金の陽光、銀の月華 6
瞼の裏まで光が満ち、やがて光は去って行った。
何度もぱちぱちと瞬きを繰りかえし、やがて視界は元に戻った。
「え?」
完全に元に戻った視界に写ったのは広大な砂漠だった。
乾いた風が二人の頬をなぜ、髪を掬い上げる。
唐突に目の前に広がった乾いた世界に、緋室は間の抜けた声を漏らした。
「えぇ!?」
「何よ、その素っ頓狂な顔と声は?」
「だって・・・俺達ミュウアクアを使ってないぞ」
「なくたって飛べるのよ、私はね」
ふふんと秋は自慢げに笑った。
「どこからだってどこにだって飛べるわ。
・・でも、ミュウアクアを使わないと体にかかる負荷を軽減できないから、帰ったらしんどいと思うわ」
「・・・・」
とんでもない事実に緋室の頬が引きつる。
ミュウアクアを使った状態でも体がものすごく重くなって疲れたのに、あれ以上になるなんて・・と想像しかけて、怖くなってやめた。
「そういうことは先に教えてくれ」と内心思う。
だが、もう後の祭りだと気持ちを切り替えて間の前に広がる風景を楽しんだ。
砂漠特有の乾いた砂の香り。
息を吸い込むたびの喉の奥がカッと熱くなる感覚。じりじりと肌を焼くような日光の照りつけに、まぶしさを通り越して痛さを感じた。
「日差しが強いから目をやられるわよ。日焼けもするし・・・これを目にさして、それからこれをまとっておいて」
渡されたのは眼薬と幅広のショールだ。
言われたとおりに目薬を差してから、ショールを首元に巻きつける。
「ツタンカーメンがいるところに移動しましょう。日差しの下にいるのはきついわ」
秋の髪がふわりと浮いて、二人の体が移動を始めた。
「ねぇ、ツタンカーメンについてどれぐらい知っているの?」
「あ・・・えと・・」
移動しながら投げかけられた秋の質問に緋室の視線が泳いだ。
「少年王ってことと若くして死んだってことと、あと黄金のマスク」
「定番な情報だけなのね。わかったわ」
緋室の知識に期待をしていなかったようで、秋はあっさりと頷いた。
「ツタンカーメン。厳密に言うとトゥト・アンク・アメン。
即位名と誕生名を繋げたら、ネブケペルウラー・トゥトアンクアメンね」
「即位名って?」
「言葉通りの意味よ。ファラオに即位するときに名乗る名前ね。
ツタンカーメンの場合、意味は“ラー神は顕現の主なり”という意味ね。
ツタンカーメンの祖父は名君アメンヘテプ三世、祖母はアメンヘテプ三世の正妻で、神官だったイウヤとチュウヤの娘であるティイ。
父親は宗教改革を断行した異端の王アメンヘテプ四世で、母親は・・名前は分かっていないけれどアメンヘテプ四世と同じ父母を持つ姉妹。
で、妻はアメンヘテプ四世と正妻のネフェルティティの娘のアンケセナーメン」
「ずいぶんはっきりとわかっているんだな」
「えぇ。長い間謎の家系だったけれど、前氷期二十二世紀にエジプトの考古学者さんがDNA解析を使って解き明かしたの。
世紀の大発見だったそうよ」
「でも・・・・兄弟で結婚とか・・・事実なのか?」
「あら、エジプト王家では近親婚は割と当たり前よ。
父が娘を娶り、兄が妹を娶り、異母兄弟で婚姻なんていうのは普通。
ハーレムにいる王族の女性すべてに次のファラオを産む権利があったぐらいだし。
アメンヘテプ四世は自分の娘を三人も妻にしているし・・・ほら、エジプトで一番有名な女王であるクレオパトラも弟や息子と結婚しているわ」
「・・・・理解できない・・・」
「近親婚を禁じている私たちの感覚からしたら考えられないわよね。
でも、この時代はそれが許されていたの。
アンケセナーメンなんか父親の妻になったあとに異母兄弟であるツタンカーメンの妻になっているし。ま、この二人はものすごく仲が良かったみたいだから結果オーライなのかもしれないけれどね」
「あぁ・・・矢車菊か」
「その通り。よく知っていたわね。あっ、ほら・・・二人が来たわ」
宮殿の天井近くに浮き上がる二人の下を二つの影がゆっくりと通過した。
そして、影の後ろには何人もの侍女が続いている。
幼さの残る王は杖を突いていた。彼の左足は見るからに曲がっており、歩きにくそうだ。
そんな彼の体を、隣を歩く王妃がしっかりと支えている。
「あれがツタンカーメン。彼を支えているのがアンケセナーメンよ」
王妃の助けを受けながら少年王はゆっくりと玉座に座った。
王妃は玉座の右後ろに控えたが、玉座の肘置きの上で二人の手は繋がれていた。
「玉座の左後ろにいるのはアメンヘテプ四世の正妃で今の王大后のネフェルティティね。
ツタンカーメンの前・・左側の神官がアイで右側の鎧の男がホルエムへブよ」
左の神官は老年と言っても差し支えない風貌だが、瞳だけは獲物を探し回る禿鷹のように狡猾な光を放っていた。
臣下から上がってきた供述を次々とツタンカーメンに奏上しては、彼の答えを操って自分のいいように進めている。
ホルエムへブの鍛え上げられた体には幾重もの傷が走り、熊のように人々を威圧していた。
玉座の左後ろに控えているネフェルティティはまだ幼いファラオの貢献という名のもとに自分の権力を示している。
自分のためだけにあつらえた王冠をかぶり、アイとともに政治を操る姿はファラオそのものだ。
「迫力のある美人だな」
「ネフェルティティは古代エジプト三大美女の一人よ。
ほら、前氷期博物館のエジプト考古学分館にある彫像、見たことない?」
「帽子をかぶって片目の奴か?」
「帽子じゃなくて王冠なのだけど・・・まぁいいわ・・・そう、それよ」
「へぇ~彫像も迫力のある美人だったけれど、本物はもっと美人だな」
「そりゃそうよ。ネフェルティティの意味は『美女が遠くから来た』だもの。そんな名前を付けられるくらい美人なのよ」
「へ?つけられるって?どういうこと?」
疑問にぶち当たった緋室の目が真ん丸になった。
解答を期待して秋を見ている。
「ネフェルティティの本名はタドゥキパ。
ミタンニ王トゥシュラッタの娘で、エジプトに嫁いできた時にネフェルティティ・・・美女が遠くから来たっていうエジプト名を付けられたの。
・・・あのね、彼女は・・・本当はアメンヘテプ三世の妻だったの」
「どういうことだ?」
「アメンヘテプ三世が彼女の美貌に惚れ込んで「ぜひ妻に」って何度も何度も熱烈な手紙を送って求婚したの。で、何とか彼女を妃にしたけれど、彼女が嫁いできてたった二年で死亡。
うら若き王妃はそのまま義理の息子の妻になったの」
「うわ・・・なんだそれ」
「びっくりするわよね。後母婚っていう形式よ。
ミタンニは彼女を嫁がす代わりに当時最強国家だったエジプトの支援をもらう約束だったし、エジプトはエジプトで彼女を得るために大量の金銀財宝をミタンニに送っているから・・・・「夫が死んだから帰ります」っていうわけにもいかなくて・・・。
だから、ネフェルティティは新王として即位したアメンヘテプ四世の妻になったのよ」
「なるほど」
「ネフェルティティとしてはラッキーよね。自分の父親位の老人から同じ年頃の男性に嫁げたのだし。
それにアメンヘテプ四世との間にはメリタトン、メケタートン、アンケセナーメン、ネフェルネフェルアテン、ネフェルネフェルレー、セテペンレーっていう六人の娘も生まれているし、権力も握ったし・・・・彼女は幸せじゃないかな?」
「え・・っなんて?メリ?」
「メリタトン、メケタートン、アンケセナーメン、ネフェルネフェルアテン、ネフェルネフェルレー、セテペンレー」
「は~よく覚えられるなぁ」
秋を見つめる緋室の顔全体には「感心」と書いてあった。
尊敬のまなざしで見つめられて、秋は気恥ずかしくなった。ついつい憎まれ口が飛び出してしまう。
「時空異邦人ならこれくらい普通よ!」
「それでもすごい」
無邪気な子供のように笑う緋室に見つめられて、秋は照れた。
彼から顔をそらして黙る。
しかし、緋室は気にせずに、眼下のツタンカーメンたちを観察し始めた。
食い入るように少年王たちを見つめている緋室の様子に秋は苦笑する。
「ツタンカーメンのことをよく知らないのにどうしてツタンカーメンが見たいって言ったのよ?」
半分呆れて半分馬鹿にしたように秋が問うと、緋室はくしゃりと笑った。
「朝早くから秋が来たことに驚いていたし・・・秋が怖い顔で「誰が見たいの?」って詰め寄るから・・・とっさに浮かんだのがツタンカーメンだったんだよ」
「怖い顔ですって?失礼ね」
「いーや、かなり怖かったぞ。こんな感じで」
緋室が指で目を吊り上げてみせると、秋が噴出した。
「ひどいわよ、その顔!」
「いやいや。本当にこんな顔だったぞ」
「いやっなにその顔!」
三倍以上間抜けになった顔に秋はケラケラと声を上げて笑う。
「緋室・・・・貴方、本当に見た目と中身のギャップが違うわね!」
秋はひぃひぃと悲鳴を上げながら笑い続けた。
笑い転げている秋をほっておいて、緋室は眼下のツタンカーメンたちを見た。
アイやネフェルティティが政治を操っている横で、若い夫婦は無邪気に微笑み合っている。
繋がれている手。
頬を寄せ合い、笑顔で談笑する姿。
アンケセナーメンがツタンカーメンの首をたどり、肩を抱く。
疑う余地もなく、愛し合っている二人の様子は微笑ましい。
しかし、はたと何かに行きつく。
緋室は疑問をそのまま口に出した。
「あれ?でも、ツタンカーメンってアンケセナーメンに殺されたって説がなかったっけ?」
「それ古い!古すぎるわ」
笑顔から一転、秋が「信じられない」と騒いだ。
「ツタンカーメンの死は科学的な解析によって、戦車からの転落による骨折だってことが分かっているの。
戦に出て事故にあって・・・それで全身の十三か所に骨折を起こして・・それが原因で亡くなったのよ」
「戦?どうして?
ツタンカーメンは王だろ?王は普通前線に出ないんじゃないのか?
それに、彼は足に障害を持っていたのだし・・・」
緋室の質問に秋はチッチッチと人指し指を振った。
「いい?ファラオっていうのは強さの象徴なの。戦に出ないなんてもってのほか。
自ら戦の先頭に立ち、敵を切り、領土を広げ、兵を鼓舞し、強さを示さなければいけなかったの。
でも・・彼の父親、アメンヘテプ四世は戦を嫌って一向に戦を行わなかった。
だから、よけいにツタンカーメンは戦の先頭に立って戦ってファラオの権威を示す必要性があったのよ。・・・・彼にかかった重圧はものすごかったでしょうね」
ツタンカーメンの重圧を思うと、悲しくなる。
たった十九歳の少年に課せられた使命は、誰よりも王らしくあること ― 巨大帝国エジプトの象徴である強い王となること。
『所詮異端の王の息子だ』と言われないためにどんなに努力をしたことだろう。
彼にのしかかる責任感はどんなに重かっただろうか。
「近親相姦ゆえに左足に障害を負って・・杖なしでは生きられない体で生まれて・・・それでもエジプトのファラオらしく戦に出て、戦車から落ちて死んだのよ」
「立派な王であろうと、したんだな」
ぼそりとつぶやいた緋室の声は感傷的だった。
「王族は平民よりも豊かな暮らしをさせてもらえる。
それは王族が平民に対しての責任を負っているからだ」
秋は緋室の言葉に素直に感心した。
「王族」の言葉に重みを感じる。
少し緋室を見直した自分がいて、しかしそれを隠して言葉を紡いだ。
「愛し合っていた夫を失ったアンケセナーメンの嘆きはそれはそれはすごかったそうよ。
夫を殺した・・・夫に強い王であることを強要したエジプトを恨んで、エジプトの人間とは結婚しないと言い張ったの。
そして、当時敵対関係にあったヒッタイトのシュッピリウマ一世に「自分の夫として王子を一人送ってほしい。私と王子の間に子供が生まれればその子供は両国の懸け橋になるでしょう」って書簡を送ったの」
「反対する者はいなかったのか?」
「表向きはね」
「表向き、ね」
その言葉に歴史の闇を感じる。
「そ。表向き。シュッピリウマ一世の息子・・・ザンナンザはエジプトの来る途中で暗殺されたわ。
結局、アンケセナーメンは祖母の兄であるアイと結婚したの」
「祖母の兄って・・すごい年齢の差だよな」
「そうね。でも、当時のエジプトの法律に「王家の血統を継ぐ女性は王の死後、すみやかに然るべく男と結婚して王位を継承させる義務」っていうのがあったの。
最高権力者のアイが選ばれたのは仕方がないことよ」
「なんだか悲しいな」
緋室が感傷的に言う。
陰謀、暗殺、別離 ― ツタンカーメンとアンケセナーメンの背後には歴史の影がたくさん見える。
「そうね。でも、ロマンもあるわ」
乾いた風に髪をあそばせながら秋が言った。
その視線は宮殿を通り越えて、エジプトの広い砂漠を見ている。
「陰謀にしろ、なんにしろ、たくさんの有名な逸話があるということはその人が歴史をしっかりと生きた証よ。その人が・・・周りの人たちに愛された証よ。
ツタンカーメンもアンケセナーメンも・・・幸薄い人生だったかもしれない。
でも、人生の中に幸せで輝いていた時期もあったと思うわ」
『歴史上もっとも幸せな夫婦のランキング』というものがあれば、ツタンカーメンとアンケセナーメンは間違いなく上位だ。
「エジプトでは第十八王朝、第十九王朝あたりが一番素敵よ。
歴史的に有名な王もたくさんいるわ。
女性ファラオであるハトシェプスト。
エジプトのナポレオンと呼ばれたトトメス三世。
名君として長期間君臨したアメンヘテプ三世。
宗教改革を行った異端の王アメンヘテプ四世。
悲劇の少年王ツタンカーメン。
エジプト美術を完成させた芸術王セティ一世。
もっとも偉大なファラオとしてたたえられたラムセス二世。
彼らだけではなくて、周辺諸国にも強く勇敢な王たちが居てものすごく興味深い時代よ」
「そうなのか」
「えぇ。
例えば・・・・ヒッタイトのシュッピリウマ一世、ムルシリ二世、ムワタリ三世。
ミタンニのトゥシュラッタ、シャッティワザ、シャットゥアラ。
バビロニアのクリガニス二世、ナジ・マルッタシュ、カダシュマン・トゥルグ。
たくさんの王たちが生き、戦い・・・そして死んだ時代よ」
「王の数だけ歴史がある、ってか?」
「いいえ。人の数だけ歴史があるのよ」
強い言葉で訂正して、秋は不敵に笑った。
「王も民も・・・・人である限り、みんな自分の歴史を生きているの。
人の歴史が重なり合って絡み合って時代になるのよ。
・・・・どうする?ほかの王も見に行く?」
「面白そうだけど、俺は全体的に知識が足らないからな。それに何より・・・」
空気を切り裂くように緋室の腹の虫が鳴った。
ぐったりと肩を落とす彼の姿に秋がまた笑い転げる。
「・・・・腹が減った・・・」
「あっははははは!そうね、貴方、寝起きだったものね。クロノシアに帰りましょうか?」
「おぅ」
頷くと、全開の笑みのまま秋は緋室の腕をつかんだ。
時空を渡る感覚はジャンプに似ている。歴史(離陸点)から飛び上がり、現在(着地点)に落ちる。
つま先が床についた。
そう脳が認識した瞬間、緋室の体は崩れ落ちた。
「え・・・殿下あぁああっ!」
崩れ落ちた緋室を見て、朝食の用意をしていたソウバが悲鳴を上げた。
眠っていると思っていた主が突然現れてしかも床の上に崩れ落ちたのだ。
思わず手に持っていた皿を落としてしまい、床に突っ伏した緋室の周りをおろおろと走りまわった。
「ただの空腹と疲労よ。たいしたことないわ」
緋室の後ろに降り立った秋は呆れ半分でソウバに冷たく言い放ち、部屋の時計を見て時刻を確認する。
「八時四十五分よ。充分、朝食の時間ね。
ミュウアクア無しだし、時間を四時間くらい巻き戻したから私も疲れたわ」
「・・・」
悠然と立つ秋を見上げて「ウソだろ」とつぶやく。
― でも。
不思議そうに自分を見下ろす秋と視線が交わる。
彼女は眉間にちょっと皺を寄せて、いかにもめんどくさそうに緋室を見ている。
― でも、秋の満面の笑みが見られた。
それだけのことでものすごく満足している自分がいた。
「・・楽しかったよ」
「それはどうも」
床に突っ伏したまま緋室が何とかそう言うと、慇懃無礼に秋は頷いた。
「明日は来ないわよ。明後日に・・・別の旅にお連れするわ。ごきげんよう」
時空旅行の負荷で床に突っ伏す緋室とおろおろするソウバを放置して、秋は颯爽と去っていた。




