89.談話室での宣戦布告 ~圭side~
「颯人達は今日帰ってくるんじゃったかな?」
昼下がり。いつものように圭はフミと部屋のソファーでお茶を飲んでいた。そんな時、不意にフミがそう問いかけてきた。どんよりと曇った空を窓越しに見つめながら、圭は「そうね……」とつぶやく。
”颯人達”というのは、颯人くんと杏実のことだ。昨日は、夫の命日で、杏実は昨日から圭の代わりに墓参りに行ってくれていた。
夫の墓参りはこちらに越してきてから8年間、杏実が毎年足の悪い圭を気遣って、代わりに行ってくれている。新幹線で2時間、あとはバスを40分ほど乗り継いでいく距離。遠路と言えばそうなのだが、杏実は慣れてしまえば何でもない、と言っていた。杏実にとっては生まれて20年間住んでいた土地なのである意味はそうなのかもしれないが、本当のところ、圭に気を使わせないための嘘なのだと思う。口にはださないが、杏実は勝手に自分が家を出たことに、今でも罪悪感を抱いている。そして心の奥底に家族……圭にとっての息子達(杏実の両親)の愛情を欲しているのだ。
当たり前だと思う。親の愛情を求めない子供はいない。
杏実は毎年のように墓参りから帰って来ると、しばらくは寂しそうな表情をしていた。そんな様子を目の当たりにすると、杏実の気持ちが手に取るようにわかって、もう行かなくてもいいと何度も言った。しかし杏実は「大丈夫、何でもない」と言って、毎年故郷へ赴く。杏実は寂しい反面……どこかで両親に会えること、認められることを願っているのかもしれない。そう思うと、杏実を強く止められない自分がいた。
しかし今年は別の……何か胸騒ぎがする。
自分と杏実が家を出て、音沙汰のなかった息子達。先日、突然杏実にコンタクトを取ってきた。結局のところ、息子たちは時が経ってもやはり何も変わってなかった。その事実にガッカリさせられたのだが、自分よりも杏実の方がもっと衝撃だったに違いない。勝手に連れ戻し、お見合いをさせようとしていたのだから。
時を得て、やっと平穏を手に入れ始めた杏実。そんな杏実に、息子達は再び辛い仕打ちをするつもりではないのか……それが気がかりでならない。
「まさか颯人がついていくと言うとはなぁ~。カモフラージュとはいえ、婚約者になってもいいと言った時も驚いたが……杏実ちゃんが好きなんじゃろーな……」
「……」
フミの言葉に、何と言ったらよいのかわからず閉口する。はたから見ればその通りだろう。最近の颯人くんの態度は、それを物語っているのだ。しかしそれをはっきりと肯定することは、颯人くんとの約束を破ってしまうのではないかと思う。それが真実か、そうでないかは、颯人くんがフミに直接伝えなくてはいけないことだ。
たとえ、少しリスクがあろうとも……
――――
「颯人くん、待ってちょうだいな。少し話、いい?」
「圭さん……いいですよ」
颯人くんが”杏実の仮の婚約者になってもいい”と言った数日後。圭はフミに知られないようにこっそり、ホームから颯人くんが帰るところを呼び止めた。
颯人くんは特に嫌がることなく、「下の談話室でも行きますか?」と圭に問いかける。圭が呼び止めたことに、特に疑問を抱いていないらしい。もしかすると……こうして圭が颯人くんを呼び止めるだろうことをあらかじめ予測していたのかもしれないと思った。
談話室には幸い誰もいなかった。
PM8時になり、ほとんどの面会者も帰っている時間だ。ちょうどよかったと思う。
颯人くんは圭が椅子に座るのを助けてくれた後、備え付けの簡易キッチンへ向かう。そして二人分のお茶を机に置くと、圭の向かいの席に腰かけた。
自分から呼び止めたものの、初めに何と言ったらいいのかわからない。ただし、今日は―――――颯人くんの本心を聞くつもりだった。
颯人くんは無愛想なところがあるが、本当は優しい子だと言うことはわかってる。しかし、不用意に杏実に近づいて傷つけられては困るのだ。もうあの子は十分傷ついてきた。何事もなく幸せになってほしいと思っていたのだから。
「突然、ごめんなさいね」
「いえ。実は……僕も圭さんに聞きたいことがあったので」
聞きたいこと?
その意外すぎる言葉を聞いて、少し気にかかって聞き返してみる。
「あら? 聞きたいことって、なにかしら?」
「……それは……それよりも圭さんこそ、僕に言いたいことがあるんじゃないんですか?」
その言葉にやっぱりと思う。
颯人くんは今から言わんとしていることを、薄々気が付いている。
「そうね。では私から……。今日、私が颯人くんを呼び止めたのはね、杏実のことを聞くためなの」
「はい」
「颯人くん。単刀直入に聞かせてもらうわ。あなた、杏実のこと好きなの?」
その圭の言葉に颯人くんは一度大きく目を見開いた。きっと圭のあまりに率直な言葉に、戸惑っているんだろう。颯人くんの表情からは肯定も否定も感じなかったが、圭に視線を定めたまま、しばらく何も答えなかった。
「もしどんな答えでも、私はフミちゃんには言うつもりはないわ。もともと……フミちゃんがあなたと杏実をくっつけようとしていたけれど、私は実際のところ関与するつもりはないの。結局は二人の問題だから、周りがどうこう言う事じゃないでしょう? でも本当のところ……杏実の恋人に……颯人くんが最適なのか……はっきり言ってそうとは言えないと思ってる。あなたが悪いって意味じゃないのよ。でも杏実はあの通りぼんやりだし、きっと……杏実には颯人くんは手におえないんじゃないかと思うってことよ」
そこまで言いながら、颯人くんを見る、颯人くんはじっと自分の話を聞いているようだった。
「つまり何が言いたいかって言うと、もし杏実のことを恋愛対象としてみていないのなら……杏実に同情しているのなら、颯人くんには今回の件から手を引いてもらいたいってことなの。颯人くんがとっさに葵ちゃんに“婚約者だ”と言って、反発してくれたことは感謝してる。杏実には泣いて帰ってくるぐらいしかできなかったでしょうから。だからフミちゃんがあんなこと言って、あなたが親切で引き受けてくれたことにも感謝してるの。少なくとも身近に、真剣に杏実のためを思ってくれている人がいるってことは、杏実にとっても励まされるだろうしね。……でも、杏実ももう大人だし、一人でも何とかやってくれるんじゃないかって思ってる。反対に今、颯人くんを巻き込むのは……その……もっと傷つくことになるんじゃないかって少し不安なのよ。言わんとしている意味……わかってもらえるかしら?」
そこまで言うと颯人くんは真剣な表情でうなずく。反対に誤解されて、颯人くんを傷つけてしまったらいけないと懸念していていただけに、少しホッとする。
「私たち家族のことなんだから、颯人くんが心配することはないのよ。だから遠慮なく本心を話してくれない?」
そしてもう一度初めに聞いた言葉の答えを促す。
颯人くんは少し沈黙した後、覚悟を決めたのか圭の瞳をじっと見つめてきっぱりと答えた。
「俺は杏実が好きです」
「……え?」
思わず聞き返してしまった。杏実にはひどい話かもしれないが、あまりに意外すぎたのだ。てっきり……否定の言葉でなくても、もっと曖昧な答えが返ってくるものだと思っていたのだ。
戸惑う圭に、颯人くんはさらに言葉を続ける。
「圭さんが言っている意味、分かります。僕が今までどんな女性とも真剣に付き合ったことが無いのも認めますし、こんな性格ですから杏実にふさわしくないと思います。杏実は……バカみたいに無垢ですからね。でも……僕にとっても今回は真剣なんです。だから手を引くつもりはありません」
そうきっぱりと言って、圭に強い瞳をぶつけてくる。
信じられない……どうやら本気で言っているようだ。
「そう……だったの……」
「はっきり言って、僕だってこんなややこしい相手はごめんでした。フミ婆はうるさいし、何と言っても圭さんの孫ですから。下手なことすれば、筒抜けて恨まれなかねないですしね。萌も心から杏実のことを慕ってるみたいでしたし……まあ言ってみれば一番相手にしたくなかったんですよ。でも……無理でした。知らない間に惹かれて……いつのまにか杏実から目が離せなくなって……自分を否定すればするほど嵌まっていくんです。でもそんな想いが2度目だと気が付いた時に、あきらめました。もう正面から向き合うしかないって思ったんです。だから……僕は杏実をあきらめるつもりはありません」
「あの……ちょっと……2度目って?」
「杏実のことは、フミ婆にここで引合される前から知ってました」
「え?! そうだったの?」
「杏実は、そう言ってませんでしたか?」
「知らないわ……初耳よ」
「そうですか……。杏実とはたぶん出会ってから5~6年は経つと思います。でも杏実が圭さんの孫ってことは知りませんでした。杏実も知らなかったと思います。僕はフミ婆と苗字も違うし……何より僕は、杏実の本当の名前すら知りませんでしたから」
「どういう意味なの?」
「……杏実がカフェでアルバイトしてたのはもちろん知ってますよね?」
颯人くんが紡ぎだす意外な事実に戸惑いながらも、静かにうなずく。それを見て颯人くんは話を続ける。
「そのカフェは僕の会社に併設しているカフェでした。そこのカフェちょっと変わってて、店員の名前はすべて偽名だったんです。だから杏実のことは知っていても名前は知りませんでした。まして客と店員じゃそれほど接点もありませんし……でもなぜかその時から杏実のことは気になっていたんです。杏実が入れてくれる紅茶が飲みたくて、気づけばシフトの時間にわざわざ足を運んでました。もちろん特別に話をしたこともなくて……今のように強い想いじゃありませんでしたし、実を言うと海外から戻ってきて、ここでフミ婆に引合された時、杏実がその子と同一人物だとは全く気が付かなかったんですよ」
そう言って颯人くんは「情けないんですけど……それ以外にもいろいろ誤解してて」と言って苦笑した。
しかし颯人くんの言おうとしている意味はなんとなく分かる気がする。2年も経つと相当親しい人でないと外見が変わっていればわからなくなることはあるだろう。杏実に関しては働き始めてから少しおしゃれもするようになったし、気が付かないのも無理はない。まして杏実は自分に対しても颯人くんとは知り合いだとは言わなかった。と言うことは、颯人くんにも言わなかったのだろう。
「そうだったのね。あなたたちが知り合いだったなんて全く気が付かなかったわ……杏実も一言も言わないから。でも……杏実のことだもの、言わなかった理由は想像できるわ」
「そうですか?」
「ええ。本当に自分に自信が無いのよ。大方もう颯人くんは覚えてないんだろうと、思ってたんじゃないかしら」
「ははは……」
そう言うと颯人くんは同意するように楽しそうに笑う。颯人くんにとってその想いの形は違うにせよ、杏実はもう大分前から特別な存在だったらしい。颯人くんの話は予想外の連続ではあったものの、真剣な気持ちが伝わってきて、初めて颯人くんの誠実な一面を見た気がした。杏実の気持ちはわからない。しかしこうして真剣に向き合ってくれる颯人くんが相手ならば……。
「他人のことにはあれこれ手を焼く癖に、自己評価が著しく低いのよね」
「それは……やっぱり杏実の両親に関係があるんですか?」
「まあ……そうでしょうね。杏実が何をやっても否定されたから……」
「そうなんですか……」
颯人くんはそう言うとそのまま黙り込んでしまう。静かに怒りを抑えているようだ。その表情からも本当に杏実のことを大切に思っているんだということがわかる。颯人くんはやがて落ち着いたのか、何か思い立ったように口を開いた。
「杏実の両親は……このまま諦めてくれると思いますか?」
「杏実のこと?」
そう言うと颯人くんは静かにうなずく。
「わからないわね。英明は杏実に対してと言うよりは、家族の誰にも執着はないと思うわよ。でも康子さんは……違うかもしれない」
「どういう意味ですか?」
”どういう意味”?……杏実は知らない事実。このことは誰にも言うつもりはない。
「……とにかく、杏実に具体的に話を持ってきたって時点で、向こうでもある程度話を進めてから来てると思うのよ。ましてそれは自分自身の利益のためなんでしょ。……となると、あきらめないかもしれない」
「この程度じゃ、引かないってことですか?」
「そうね、そう思うわ。きっと……いずれ、もっと準備を進めてから有無を言わさず連れ戻すかもしれない。杏実だって拒否するとは思うわ。でも……」
颯人くんはじっと圭の言葉に耳を傾けていた。その瞳の中に圭と同様の不安が現れているような気がした。
「でも……どうでしょうね……あの子は……自分を大切にできるかしら。……自分が我慢すればいいと思って、協力して、そのままあの子の意図しない方向に進んでいくかもしれないわ……。私についてきてもう8年になるけど、いつまでたっても自分の居場所が見つけられていない気がするの。……いつも迷惑を掛けないようにと遠慮して……周りの愛情に鈍感なのよ。バカな子よね」
杏実がもっと自分やこの環境に執着を持ってくれたら、もっと我が儘になってくれたら、状況は変わるかもしれないと思う。たとえ息子達に押されようとも、流されないと思うのだ。しかし……今はまだ、それは望めないかもしれない。祖母の存在だけでは杏実を引き留められない……むしろそれを逆手に取られる可能性すらある。
「わかりました」
圭はその声にハッと我に返る。少し感傷的になっていたようだ。圭が視線をむけると、颯人くんはニコッと圭に笑顔を向けた。
「僕ができる範囲で、向こうの出方を探ってみます」
「え?」
「僕も杏実がいなくなったら困るんです。杏実自身にできないと言うなら、周りが抵抗すればいい事です。いざって時に抵抗できるよう、いろいろ相手の情報を仕入れておきましょう」
「そんな、どうやって?」
「方法はこれから考えます。手始めに杏実の両親や姉弟の名前、何かほかにキーマンになる方がいれば教えてください」
颯人くんはそうきっぱり言い放つと、カバンからパットを取り出す。そして戸惑いながら答える圭の言葉を打ち込んでいく。
抵抗?
颯人くんは何を考えてるんだろう。
「あと……僕が聞きたかったことですが、弟の“忍君”の携帯番号を教えてください」
「忍君?」
「はい。忍君は杏実に好意的ですよね。まずはその辺から味方につけて情報を仕入れてみようかと思って」
なるほど。それはいい方法かもしれない。
そう思って、後で手帳に書き込んだ電話番号を知らせることを伝えると、颯人くんは満足そうにうなずく。
「では、圭さん。何か分かったら知らせますね」
「わかったわ。……その……無理なら本当にいいのよ?」
「わかってます。ただ……一つお願いがあります」
「なに?」
「この事、杏実には言わないでください。こんな風に家族のことを他人に探られていい気はしないだろうと思うので。もちろん、杏実が自分から聞いてきたときには答えます」
「そうね……言えば下手に気にしてしまうかもしれないわね。わかったわ」
圭の返事を聞き、颯人くんはホッと表情を和らげた。
一通り話しが終わると、颯人くんは飲み終わったコップをキッチンに置きに行き、圭が立ち上がるのを助けた後、カバンをもってドアに向かっていった。
別れ際、そう言えば言っておかなくてはと思い、改めて口を開いた。
「颯人くん」
「はい?」
「あなたの気持ちは分かったし……協力してくれることはありがたいので、とりあえず黙認させてもらいます。でも、くれぐれも杏実の気持ちを無視しないでくださいね?」
その言葉にぐっと颯人くんは息を詰まらせた。やがて慎重に言葉を選ぶかのように「わかってます」と言った。
仮にも一緒に住んでいるのだ。間違いがあっては困る。
「そう。ならいいの」
「でも……」
ホッとしてそう言う圭の言葉に重なるように颯人くんが口を開く。
「?」
「杏実が僕のことを好きになった場合は、遠慮なくいただきます。その時は認めてくださいね」
そう言ってにっこりと笑い「じゃあ。帰ります」と言って踵を返して行ってしまった。
宣戦布告……ね。
まったく杏実は厄介な男の人に惚れられてしまったらしい。……そう思った。
その後も颯人くんはその言葉通り、どこからか情報を仕入れて息子達の様子を報告してくれた。
9月に入り選挙まであと三週間。いまだ直接に杏実に連絡はないものの、颯人くんの話によると杏実のお見合い話はそのまま進行していることが分かった。
結納なども本人不在で行われたらしい。颯人くんは息子達がどのように杏実に接触してくるのか、懸念しているようだった。
無理やりに連れて帰るつもりだろうか? そうあれこれと考えていた時、杏実から「今年もお祖父ちゃんのお墓参り行ってくるからね」と言われた。
その時ハッとしたのだ。きっとその時になにか接触を図るに違いないと。夫の命日は選挙の始まる2日前。それまでに公表するつもりだろうか……
急いで今年はやめようと提案した。しかし全くそんな事情を知らない杏実は「大丈夫」と楽天的に言う。いっそうこの事実を言ってしまおうかと思った。しかし……言えばきっと傷つくだろう。まただ……と。
そう思って……せめて颯人くんにそのことを伝えてはどうかと言った。颯人くんならこの事実に気が付くかもしれないと思ったのだ。その上できっと杏実を守ってくれるだろうと。
案の定、颯人くんは一緒に行ってくれた。昨日の夕方に、杏実から無事に終わったと連絡があった。その報告にホッとしたのだ。
今にも降り出しそうな雲を見上げ、何事もなく帰ってきてくれることを願う。
『圭さん。ずっと気にかかってたんですけど……杏実は本当に千歳家の実の娘なんですか?』
一昨日、杏実と一緒に地元に行くと報告してくれた時、颯人くんがためらいがちに聞いてきた言葉が脳裏をかすめる。
本当に勘のいい子だと思う。
『別にその答えに意味があるわけじゃないんです。ただ……遠慮なく引き離せるかなって思っただけで』
その問いを曖昧に誤魔化した圭に、颯人くんはそう言って、はにかんだように笑った。少し寂しそうな表情をしていた。
『朝倉さんが……一緒に行ってくれることになったんだ』
杏実のその嬉しそうな様子に思わず聞いてしまった。
『え! あ……うん。好きなの。わかってるよ……また身の程知らずって言うんでしょ? だって……ずっと前からなんだもん。実はね……朝倉さんとは大分前からの知り合いでね……』
どうやら……二人は両想いらしい。
幼いころに両親を失った颯人くんと、小さいころから両親に疎まれ続けた杏実。
この二人がどうか幸せな未来を築いていけますように……
いつの間にか静かに雨が降ってきていた。




