくったって一向に構いませんね。
作品自体そのものから
あなたが読んで何を感じたか。
読書ってそういうものでしょ?
それだけでしょ?
そうした読書体験から
その作品があなたにとって何をもたらしたのかという
とってもそれは、個人的な体験、、
あなただけの作品体験、
極私的な体験。
それこそが「読書」なのですよ。
評論家先生の
「この作品のモチーフは、、とか、、この作品の成立過程は、、とか、、」
そんなの全くのナンセンスですよ。
あなただけの読書体験を大事にしなさい。
あなただけが読み解いたその作品の水晶宮を
心に記憶するのです。
そこからこそ
真の「文学評論」は出発するべきでしょう。
その意味で文学体験というものは純個人的なものでしかありませんね。
そうでなくて、、いわゆる評論家先生たちの
学者的な公平さ、、冷静さで 第三者的に、、、
書誌学的な?
文献学的な?
作家の伝記的な?
ご立派な1000ページにもわたるような
たとえば、、、「ゲーテ研究」なんて評論書こそ、
そんな評論こそ
クズであり
唾棄すべきものでしょうね。
読書とは純私的な
純個人的な
個人的な心情の体験でしかないからです。
そこに
公平だの
冷静だの、
本来ありえないからです。
つまり、、万人向けの、、万人受けする、、小説?なんてありえないのです。
作者と読者の千載一遇の奇跡の?あるいはまったく偶然の出会い、、
それで読者の心情にスパークするような火花の読書体験が飛び散るか、、どうか、、。
それが読書です。
それが小説です。
それ以外には、、ありえないです。
それだけです。