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蜂蜜とミルクティー  作者: 暁 柚果
〈 7 〉
98/100

98.おまじない



 大きく息を吸い込み、吐き出す。そして何度も同じ動作を繰り返した。


……落ち着いて……落ち着いて……


 繰り返し深呼吸をしながら、心の中でその言葉を何度も唱える。胸の前で軽く組んだ手の平には、その努力むなしくじんわりと汗がにじみ出て来ていた。

 壇上には宇多が堂々と演説をする姿が目に映る。そでに控え、次にそこに立つのは自分なのだと想像しても、自分が今の宇多のようにできるとは到底思えなかった。

 後悔はしていない……しかし、してしまいそうだった。


「杏実? 大丈夫か?」

 そんな杏実の様子を見るに見かねてか、颯人が声をかけてくれた。その言葉に顔を上げると、颯人が心配そうな瞳で杏実を見つめていた。


「だ……大丈夫です」


 そう言って笑顔を作ろうとしたが、あまりの緊張で顔が引きつってうまくいかなかった。

 颯人は眉をひそめ、そんな杏実をじっと見つめている。その瞳に、今の情けない気持ちを見抜かれそうで、杏実は怖くなって急いで視線を逸らした。


……ああ、もう! せっかく心配してくれてるのに!


 頭ではわかっていても緊張と不安で押しつぶされそうで、何一つ気の利いたことは言えそうにない。

 しばらくの沈黙の後、小さな颯人のため息がきこえた。

 

「しかたねえなぁ……」

 自分からやると決めたのに……きっと呆れているのだ。

 その思いを肯定するかのような颯人の言葉に、怖くなってギュッと目を閉じた。

 幻滅される。

 颯人の視線を受け止めるのが怖かった。

 

「ふっ……」

 固まったように動けなくなった杏実の頭上から、微かに笑ったような気配がした。

 ……え?

 そしてすぐに、名前を呼ぶ颯人の声が聞こえた。


「杏実」

 怒っているような、呆れているような声色ではなかった。

 その穏やかな呼びかけに、恐る恐る杏実は目を開けた。

 颯人は微かに口角を挙げて、杏実を真剣な瞳で見つめていた。いつの間にか―――――強張っていた手が颯人の温かい手のひらに包まれていた。


「おまじないしてやるよ」

「おまじ……ない?」

 颯人はそう言うと、優しく笑い、頭を下げると、ゆっくりと杏実の手の甲に軽いキスを落とした。


「!?」

 その王子様のような流れるような仕草にびっくりして、思わず手を引っこ抜こうとする。颯人が素早くその手を強く握ってとどめた。


「まだ、だよ」

「……え?」

 颯人は意地悪そうに口角を上げそう言うと、再び引きとめた杏実の手に視線を落とした。その視線に釣られる様に、杏実も自らの手に視線を移す。

”おまじない”

 そう言われてキスを落とした杏実の左手は、未だ颯人の温かく大きな手のひらで包まれ、杏実と颯人の視線の先に留まっていた。軽く触れただけなのに、杏実の手の甲は颯人の唇の余韻を残していて、なおも見つめられた視線に、熱く蕩けていきそうな気がした。 

 手を取られているだけなのに、一歩も動けない。颯人の一挙一動にすべて支配されているようだ。

 そんな杏実の視線の先で、颯人の右手の親指がゆっくりと杏実の左手の薬指を摩った。その仕草に驚いて身体がびくりと揺れる。颯人の親指の少しざらりとした感触が、指先を通して伝わってきた。その所作はなぜか親密な愛撫のように感じて、ビリビリと痺れるような感覚に、杏実は顔を真っ赤に染めた。

 わけがわからない。ただ指が触れ合っているだけなのに。

 戸惑いながら顔を上げると、颯人と視線がぶつかった。颯人はそんな杏実の様子に、満足そうに口角を上げた。その笑みは杏実の気持ちをすべて見透かしているかのようで、恥ずかしくなって大きく顔を逸らす。

 今、とても颯人の顔は見ていられそうになかった。

 そして何の前触れもなく、その杏実の薬指に何かが触れた感触がした。唇じゃない……冷たくて何か硬い……


「杏実」

 その声と、指にかかる不思議な感触に視線を戻した。

 しかしその瞬間、目の前に飛び込んできた見たことのないような輝きに言葉を失った。

 指輪だった―――――きれいに磨かれた銀色のリングに、会場のライトを白く反射させたダイヤがキラキラと輝いていた。台座に支えられた中央の大きめのダイヤの周りに、それよりも小さなダイヤが5つ並べられ、お花のようだ。その可愛いデザインと共に、ダイヤの細かいカッティングが美しく四方に光を放っていた。

 そのあまりの美しさに驚ろく……しかし一番驚いたのは、その指輪が杏実の手に飾られていたことに、だ。


「これはうまくいくようにお守り」

「え? これ……??」

「遅くなったけど、婚約指輪」

「え……?」


―――――……婚約指輪?

 目を丸くして颯人とその指輪と交互に見つめる。事態が飲め込めない。


 婚約指輪??


「え……? え……??」

 それしか言えないかのようにただ呆然と繰り返す杏実の様子に、颯人は苦笑する。


「すっかり忘れてたんだよな。恵利が小うるさく言ってくるもんだから……勝手に杏実のイメージで買った。こういうものは、杏実が好きなものを選ぶべきだと思ったんだけどな……」


 私のイメージ? 颯人さんが?? 

 まさか……これは…………?


「私……の?」

「当たり前だろ」

 小さくつぶやいた言葉に、颯人はそう言って笑う。


 私の婚約指輪。

 改めてその指に輝く指輪を見つめる。不思議なことにまるで初めから杏実のために存在しているかのように、ぴったりと杏実の指に納まってた。とても可愛らしいデザインゆえか、中央の大きなダイヤが主張し過ぎることなく、色の白い杏実の細い指に輝きを与えていた。

 すごく綺麗……

 客観的に見ても杏実の大好きなデザインだったと思う。しかしこれは颯人が杏実のイメージで選んでくれたものだ。(と言っていたはずだ)そう思うと、たまらなくうれしい気持ちが杏実の中に広がってきた。とても言葉にできそうにない。


「気に入ったか?」

 その言葉にただうなずく。声を出せばたちまち泣き出してしまいそうだ。


「そうか……」

 しかし颯人がそう言った時、ハッと我に返る。


 何言ってるんだろう! こんなものもらえるはずがない……だって……この関係は……


 杏実がそう思い返した時、会場に大きな歓声と拍手が沸き起こった。壇上で宇多が深く礼をしている。どうやら宇多の演説が終わったらしい。

 今の状況を思い出して、再び緊張が走った。


「杏実」

 顔を上げると、颯人がじっと杏実を見つめていた。

 

「大丈夫。出来るよ」

「……」

「言いたいこと言ってこい。お前の言葉で、素直な気持ちを伝えればいいんだ。俺はここから見守ってる」


 でも……

 無理です……

 不安なんです……

 そんな情けない言葉しか浮かんでこない。その思いを振り払うように、小さく頭を振る。

 これは颯人がくれたチャンスなのだ。そして杏実が決めたこと。そのきっかけは颯人が与えてくれた。―――――すべては、ここから……杏実の新しい人生が始まる。

 触れ合った手のひらからも、颯人の力強い想いが伝わってきて、杏実に勇気を与えてくれる。

 きっと出来る。


「颯人さん」

「ん?」

「…………帰らないで待っていてくださいね」

 精一杯の強がりでそうつぶやくと、颯人は楽しそうに笑った。不思議なことに少し気持ちが軽くなってきたような気がする。


「待ってるよ」

「……絶対ですよ?」

 そう言うよりも早く、颯人が指輪のはめられた杏実の薬指にキスを落とした。


「俺のとこに帰って来いよ」

 蕩けるような笑顔を杏実に向け、きっぱりとそう言い放つ。

 その熱に浮かされたように、杏実は颯人に背中を押されゆっくりと壇上へ続く階段を上り始めたのだった。





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