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蜂蜜とミルクティー  作者: 暁 柚果
〈 7 〉
99/100

99.告白




 壇上で自分が何と言ったのか……さっぱり思い出せない。ただ視線を向ければ、颯人が優しい瞳で見つめてくれていた事だけは覚えていた。大きな拍手が杏実の耳に届いた時、これで終わったのだと、その事だけはわかった。

 終わった……いや、ここから始まるのだ。

 やっと、前を向いて歩いていけるような気がする。もう後ろは振り向かなくてもいい。結局状況は変わらなかったかもしれないが、やるだけやったのだ。そして気がつけば、杏実は自分を大切に思ってくれている人たちに囲まれ、守られていた。そのことが分かっただけでいい。後悔はなかった。



「杏実ちゃ~~~ん!!!」

 会場から出てホテルのロビーに足を踏み入れた時、その大きな声と共に萌が飛びついてきた。ずっとここで待っていたらしい。華奢な身体からとても考えられないような強い力で抱きしめられた。


「杏実ちゃん!! 杏実ちゃん!!! う……えぇ~ん!!!」

「萌ちゃん……」

 せきを切るように泣き出した萌をなだめながら、杏実は萌の背中を優しく撫でる。颯人から、萌が杏実のことを心配していたということは聞いていた。

 萌の体温を通して、その想いが伝わってきた。


「萌ちゃん、心配かけてごめんね」

「うぅ……もうっ心配したんだからぁ!!!」

「うん。ごめん」

「……だっ……だめだからね! 突然いなくなちゃ……だめなんだからね!!」

「うん。ありがとう」

 萌はそう言い、再び強く抱き着いてきた。その力強さが心地よかった。


 帰り際、宇多と颯人からおおむねの事情を聞いた。

 あの封筒の中身は、両親が雇った探偵(結局は颯人が雇うことになったと言っていた)が調べた、両親の選挙に不利になりそうな情報らしい。内容について宇多は「長年私たちが悩まされていた問題そのものよ。知る価値もないわ」と言ったので、詳しくは聞かないことにした。きっとこれ以上失望をしないためにも、知らない方がいい。

 途中まで穏やかに話を進めていた宇多だが、颯人との関係を尋ねると途端に口を閉ざした。すると明らかに不機嫌になった宇多に代わり、颯人が話を始めた。

 宇多は葵から、杏実の婚約者がいることを聞き、杏実を心配して颯人に連絡をとったらしい。そして颯人を嗅ぎまわっていた探偵のこと、両親が杏実の結納を勝手に済ませていたことは、実際は宇多から颯人に連絡を取って知らせていたらしいのだ。颯人はそのことがあって、心配になってこの旅行に同伴することを決めたという事だった。

 颯人がどうしてあそこまで杏実の事情に詳しいのか、不思議に思っていたのだが、宇多が裏で動いていたのならば納得がいった。両親の行動を知り、心配になったに違いない。しかし宇多は立場上、表だって行動はできない。だから代わりに事情を把握した颯人が、あのような憎まれ役をかって出たのだ。

 自分のことなのに事前に知らせてほしかったと思ったが、きっと知れば二人の協力を断って一人で戦っていただろうと思う。だから黙っていたのだろうと思う。

 二人が杏実のためにしてくれたすべてのことが、何よりも嬉しかった。

 ただ一つ、不思議なことに宇多は最後まで颯人のことを良く思っていなかったように思う。別れ際の意味深な会話からそう思わざる得なかった。



『あんた……よくもまあ……そんな、すらすらと……いつもこうして丸め込んでるわけね』

『聞き捨てならない。俺は、あなたのプライドを守ってあげてるんですよ』

『プライド? 何が言いたいわけ?』

『宇多さんともあろう人が、動かされたって……それでいいんですか?』

『このっ……』

『杏実の姉ならば大事にしないとね』

『結構よ! 悪事千里を走るって言葉……あんたにプレゼントさせてもらうわ。その時はその泣き面拝んでやるわよ』

『悪事ねぇ~……? どうせなら能ある鷹は爪を隠すと言ってほしいですね』

『あんたが隠してるのは、その真黒な腹のうちでしょう?』

『その人物に妹を持っていかれて、さぞ腸が煮えくり返るでしょうね』

『口の減らないやつね!』

『お褒めに預かり光栄ですよ。口は減らないんで、まだ話します? いくらでもお相手しますよ』

『結構よ! さっさと消えて……』

『よかった! 姉さんが帰れとよ。杏実、帰るぞ』

『……え?』

『……はぁ?』

『杏実、行くぞ』

 颯人はそういうと、杏実の手を取って歩き出す。


 帰れ……とは、言われなかったような……?


 颯人に引きずられるように歩きながら何度か宇多を振り返ると、宇多は呆気にとられたようにこちらを見つめていた。そしてホテルを出た直後、『あさくら~!!!』と宇多が叫ぶ声が聞こえた気がした。

 二人の間に何があったのかはわからないが、少なくとも二人は気が合わないのだと思う。

 そしていろいろと疑問が残る中、杏実と颯人と萌は帰路についたのだった。




 

「寝ちゃった……」

 萌はベットに横たわりながら、杏実の膝の上で気持ちよさそうに寝息を立てている。

 行きの車では終始寝ていた萌だが、帰りの車内では一睡もすることなく、後部座席で杏実にしがみついていた。杏実を離すまいとするように。颯人は半ばあきれていたが、萌のその気持ちは杏実にとって何よりうれしいものだった。

 そして今、萌は杏実の部屋のベットで寝ている。やっと安心したのだろう。


 ふふ……可愛い。

 杏実は、猫のように丸くなり杏実の膝で気持ちよさそうに寝息を立てる萌の髪をなでる。萌はそんな杏実の仕草に、微かに笑みを浮かべた。今にも喉がゴロゴロと音を立てそうだ。

 

 コンコンッ


 ノックの音と共に颯人の声が聞こえてきた。萌を起こさないように、そっとベットを抜け出し、ドアを開ける。

 颯人は肩にバスタオルをかけて、ラフな部屋着に着替えていた。お風呂上りだろう、少し髪が濡れて肩に水滴が落ちている。


「寝てたか?」

「いえ。萌ちゃんが寝ちゃったんです」

「萌? あれからずっとここにいたのか?」

「はい」

 颯人は呆れたようにため息をつくと、杏実の部屋に入り、杏実のベットでぐっすりと眠りこんでいる萌を覗き込む。


「萌」

「………」

「こら。ここで寝るな、部屋に行け」

「…………」

「萌!」

 呼びかけても全く反応はないようだ。しびれを切らせて、颯人が手の甲で軽く萌の頬を叩く。さすがにその動作に、萌は少し顔をしかめ「う~」とうなり声を上げた。

 しかし少し寝返りを打つと、再び深い眠りにつく。

 その様子が可愛くて思わず笑ってしまった。


「可愛いですね」

「バカ言え! まったくいつまでたってもガキみたいに甘えて……」

「ふふふ……」

 杏実はバカにしながらもどこか温かみのある。そんな颯人の様子が可笑しくて笑うと、「笑うな」と言って、颯人は杏実の頭を軽くごついた。

 今朝見知らぬ場所で目覚め、博巳から恐ろしい事実を聞かされたときは、もうこんな風に颯人と過ごせなくなるのではないかと思って怖かった。だからこんないつものやり取りが、幸せで何よりもうれしい。ごつかれた痛みを忘れて、杏実は颯人に笑いかけた。

 颯人はそんな杏実の笑顔に、一瞬戸惑ったように息を飲み、さっと視線を逸らせる。そして寝ている萌を抱えてドアの方へ向かってしまった。

 そう言えばどうして、この部屋に来たんだろう。

 実を言うと、帰って冷静になって考えてみれば、颯人に聞きたいことがたくさんある事に気が付いた。

 もちろん今日のこともそうなのだが、その事よりも―――――指輪のこと……あの巾着のことを……


「颯人さん……あのっ!」

「杏実、話がある。リビングで待っててくれ」

 杏実が呼び止めようとしたと同時に、颯人がそう言った。

”話”

 もしかして同じ気持ちだったの?

 そう思って杏実がうなずくと、颯人はそれを確認し、萌を抱えて部屋をでていった。

 



 リビングでただ待つのは落ち着かず、杏実は飲み物でも入れようとキッチンに足を踏み入れた。

 何を入れよう? そう思って頭に浮かぶのは“ミルクティー”だ。

 颯人との接点はそもそもミルクティーだった。颯人が杏実のミルクティーを美味しいと言ってくれたことから始まったのだ。少しの蜂蜜と、杏実の精一杯の思いを込めていつも、いつでも颯人に届けていた。

 颯人は杏実にとって手の届かない人だった。しかし颯人がいたことで杏実の悲しく単調な日々が明るく色づいた。一度は途切れてしまったつながりは、また思いもよらない形で繋がった。そしてより颯人への思いは強くなり、二人の距離は近くなった。

 そして今回、颯人は杏実が抱える闇をいとも簡単に解決してくれたのだ。

 

 杏実がティースプーンで紅茶に入れた蜂蜜をかき混ぜていると、ダイニングに颯人が現れた。颯人は杏実に気が付くと、そのまま杏実のいたキッチンの方へ向かい、冷蔵庫を開けた。


「もしかしてビール飲むんですか?」

「え?」

 颯人はその声に杏実の方を向く。そして杏実の手元を見て何か気が付いたように笑みを浮かべた。


「そう思ったけど、それでいいよ」

「え?」

それ(・・)の方がいい」

 颯人はそう言うと冷蔵庫を閉め、うれしそうにリビングの方へ向かって行った。

 それ―――――ミルクティー

 なんだか二人に通じる暗号のようだと思う。

 杏実はその不思議な感覚を感じながら、トレーに2つのミルクティーを乗せ、颯人の待つソファーに向かった。



 いざ話をしようとすると、何から話せばいいのかわからない。

 二人でミルクティーを飲みながら、杏実がどうやって話を切り出そうと考えあぐねていると、颯人がぼそりとつぶやいた。


「うまいな」

「え?」

「杏実のミルクティーだよ。俺はどうやってもこんな美味しく入れれねーんだよな」

「そんなこと……」

「いや、本当だよ。……蜂蜜、使ってみたけど、無理だったしな」


 今……蜂蜜って?


「平田に……突然辞めたって聞いて、初めはなんで俺に蜂蜜(こんなもの)をくれたのかわからなかった。瓶に手紙が添えてあるわけでもなけりゃ、挨拶文程度のメモの一つも入ってねー……平田は渡せって言われただけだと言いやがる……理由が知りたくても聞く手段がねーんだよ、連絡先も知らねーし。俺はお前の…………」

 颯人は、そこで言葉を詰まらせた。初めて見る苦しそうな表情。それは今語られている言葉は紛れもなく、触れることのなかった颯人の心の内なのだという事を感じずにはいられなかった。やがて颯人は、何かを振り切るかのように静かに首を振ると、再び静かに語り始めた。


「俺は甘ったるいもんが嫌いなんだよ。あんなもんもらっても困るだけだ。使う機会もねーし、でも捨てられねー……だから開けずに持ってた。大分後になって、久しぶりにスクラリに行った時、やっと理由がわかった。”ああ……だから蜂蜜か”ってな。で、使ってみたんだ。でも……無理だった」

 そういうと颯人は視線をゆっくりと杏実に向けた。深くどこまでも吸い込まれてしまいそうな黒い瞳がまっすぐ杏実を見据えている。今語られている言葉の一つ一つは恐らく杏実にとって重要なのだとわかっていても、頭の中が混乱して言葉が何一つ出てこない。杏実はただ颯人を見つながら、縛られたように動けなかった。

 どれぐらい見つめあったのだろう? 数分ともいかない時間が杏実にとっては永遠とも感じた。やがて颯人はゆっくりと口を開いた。


「”アメ”は……お前だな?」


”アメ”

 本当ではないもう一つの自分の名前。気がついて欲しくて……でも同時に気が付いて欲しくなかった。いつまでも呼ばれない名前。そして偽りの名前に隠れていた、あのころの地味で臆病な私。交わらない想いはそんな情けない自分にふさわしいと感じていた。

 だから言えなかったのかもしれない。怖かった。颯人が本当の自分の名前を呼ぶたびに、嬉しくてその瞬間が愛おしくて……あのころに戻りたくなかった。

 やっと本当の自分を知ってもらえた気がしたから。

―――――”アメ”は私。でも私は……”杏実”でいたい……

 色々な思いが錯綜して、とっさに返事ができなかった。


「なんで何も答えない? 俺には言いたくないか?」

 杏実はとっさに否定の意味を込めて首を振った。そんなわけない。


「別に……言わなかったことを責めるわけじゃねーから怖がるなよ。俺に言う義務があったわけじゃねーしな。それによく考えれば、俺が悪かったんだよな。初めて会ったときお前を誤解してたから……勝手な思いこみで冷たく当たった」

 颯人はそういうと、少し苦笑して「ごめんな」と言った。


「そんな……私こそ……」

 その言葉と共に夢中で首を振ると、颯人がポンッと頭に手を置いた。まるで何もかもわかっていると言っているように感じる。

 そして顔を上げると、颯人は優しい表情で杏実を見ていた。


「いつ……気が付いたんですか?」

「確信を持ったのはつい最近だよ。萌の写真を見たんだ」

 写真?

 もしかすると、圭からもらった写真のことだろうか? あの時、萌は杏実の写真は無いと言っていた。しかし……あの時、一時的に颯人の態度がおかしかった。なにか怒っているような……夜中に話した時も明らかに不機嫌で。

”俺に何かいうことはないか?”

 きっとそのことだったのだ。その時はとっさになにも思いつかなかったけれど……。

 少しづつパズルのピースがはめ込まれていくように、疑問だったことが明らかになっていくような不思議な感覚がした。


「でも……それはきっかけでしかなかったかもな」

 その声に物思いにふけっていた杏実はハッと我に返った。その動揺からか、その先の言葉に含みを感じてからか、心臓がドキリと強く跳ねた。


「きっかけ……?」

「俺は……お前と”アメ”が重なることがあってずっと気になってたから。俺はあれからずっと……―――――お前を探してたんだ」

「……え?」


 探してた? アメ()を?

 その言葉に戸惑って颯人を見つめると、颯人はすこし困ったような笑顔を見せた。


「意外か? 俺もだよ。知らない間に”アメ”(お前)の面影を探してた。スクラリの前を通るときや、ふとした街中でカフェを見かけるたび、お前を思い出した。そんな女々しい自分にも嫌気がさして、嘘くさいお守りも蜂蜜もなんで捨てられないのか、ずっと考えてた。でもお前と出会って……やっとその理由がわかった」

 颯人はそう言うと、杏実の手を取り、杏実の薬指にはめられている指輪に触れた。

 颯人が選んだという、お花の形をした可愛い指輪。すべてが終わったのだから、外さなくでは、返すべきだとわかっていてもできなくて指にはめたままになっていた。

 都合のいい願望にすがりたかっただけかもしれない。

 しかしその願望は、今、颯人の言葉によって確実に現実となろうとしているのではないだろうか。

 

 まさか―――――これは

 ……告白?


 そして颯人の視線がただまっすぐに杏実に向けられた。


「杏実……好きだよ」







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