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蜂蜜とミルクティー  作者: 暁 柚果
〈 7 〉
96/100

96.姉の想い


「杏実」


 聞きなれた低いテノールの声が、杏実の名前を優しく呼んだ。

 またそんな風に呼んでもらえたことがうれしい。そして同時に、先ほどまで気を張って強張っていた身体の緊張が、一気に解けていく気がする。そのぬくもりが心地よくて、心強くて、たちまち心細かった想いが胸にあふれて涙となって流れ出した。

 杏実が泣き出したのが分かったのか、颯人はわずかに身体を離すと、杏実の顔を覗き込んだ。


「遅くなってごめん」

 杏実と視線を合うなり、颯人は申しわけなさそうにそう言った。涙で歪んだ視界の先に、颯人の困ったような顔が映った。

 

 ごめんだなんて言わないで。

 なにも悪くない、来てくれてうれしい。


 そう伝えようとするが、胸が詰まってうまくいかない。杏実はもどかしい思いで首を振った。颯人はそんな杏実を優しく見つめ、目尻から絶えず流れ出す涙を、そっと手のひらで拭った。

 もしかすると言わなくても、颯人は今の杏実の気持ちはわかっているのかもしれない、と思う。心地よいぬくもりが、そう伝えてくれているような気がした。


「あ………」

 名前を呼ぼうとして口を開いた時、後ろから博己の怒鳴り声が聞こえた。


「君! どういうつもりだ!? 彼女を離したまえ!!」

 そうだ!

 杏実はその声にハッとする。今の状況を思い出し、急いで離れようとすると、杏実がそうすることが分かっていたのか、身体を離そうとするよりも早く、強く腕の中に閉じ込められた。

 そして怒気を含んだ颯人の声が、押し付けられた胸越しに響いてきた。


「嫌だね」

「何!?」

「嫌だ、つってんでだろーが! あんたにとやかく言われる筋合いねーんだよ」

「なっ……」

「……ひとのもんにべたべた触りやがって。てめーなんか眼中にねーんだよ、わかんねーのか! 勘違い野郎は引っ込んでろ!!」

「なっ………なっ!!」

 博己は颯人の暴言に、言葉を失って口をパクパクと動かした。気を取り直して言い返そうとするが、颯人のどす黒く立ち込めるオーラと鋭い眼光に恐れをなして閉口し、視線を逸らした。 

 杏実は颯人の剣幕に驚いて、閉じ込められた腕の中から颯人の顔を見上げる。至近距離の中で颯人は杏実の視線に気が付くと、氷のような瞳をたちまち和らげた。


「好き勝手されて腹立つ。ちょっと先に上書きしとく」

「?」

 そして少し顔を下げ、不思議に思って颯人を見つめる杏実の頭頂部に、軽くキスを落とした。驚いて目を丸くする杏実と視線が合うと、颯人はこのところ時折見せる、とろけるような笑顔を向けてくる。緊迫した状況なのに、颯人の甘い雰囲気にたちまち顔が赤くなってくる。

 なんだろう……今日の颯人はいつもと違う気がする。



「宇多! どういう事だ!」

 すぐ横で父親の声が聞こえてきた。しばらく颯人と見つめ合っていた杏実は、その声に我に返って、声のする方へ振り向いた。

 今は……後援会の途中だったのだ。颯人がそこにいるだけで安心して、周りの声さえ聞こえなくなる気がする。

 颯人が来てくれた。

 しかしそのことで、自分の置かれている最悪の状況が変わるわけではないのだ。しっかりしなくては………巻き込んでしまう。

 そう思って気を取り直した杏実の横で、父親が苛立ちを隠せない口調で宇多に怒鳴りたてた。


「私の演説を中断させて、どういうつもりだ! 今の大切な時にっ……」

「お父様。突然このようなことをして、謝ります。でもこれはお父様のためなんです」

 飾り気のない黒いスーツに身を包み、毅然とした態度で父と向かい合っている宇多がいた。

 杏実の記憶では、宇多は父親とはいつも視線を合わせずに話をするようなところがあったように思う。このように、視線を逸らさずに対峙する宇多の態度は、杏実にとっては意外な光景に映った。早口でまくしたてる父親の口調とは逆に、宇多の声は冷静そのものだ。葵もどんな時でも冷静さを崩さない。しかし宇多の口調はどこか温かみを感じさせた。


「どういう意味だ!」

 憤りを隠せない父親に、宇多は周りに聞こえないようにそっと耳打ちをする。そして手から何か封筒のようなものを渡した。父親はその中身を見てハッと表情をこわばらせた。


「宇多………これはっ………いったい……」

「彼が持ってきたんですよ」

「彼だと?」

 動揺を隠せないように目を泳がす父親は、宇多の指し示す意外な(・・・)人物へ視線を向けた。それを待っていたかのように、宇多の言う“彼”が口を開いた。


「初めまして。朝倉 颯人と申します」

 

 え………?

 杏実は驚いて颯人の方を見つめた。颯人は口元に笑みを浮かべ、杏実の父親を見据えていた。


「朝倉………?」

「お父様。とりあえず……別室へ。話はそれからです」

「……うむ」

 宇多の声に父親は軽くうなずいて、颯人から視線を逸らした。さらに宇多は「清水さんも一緒に」と言うと、両親やすぐに駆けつけた葵を誘導するように、出口へ向かった。

 しかしふと振り返ると、宇多は意外にも颯人を振り返り「先に行ってるわよ」と声をかけた。


 宇多姉さんと颯人さんがどうして……?


 そもそもなぜここに颯人がいるんだろう。

 そして、父のあの顔……宇多はいったい父に何を見せたのだろか。どうして別室へ? ”彼”って何? 颯人さんがどうして??

 さまざまな疑問が湧いてくるが、何一つ答えとなるものはない。

 困惑を隠せない杏実をよそに、颯人は落ち着いた声色で宇多に返答を返す。


「ちょっと野暮用があるんでね。しばらくよろしく」

「………野暮用?」

 その言葉に宇多は出口に向かいかけた足を止めた。そして怪訝そうに顔をしかめると、颯人の腕の中にいる杏実にちらっと視線を向けた。先ほどから颯人の腕は一向に緩むことが無く、杏実はいまだ颯人に抱きしめられていた。突然の宇多からの視線に、恥ずかしくなり離れようとするが、やはり颯人の力が緩むことはなかった。


「あ……朝倉さん!」

「朝倉?」

 動揺からとっさに呼びかけた杏実の言葉に、颯人は目を細め、低音の声でつぶやく。その鋭い視線に怖くなってビクリと身体を揺らした。同時に、ハッと大切なことを思い出す。

 颯人は今”婚約者のフリ”をしてくれているのだ。そして杏実が婚約者としてしなければいけないこと……


「颯人……さん?」

「ん?」

 言い直した呼びかけに颯人はにっこりと返答を返してくる。どうやらこれで正解らしい。

 杏実はホッとして言葉をつづける。


「あの……う………宇多姉さんが見てるので……」

「何?」

「………その恥ずかしいので………少し離してください!」

 杏実が小さな声で必死で懇願すると、颯人はその言葉にニコッと意地悪そうな笑みを杏実に向けた。


「嫌」

「………いっ……嫌?!」

「うん。嫌」

「そ………そんな………」


 そんな二人のやり取りの横から、盛大なため息が聞こえた。ハッと宇多の方を振り向くと、宇多は先ほどよりもずっと鋭い瞳で颯人を睨みつけていた。


「あんた、杏実を離しなさいよ」

 明らかに怒気を含んだ口調に、杏実は反射的に身体を硬くする。しかし睨まれている張本人はどこ吹く風で、余裕の表情を浮かべて宇多を見据えた。


「やっぱりね……おかしいと思ったのよ、こんな男が杏実の婚約者だなんて……。杏実こっち来なさい」

「え?」

「あなた。脅されてるんじゃないの? そうでなきゃ……騙されてるとか」

「宇多姉さん?」

「杏実はバカが付くぐらい人が良いから、そこにつけこんでるんでしょうけど……私は騙されないわよ」

 杏実が戸惑って颯人を見上げると、颯人はニヤリと笑い「そう来たか……」と小さくつぶやく。やがて杏実の視線に気が付くと、面白そうに片目をつぶって見せた。


 え?


 そしてその表情とは打って変わって意地の悪そうな笑みを浮かべると、宇多に視線を移した。

 

「人聞き悪いなぁ~……杏実のことなんてどうでもいいんじゃないんですか?」

「なんですって!?」

「8年も放たらかしにしといて………今更、姉面ですか」

「なっ………」

「結果的に杏実を追い出したのだって、あなたでしょ? 両親に反抗する杏実は、宇多さんにとってまさに”目の上のたんこぶ”だったんじゃないですか。所詮、杏実は厄介者です。俺が杏実の弱みを握ってようとも、脅していようとも……今更、宇多さんにとって関係ない話でしょう」


 弱み? どうしてそんな言い方……

 協力してもらっているのは杏実の方だ。脅されているどころか、いつも力を分けてもらっているのは杏実の方で、颯人の言動は正反対に近い。とっさに否定しようと思ったが、さっきの面白がっている表情が気にかかった。

 颯人は悪者になろうとしているのだろうか。いや、しかし……先ほどの言動は颯人がどうと言うよりも、宇多を挑発しているような……

 もしかして颯人は宇多を怒らせようとしている? なぜ?


「関係はあるわよ!!」

 颯人の思惑通りか、宇多は怒りを込めた口調で颯人に怒鳴りたてた。


「確かに追い出したのは私よ。でもそれは、こんな両親のそばにいたら杏実がダメになると思ったからよ」


 え?

 宇多の意外な言葉に、驚いて目を丸くする。宇多はそんな杏実を一瞥し、バツの悪そうに思いの丈を語り始めた。


「この8年間、寂しい想いをしてるんじゃないかと思うたび、何度も連絡しようとしたわ。でも私の声を聞けば決別の決心が鈍るかもしれないと思った。だから連絡できなかったのよ……。私は……杏実よりずるくて………臆病で………だけど、姉なの。ずっと杏実には幸せになってほしいと願ってた。こんな家にいるよりも自由にあたたかい場所で。今更? そうよ、今更よ。でも私の中では8年経とうが、関係ない。私はいつでも杏実の姉なのよ。だからあんたなんかに大切な妹を好きなようにさせない………させるもんですか!!」

 そう言い切ると、宇多は息を切らせながら颯人を睨みつける。

 杏実は宇多から次々と語られる意外な想いに、耳を疑ってしまう。


 本当に? 宇多姉さんは私を“大切な妹”だとおもってくれてたの? 


 昔から宇多は杏実を無視することはあっても、葵のそれとはどこか違う気がしていた。だから宇多のことは嫌いになれなかったし、どこかで信頼する気持ちさえあった。

 しかし、宇多がこんな風に言葉にしてくれたことはなかった。こんなにも自分のことを心配して……想ってくれていたなんて……。杏実は温かい気持ちが胸に広がるのを感じた。


「やっぱり、杏実の勘違いじゃないってことか………」

「はぁ? どういう意味よ?!」

 颯人は宇多の言葉を聞き流すように、杏実に視線を向け、優しく笑い「よかったな」と言った。


 ああ………そうか。――――――颯人は杏実のために宇多の本心を探ってくれたのか。


「はい」

 そう言って杏実は颯人に満面の笑顔を向けると、颯人はポンポンと杏実の頭を叩いた。



「ちょっと聞いてるの!?」

 再びしびれを切らせたような、宇多の怒声が響いた。

 颯人はその声に「はいはい、聞いてますよ」と返事を返して、面倒くさそうに宇多の方へ向き直る。


「さっきのは、ちょっとした冗談です」

「はぁ?」

「俺は杏実を騙してないし、弱みなんか握ってません」

「嘘言うんじゃないわよ! 初対面にかかわらず私を脅しといて……」

「全く、疑り深いな。ちょっとあんたが本心で杏実のことどう思ってんのか、探ってみただけでしょ」

「は?」

「現に杏実喜んでるんで、勘弁してくれませんか? なんで杏実のために動いてるのに、こんな風に疑われなきゃいけないんだよ。……どちらかというと、こちらが弱みを握られてるぐらいなのに」

「え?」

 その言葉に不思議に思って声を上げると、颯人はそんな杏実の顔を見て苦笑する。


「ほんと………鈍いよな」

 颯人はそう言うと杏実のウエーブがかった亜麻色の髪を手に取り、ゆっくりとその一すくいの髪束にキスを落とす。驚いて目を丸くする杏実に、物憂げな表情を浮かべ口元に笑みを携えた。


「惚れた弱みだよ。ばーか」

 杏実は丸くした目をさらに見開くと、颯人は「これだからな………」と小さくつぶやいた。

 

「ふざけないで!!」

 そんな二人の様子にしびれを切らしてか、宇多が口を挟む。


「本当のことですよ。宇多さんが俺のことどんな風に思ってるかは知りませんが、婚約してるんだから当たりまえの話でしょう。お互いの気持ち以上の、裏はありませんよ」

「何を……」

「杏実も俺が好きだから婚約してるんです」

「え!?」

 杏実は今更ながら、さらりと言われたセリフに声を上げる。その声を待っていたかのように、颯人は杏実を見据えてにっこりと笑みを浮かべた。


「杏実、そうだよな?」

 颯人の言葉の意味と、今何を求められてるのかを悟った瞬間、顔が真っ赤に染まる。

 葵に連れ去られホテルで次に会った時は、颯人に思いを伝えようと決意したのだ。どんな答えが返ってきたとしても、もう逃げないと。

 しかし……今? いや、違う。これは正しくはそういうフリ(・・)をしている途中だ。颯人は婚約者のフリをしている……颯人は杏実にその役に見合った言葉を聞き出そうとしているだけなのだ。

 答えなくては! そう思うが、こんなこと嘘だとわかっていても、本人に言う事は難しかったりする。


「あの……その……」

 しどろもどろで答える杏実を、面白そうに颯人が見つめる。そして横から宇多の刺すような視線を感じた。

 どうやら宇多は颯人を嫌っているようだ。

 そして颯人と杏実の婚約を疑っているらしい。先ほどの颯人の誘導がそれを助長させたようだ。杏実にとっては、思いがけず宇多は杏実を妹として大切に思ってくれているということが分かったのでうれしかったのだが……。

 ここでしっかりと杏実の気持ちを答えなくては、さらに宇多の疑惑を増幅させてしまいかねない。

 でも―――――そもそもなぜ、颯人と宇多が知り合いなんだろう? なぜそんな風に颯人を誤解することに?

 ああ、ダメダメ! 

 今はそんなどころじゃない。答えなくては。………嘘だけど嘘じゃない。

 

 告白したっていいのだ。


「…………好き………颯人さんが」

 思ったより声に張りが出ず、小声となってしまったが、颯人の腕がわずかに緊張し力が入ったことで、杏実の声が聞こえたことが分かった。

 恥ずかしい。

 思い切って告ってみたものの、顔は見れそうにない。颯人が今どんな表情をしているのかはもちろんこちらを向いているのかさえ分からない。

 颯人も、急に口を閉ざしてしまい、ますます気まずい。

 杏実が恥ずかしさからうつむいて顔を上げられずにいると、宇多はためらいながら杏実に問いかける。


「本気なの……?」

 宇多を振り向くと、宇多は戸惑うような瞳で杏実を見つめていた。杏実を心から心配している気持ちが伝わってくる。

 こんなに想われていたのか。辛い過去を乗り越え、今になって……いろいろな人の気持ちがわかるようになってきた。不思議な気持ちだ。


「うん」

「……そう」

 宇多はそう言うと、一度大きなため息をついて、「それなら……仕方ないわね」と杏実に寂しそうに笑いかけた。そして再び顔をしかめて颯人に向きなおる。


「腹が立つけど、杏実がそう言うなら信じるしかなさそうね。私も覚悟を決めたわ。朝倉 颯人。あんたがどう出ようとも私は私のやり方で杏実を守る。あんたなんかに頼るつもりはないし、もし泣かせたらただじゃおかないわよ……覚えときなさいよね」

「……はいはい。わかってますよ」

「その顔、なんか癪に障るわね。なんで……よりにもよって杏実がこんな奴と…………」

 そうつぶやいた後、宇多は眉間に深く皺をよせ閉眼する。そして何度か頭を振ると静かに目を開けて二人を見据えた。


「もういいわ。ほんと本当に杏実のことが大切だっていうなら、さっさと両親の件を片付けなさいよね。約束通りここまで協力したんだから、しくじったら承知しないわよ!」

「……へいへい……」

 そのものぐさな返事に、明らかに宇多のこめかみに青筋がたつ音が聞こえた気がした。

 

 杏実の頭の中にさまざまな疑問を残しつつ、こうして予期せぬ両親との対立が始まろうとしていた。





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