97.決着
部屋に着くと、中には両親と葵、博己がいた。母親は奥の小さなテーブルに備え付けられていたアイボリーのソファーに座っており、その向かいには博己ともう一人の男性がゆったりとした趣で腰かけていた。祖父のお寺で出会った白髪の男性だ。あの時、目元が博巳に似ていると思った。そしてこの場に同席するという事は……やはりこの男性は博巳の父親なのかもしれない。
父親は部屋の中に無造作に置かれたパイプ椅子の周りを苛立ちを隠せない様子でうろうろと歩き回っていた。
杏実は不安な気持ちを誤魔化すかのように、先ほどから解かれることのない颯人の手をキュッと握る。そして先ほど……颯人から言われた言葉を反芻していた。
『部屋に入ったら、お前は何も言うな。全部俺に任せてろ』
颯人に部屋のドアの前でこう言ったのだ。理由は杏実が何か言うとボロが出る可能性があるからという事だった。ボロとは嘘の婚約のことを言っているのだと言うことはわかった。しかし自分自身の問題にそんなことはできない。杏実がそう言うと、颯人は“俺を信じてほしい”と言う。
いったい何を?
再びそう言おうとして、あまりに真剣な颯人の表情に閉口した。やがて沈黙を了解と取ったのか颯人はそれ以上何も語らず、杏実の手を取ってこの部屋のドアに足を踏み入れたのだった。
温かく大きな掌で、颯人は杏実の手を深く握り返してくれる。まるで不安な気持ちを見越しているかのように、当たり前のように。両親から受ける視線が怖くて目を伏せていた杏実はゆっくりと顔を上げ、颯人を見上げた。颯人はじっと前方を見据えていた。
信じろってどういう意味なんですか?
今、何を思ってるんですか?
そして――――――今から何がおころうとしているの?
「先日は結構な手切れ金を、どうもありがとうございます」
やがて低く心地よいテノールの声が小さい控室の中に響いた。
颯人は緊迫した場に拘らず穏やかな表情で、口元に笑みさえ浮かべ、杏実の両親を見据えている。いつものぶっきらぼうな言い方と異なって、その皮肉とも取れる丁寧な物言いは、杏実には反対に冷たく聞こえる気がした。
「まさかあのような大金をいただけるとは思いもよりませんでした」
颯人の言葉に、父親が怪訝そうに眉をしかめ、母親へ視線を向けた。しかしその視線を避けるように、母親はさっと視線を逸らす。その様子をみていた葵が小さくため息を吐き、父親の隣まで寄っていくと何やら耳打ちをし始める。しばらく葵の言葉に耳を傾けていた父親だが、不機嫌そうに悪態をつくとやがて颯人に向き直った。
「すまないね。少し初めて聞く話だったものでね」
「初めて? あなたは知らなかったんですか?」
「まあ……そういう事だ」
父親はそういうとばつが悪そうに苦笑する。
知らなかった?
なぜかその事実に違和感を感じた。宇多が関わっていなかったとは思っていたのだが……
「……まあ大差ないことだ。おそらく葵や家内は私のことを考えてしてくれたことだろう」
そういうと父親は仕切りなおすように一度咳をすると言葉をつづけた。
「身内ごとで恥ずかしい話だが、杏実と我々には昔からちょっとしたすれ違いがあってね……そのことがあってか杏実は何年か前に家を出た。以来、音信不通で一度としてこの家に帰ってきたこともない。しかしながら勝手に家を出た杏実を探すことはしなかったし、そのことを責めるつもりはない。なぜなら今までは杏実がいなくても、別段問題なかったからだ」
父親から語られる話に、胸の奥がズキンと疼く。
今更傷つくなんて馬鹿げているのに。
「しかし事情が変わった。私にはやらねばならない大義がある。それを貫くのは容易ではないし、一人ではできない。第一に家族の協力が不可欠なのだよ。そのためには多少の犠牲を伴ってもらわなくてはならないが、それは家族として当然の義務だ。そしてもちろんのこと、杏実も例外ではない」
そういうと父親は杏実に視線を向けた。感情を深く奥底に隠したような表情をしている。そして何も語らないはずの瞳から無言の圧力を感じて、思わず身体を硬くした。
自分の意のままに人を動かすことを何とも思っていない。たとえ相手に感情があろうとも、関係はない。
”おとなしく、従え”
トラウマがよみがえって、不安から足元ががたがたと震えだすのを感じていた。
「君は杏実の恋人のようだね。さっき聞いた葵の話だと婚約前提の仲だとか……。まあそのことを思えば、我々、家族の問題に君を巻き込んでしまったことは大変申し訳ないと思っている。しかし杏実のことはあきらめてくれ。杏実には博巳君という生涯のパートナーがいる。その役割を……家族としての義務を果たしてもらわねばならない。君にとっても辛い決断とは思うが、杏実のためと思い、理解してくれたまえよ」
そこまで言い切ると、父親は颯人の顔を見てハッと、思い出したように言葉を付け足す。
「そうだ。忘れていたが……君は下村さんの身内のものだそうだね。下村さんには母の件でいろいろと誤解をしているようだが、私はいつでも帰ってきてくれて構わないと思っている。いっそうのこと杏実と一緒にこちらに帰って……」
「あなた!」
父親が颯人に話をしようとする横で、しびれを切らしたように母親が口を挟んだ。そして父親の隣に来ると、机に置かれた白い大きめの封筒を指差して「それよりも、このことを聞いてちょうだい!」と声を荒げた。
先ほど宇多が渡した封筒のようだ。中身を見た時、父親の顔色が変わった。
いったい何が入っているんだろうか?
「まあ、そう焦るな。まずはこちらの意向を正しく伝えて、納得してもらうことが大切だ」
「そんな悠長なっ……!? もしこれが流出したら、私たちは大変なことになるんですよ!! やっぱりこの娘は疫病神なんですよ……私は初めからこんな計画うまくいくわけないと思ってました。結局こうして引っ掻き回されて……挙句、得体のしれない男を連れてきて……」
“疫病神”
母親にとっては自分の存在はそのような存在でしかない。時が経とうとも、変わることのない辛辣な言葉に、胸が切り裂かれそうに痛んだ。
幼いころは何度も心を切り裂かれようとも、母親の愛情を信じ、求めていた。いつか……いつかは、自分は理想の娘になるのだと。
とっくの昔に捨てた願い。
なのに――――再び引き戻されてしまう。頑張るから……無意味だなんて言わないで……無駄じゃない……あの暗く寂しい闇から私を…………
“当たり前だ。頼れって言っただろ!”
沈みかけた心の中に、突然その言葉が強く響いた。その言葉にハッとする。
“一人で抱えこむな”
“……ったく、すぐに我慢しやがる”
“お前の大丈夫ほど、信用できねーもんはないな”
以前、颯人から言われた言葉だった。その不器用な言葉の一つ一つに救われ、いつでも杏実を守ってくれた。
右手に繋がれた手に意識が戻ってくる。
どうしてこんなに温かいんだろう?
その手を通じて伝わってくるのだ。ぬくもりだけじゃない、杏実を認め大切に思う気持ち。
いや、颯人だけじゃない、いつも大好きだと言って無邪気な笑顔を向けてくる萌や、呆れながらも見守ってくれる圭とフミ。ずっと気が付かなかったけれど拒絶すること守ってくれていた宇多。
そうなのだ。私はもう一人じゃない。
―――――あのころのように愛情を求めて、恐れて泣いているだけの私とは違う。
「弱音を吐くな、みっともない。杏実の婚約者と言っても、所詮子供が勝手に決めたことだ。杏実は私の娘なのだからこちらに決定権がある。しかし……こうなったら交渉して相手の意向にも多少譲歩することが大切だろう」
「譲歩って……」
「黙っていなさい」
父親はそう言うと、再び颯人を振り返って話を再開する。
「申し訳ない、話を戻そう。すでにこちらは結納も済ませている。もう一度言うが、杏実のことは諦めてもらいたい。杏実も残念に思うだろうが、正式な婚約者がいる身で、君との関係を続ければ我々がスキャンダルに巻き込まれる可能性があるのでね。きっぱり関係を切るよう言い聞かすつもりだ。君にもそう覚悟してもらいたい。まあしかし……一方的にお願いするのも理不尽に感じるだろうと思う。これがその証拠だ。我々もタダで君が引き下がるとは考えていないし、はした金では納得がいかないと言う君の考えにも賛同する点もある。しかし我々にはあまり時間がない。その上でそれ以外に何か我々にできることがあれば……」
「ないです」
「は?」
「ないですね」
「ない? では特に要求することは無いという事か。それでは、杏実のことを諦めて……」
「……バカですか?」
「ばっ……」
「おとなしく聞いてたら……本当にどうしようもない方々のようですね」
颯人はそう言うと、大きなため息をついた。
「これが杏実の身内かと思うと……杏実がいかに奇跡の産物だったのかわかりますよ」
「……何?」
「僕がどうしてそんなものを持ってきたのか……どうやら全く理解されていないようですね」
「それは……我々と取引するつもりで」
「まあそれは間違っていません。もともとあんなくだらない情報に興味はありませんし、はなから公表するつもりもなかったので。しかし、全く理解されないとは仕方がない。はっきり言いましょう、僕は杏実が帰ってくれればいいんです。そして今後一切、杏実や我々に関わらないでいただきたい」
「それは困る。何とかお金で……」
「バカにしないでいただきたい。お金なんて一銭もいりません。杏実を……」
「手切れ金も受け取ったんだろう? そう交渉を長引かせて金銭を跳ね上げるつもりで……」
「……っ」
繋がれた手がいっそう強く握られ、あまりの痛さに息を飲んだ。先ほどから冷静かつ穏やかな態度を崩さなかった颯人だが、背後に漂うオーラが次第に黒く陰り始めている。じっと父親を睨みつけ、苦痛に顔を歪める杏実の様子には全く気が付く様子もなかった。
これは……怒ってくれているのだろうか。……私のために?
「仕方がない……君の希望の金額を」
「……んなわけねーだろ。いい加減にしろ!!」
狭い室内にハッとするような怒声が響いた。颯人は抑えきれない気持ちを持て余すかのように軽く舌打ちをすると、一斉に受けた視線を無視して両親を見据えて話し始めた。
「あんたら屑だな。必死で冷静に話をしようと思ってたが、必要ねえ」
「まあ……野蛮な」
「ああ? てめーらのやり方のほうが、人間としてよっぽど野蛮だろうよ。ふざけんな。金なんか要らねーんだよ。ただ単に、手切れ金は有用に使うために預かってんだよ」
「有用?」
「あの金は杏実に渡す。金の出所は知らねーけど、俺たちの婚約の祝い金としてな。散々辛い目にあわせて放置してきたんだから、それぐらい当たり前だろ。ただし、俺は別に杏実を養うぐらい金に困ってないんでね、その金は全額、杏実のじーさんの墓のある寺に寄付させてもらう」
私に渡す?
あの時受け取るつもりはないと言っていた、何かに利用するとも言っていた気がする。それが寄付だったのだろうか。
それ自体何の問題もない気もするが……?
「……いったいそれが」
杏実と同様に戸惑ったような父親の声が聞こえる。しかし颯人はその言葉を受け、わずかに口角を上げると、馬鹿にするように鼻で笑った。
「明日から選挙だろ? 明日、寄付の手続きすんだよ。寺っていう地元の有権者に……な。意味分かんだろ?」
「まさか……!?」
「実の親子といえ、8年も家を出てる娘じゃ効果は薄いか? なら、宇多の名義でさせてもらおうか。宇多は役員、なら完璧だ。選挙期間中の身内からの寄付や金銭の受け渡しは一切禁止。たとえ選挙に受かったとしても、法に引っかかってあんたは落選だよ」
「何を言っている! 宇多はそんなことしな……」
「いいわよ」
「宇多!!」
「どうせ拒否したって、この封筒の中の情報を流されたら終わりだもの。身内の余計な恥をかくよりも、そっちの方が害はないわ」
「お前、なにを……」
「所詮、身から出た錆よ。お父様諦めて」
宇多がきっぱりそう言い放つと、その横から母親が金切り声をあげた。
「宇多やめなさい! この卑怯者! こんなことこそこそと調べて恥ずかしいと思わないの」
「こそこそってね……そもそも、あんたらから始めたことでしょう? 下手な探偵を雇って俺の周りを探っていた。よりにもよってあんな信用の置けない探偵をね。勝手に周りうろうろされて気分悪かったんで、ちょっと脅してあんたがたの金額に上乗せしたら、簡単に寝返りましたよ。俺に関して大した情報はあがってこなかったでしょう? おかげで怪しまれずに内部を探ってもらえてこちらは万々歳ってわけだ」
「なっ……なっ……」
「あと、俺には身内にフリーの記者がいる。多少今回の件についても協力してもらったら、地元のネタとはいえ、おいしい情報だから欲しいって言ってたぜ。要は記事にするぐらい朝飯前ってことだ。―――――そしてあと一つ」
颯人はそう言うと、ソファーに座ってその様子を傍観者のように見ていた博己の方を向く。
「勝手にあんたらが決めた杏実のお見合い相手について……」
そう言うと、ぼそっと「言うだけでもむかつく」とつぶやく。
「よくもこんな最低なやつを見つけてきたな」
「何! 貴様!!」
颯人の暴言に博己はソファーから立ち上がり、憤りを口にする。颯人はそんな博巳の様子に怯むことなく、なおも冷徹な視線を向けた。
「二回の離婚歴に子持ち。まあ過去の素行をさておいても……こいつ、ホテルの資金まで流用してやがる。1年前からギャンブルに嵌まってて、このところ借金だらけだって仲間内で有名だったからな。杏実とけっこ……まあこんな奴と身内になれば、借金の埋め合わせをさせられることは必至だろうし、好き好んでこんなやろうに嫁がせようという親がいるとしたら、あんたらぐらいだよ」
「何! 博己!! 流用ってそれは本当か!?」
颯人の言葉に驚いたように白髪の男性が立ち上がり、博巳に向かって怒りを爆発させた。
「あれ? 父親は知らない? それはそれは……。でも、清水さん。遅かれ早かれわかることですから、早くわかってよかったですね。まあそう言うわけで、あんたの息子さんはこちらからまっぴらお断りですよ」
「博己!」
「お父さん……それは後で説明しますから……」
颯人からの突然の暴露で怒りをあらわにする父親に躊躇しながらも、博己は颯人を睨みつける。
「貴様……よくも……っ!!」
「筋違いだろ?」
「何の権利があって……」
「人のもんに手を出す時は、それなりの覚悟をもってしかりなんだよ。がたがたぬかす前に、自分の身辺整理してから同じ土俵に上がって来いよ。まあ初めからあんたなんかに渡すつもりは更々ないけどな。おとなしく泣き寝入りしてろよ。ああ……違うな、その前にお父さんに土下座してお金をもらわないとな。さっきあんたを探してる取り立て屋に自宅の住所と番号を教えてやったんでね。早く返さないとやばいんじゃないか?」
「なっ……」
「ばかめ。小物のくせして、分相応なことに手を出すからだ。とっとと消えろ。ハゲ」
颯人はそう言うと、いっそう鋭い視線を向け、憤りから言い返そうとしていた博己を黙らせた。その様子に颯人は鼻で笑うと、再び杏実の父親に視線を戻した。
「で、わかりました? そんなわけで、あんたらがどう考えようとも、杏実はこちらに返してもらいます」
その声に父親も母親も、ただ颯人を見つめてた。反論しようとも、誰一人として声を出せるものはいなかった。
杏実自身、何が起こっているのかわからないことだらけだった。ただ―――――颯人がこの場にいるすべてを掌握し、自身の意のままに動かしたことだけはわかる。それはすべて杏実のためだと言うことも。
「杏実」
颯人に呼びかけられてハッと颯人を振り返る。いつの間にか、颯人は杏実を見ていたようだ。
「お前……このまま帰りたいか?」
「……どういう意味ですか?」
「お前ずっと、勝手に家を出たことに罪悪感もってたんだろ?」
「え?」
「どんな親でも、お前にとっては切っても切れねーもんな。こんな風にかき回した俺が言うのもおかしいかもしれねーけど、お前にはもうそんな後悔はさせたくないんだ」
「颯人……さん?」
「杏実。これから父親の応援演説して来い」
「……え?」
「もともと杏実の父親はそれが目的で連れ戻したいっていってたんだろ? お前が娘だから……必要だってことだろ。なら……娘として義務を果たしてきたらいい」
娘として?
不思議とその言葉はストンと胸の中に落ちる。
今まで自分は家族の中で厄介者だった。杏実自身を求められたことなど無い。しかし……今回のことは杏実自身を必要とされたのだ。強引なやり方がたまらなく嫌だった。しかし同時にうれしかったのかもしれない。
私は千歳家の娘だと認められた気がしたから。
「杏実」
杏実が顔を上げると心配そうな颯人の表情が瞳に飛び込んできた。
どうして……颯人さんにはわかってしまうのだろう?
「やるか? ……お前が嫌だったら俺は」
「やります!私……やりたい。もし……許されるなら、娘として堂々と応援したい」
「……よし。わかった」
颯人は杏実の返事に優しく微笑んで頭をポンと叩く。そして再び両親の方を向くと、「おいっ」と呼びかける。
「これであんたがたの本来の目的は達成されるんだから願ったり叶ったりだろ? まあ、心配しなくても杏実はあんたがたに不利なことは言わねーよ。俺も先ほどの条件をのんでくれるなら手荒なことはしない。金も返す。……それでいいだろう」
「駄目ですよ! 今この娘にそんなことさせたらを何を言われるか……」
「康子! もういい」
「あなた!!」
「……彼の言うとおりだ。今は選挙が第一だろう」
「そんな……!」
父親はそういうと、なおも反論を口にしようとする母親から視線を外し、博巳の父親に向き直る。
「清水さん。今回の婚約の話はなかったことにさせてもらう。康子の話を鵜呑みにしてしまった私も悪いが、そのような問題を抱えた息子さんとは知らなかった。全く困ったものです」
博己の父親はその言葉に「申し訳ない……」と言って頭を垂れた。博己は下を向いてこちらを見ようともしなかった。
「あなた!」
「いいじゃないか、杏実が堂々と演説すれば周りに示しがつく。この男もそれで納得するなら好都合だ。もともと8年も音信不通の娘だ。こちらに迷惑をかけなければ、圭のもとに帰るなり、この男と結婚するなり好きなようにしたらいい」
「そんな自分勝手なことお許しになるんですか! ぜったいにまたこちらに厄介ごとを……」
「康子! 聞き分けなさい。お前は少々、杏実にこだわり過ぎるように思う。杏実はもともと器用ではないが、そんな悪意のある性格じゃない。今更親不孝なことはせんよ。杏実は私の娘だからな。それは変わらないんだ。それに”今後は一切関わるな”と、その男の方から言ってきてるんだ。もういいじゃないか」
「……っ」
母親はその言葉に言葉を失い、がっくりと肩を落とした。
いままで父親は、全く杏実に興味を示さなかった。母親越しに、父親の気持ちを聞くことはあっても、直接何を思っているのか聞いたことはない。軽く注意されることはあっても、優しい言葉をかけられたこともなかったと思う。だからきっと父親も母親と同じように、杏実のことを疎ましく思っていると思っていた。
“悪意のある性格じゃない”
本当にそう思っていたのだろうか?
そして―――――“私の娘だ”と。
そう思ってくれていたからと言って、今後杏実が実家に帰ることはないだろうし、父親もそれを望んでいるわけではない。勝手にすればいいと言われたぐらいだ。何が変わるわけではないけれど……不思議と気持ちが軽くなるような気がした。
颯人はいったい何をしてくれたのだろう?
四面楚歌な身内の中で、一人で戦っていた。一度は逃げ出したが、また捕まって強引に身動きができないように追い詰められそうになって、それでもまた一人で頑張るつもりだった。しかし颯人が来た。そしてその瞬間から何かが変わったきがする。杏実が戸惑う間に、いとも簡単に杏実をそこから救い出した。そしてすっかり諦めていた願いをかなえてくれた。奇跡のような温かい気持ちを届けてくれた。
圧倒的な支配力。その手腕は“黒の王子”と評するにはぴったりなほど怖かった気がした。杏実の知らない颯人の一面を見た気がした。
しかしその行動のすべては杏実に向かっている気がして……。
どう言ったらいいのかわからない。しかし……これは……この意味するものは……――――――心が答えを知っている
「では話がまとまったところで、会場に戻りましょうか。―――――杏実、行くぞ」
「は……はい」
そう言うと颯人はさっさと杏実の手を握ったままドアに向かう。杏実は振り返り、まだ戸惑った様子の室内を見渡した。その視線が母親とぶつかった。お互い何も言えないまま、時が止まったように見つめ合う。もう会うことはないかもしれない……そんな気がする。
杏実自身がずっと疑ってきた事実。誰も杏実にそのことは言わなかったし、それが真実であると確証はない。物心のつく以前のことを立証する術などないのだ。しかし母親の杏実に対する態度を考えれば、それ以外考えられないと確信していた。だからすべてを諦めたのだ。これ以上傷つきたくなかったし、同時に自分の存在が母親を苦しめていることがたまらなく悲しかったから。
もし……杏実が母親と同じ立場なら、同様のことをしてしまうのだろうか。悔しさと寂しさ……それを直接父親にぶつけることのできない苦しみ。きっと杏実が去っても、母親は生涯その孤独と戦い続けるのかもしれない。
「杏実」
再び颯人に呼びかけられて、杏実は颯人に向きなおる。
この人が……私の未来なのだ。
颯人が切り開いてくれた未来を無駄にはしない。きっと……あのころよりも幸せになってみせる。自分自身の力で。
「行くぞ」
「はい」
解かれることのない颯人の手を握り返して、杏実は颯人に笑いかける。そして颯人に続き、部屋を後にしたのだった。




