9.託された蜂蜜
「アメちゃんなんだかすごい荷物だね。花まで持って……今日は何かあるの?」
「……ああこれですか」
手元の花を見る。バラやガーベラ、スイートピーの華やかな色合いと、思わず笑みが浮かんできそうなかわいい赤い実が元気な緑の葉っぱに囲まれたかわいいブーケだ。それを包む透明なセロハンには、オレンジのリボンが括り付けられており、杏実にはもったいないぐらいの豪華な花束だった。
今日辞めるということは、『スクラリ』の店員以外には話していなかった。
もしかすると常連客には挨拶ぐらいするのが礼儀だったのではなかったのか、と改めて思い返す。
平田も杏実のコーヒーをいつもほめてくれていたし、その言葉はいつもとてもうれしかったのだ。
「実は私、今日でここを辞めるんです」
「え……? そうなの?」
「はい。平田さんにもお世話になりました」
杏実はぺこりとお辞儀をする。生活の為に始めたバイトだったが、いつの間にか『スクラリ』は生活の一部になっていた。
「そっか……アメちゃんの入れたコーヒ―好きだったのに。残念だね……」
仕事も好きだったので、常連の平田からの言葉に寂しさを覚える。
「ありがとうございました……」
「なんだか寂しくなる……って……あ……そうだ」
「はい」
「朝倉は? ……朝倉はこのこと知ってるの?」
名前が出てきてドキッとする。
「いえ……」
言えなかった。最後に会えなかった後悔が、再び杏実の中に広がる。
「そっか…」
そういうと平田は考え込むように視線を下におろした。
―――――本当は伝えるつもりだった
しかし朝倉がお客様として『スクラリ』に訪れない限り、接点はない。所詮はその程度の繋がりだったのだ。
―――――会いたかった
胸の痛みが辛くてうつむいた瞬間、カバンから覗く蜂蜜の瓶が目に入った。渡すつもりだったプレゼント。
(あ……そうだ!)
これは最後のチャンスかもしれない、と思い返す。
平田に聞くなら今しかない。
「あのっ! 今日朝倉さんは……」
「……先週から海外に出張してるんだ。帰ってくるのは来週になると思う」
「そう、でしたか……」
先日からスクラリに現れなかった理由がわかった。しかし同時にその言葉を理解する。
(やっぱりもう会えないんだ……)
平田から事実を聞いたことで現実を叩き付けられたようだった。涙が溢れてくる。
「アメちゃん……」
平田が杏実を呼んだ。あまり聞いたことのない気遣うような声だった。
その声に、はっと我に返る。
(そうだ……今は平田さんの前)
後悔してももう遅いのだ。
会って気持ちを伝えたところで結果は見えていた。落ち込むのは帰ってからでいい。
「アメちゃん…」
「平田さん」
でもこれだけは伝えたかったことがあった。
「ん?」
「朝倉さんに……渡していただけませんか?」
そういってカバンから包みを取り出し、平田に手渡す。
「これ……って?」
「蜂蜜です。朝倉さんのミルクティーに入れてたものなんですけど、実は私の私物なんです。朝倉さんが気に入ってらっしゃったみたいなので、辞める時にお渡ししようと用意していたんです」
「そうなんだ……」
平田は手元の瓶を見つめながらつぶやく。
「もうお会いすることはない………と思いますし、平田さんから渡していただけませんか?」
「わかった」
平田がうなずいてくれるのを見て、杏実はホッとした。
この蜂蜜を朝倉に届けることはできた。今は―――――それで満足だ。帰ってからは……泣いてしまうだろうけど。
「ほかに朝倉に伝えておくことはない?」
平田が真剣な目で見ていた。
敏い平田のことだ。とっくに杏実の気持ちなんてお見通しだったのかもしれない。しかしその言葉は、平田の精一杯の気遣いのように感じてうれしかった。
伝えたいことはたくさんあるはずなのに、何も思いつかなかった。
「いえ……何も。ありがとうございました、とお伝えください」
杏実は笑顔でお礼を言って頭を下げた。
本当に笑顔を作れていたのかはわからないが、今はそうしなければいけないと思った。
しかし顔を上げようとすると自然に涙が溢れてきて、それを見られないよう少しうつむき加減に視線を逸らした。
平田を困らせてはいけない。
「では…」
これ以上長居はできない。別れの挨拶をしようと口を開いた時、平田がその言葉を遮った。
「でも……僕がタダで頼まれると思う?」
「え?」
とっさにびっくりして顔を上げると、平田がニコッと微笑む。
”王子様スマイル”
いつものように意地悪そうに……
「代わりに僕の質問に答えてもらうよ。拒否権は無し」
そう言うと、フッと笑みが消えた。
平田は真剣なまなざしで杏実を見つめていた。
「君は…………―――――
平田から発せられる言葉は、たわいのない質問だった気がする。
でもそれにどんな意味があることなのか、その時の杏実にはわからなかった。