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蜂蜜とミルクティー  作者: 暁 柚果
〈 7 〉
86/100

86.優しいキス



「あっ! ひろたんから電話だ! 杏実ちゃん、萌先に部屋に帰ってるねぇ~」


 夕食はホテルの近くのレストランで食べた。その帰り道、ホテルに着く直前、萌の携帯が鳴った。

 友達からだろうか、ディスプレーを見るなり萌は楽しそうにそう言って、足早にホテルの中に入っていった。 

 すぐに帰っては電話の邪魔になるかもしれない。

 杏実がフロントで時間をつぶそうかと考えていると、颯人が「もう少し散歩していくか?」と聞いてきた。ホテルのロビーに続く道の反対側に遊歩道があるらしい。そう言えば、隣に森林公園があるとフロントの人が言ってきた気がする。“朝など散歩すると気持ちが良いですよ”と勧められたのだ。

 夜の公園は少し物騒だが、颯人がいれば安心だ。そう思ってその意見に同意する。


 正直……もう少し一緒にいたかった。





 公園の入り口を入ると、大きな大木が左右に並び広い通路が続いてた。歩きやすい煉瓦の道だ。街頭は明るく定期的に置かれたベンチで座って談笑している人もいれば、地元の人だろうジョギングやウォーキングをしている人もいる。

 杏実の少し前を颯人は何も言わずに歩いていた。街頭に照らされた横顔はいつもの何倍もかっこいい。

 ここは杏実の地元……―――――どうしてこんなところで一緒にいるのだろう。改めて不思議な気持ちになった。

 しかし……ここが地元であったのだと意識した瞬間、またいつものような不安が胸をよぎる。自分の足もとがぐらぐらと揺れ動くような、いつも一人でいた時の感じていたような不安。目の前の颯人の姿が一瞬かすむ。


「朝倉さん!」

 とっさに怖くなって叫んでしまった。颯人はその声にびっくりしたのか、すぐに振り向くと目を丸くして杏実を見た。

 

 何をやってるんだろう

 さっきから手を伸ばせば届く距離を歩いていたのに――――――消えてしまうんじゃないかって勝手に不安になって、こんな風に呼びかけてしまうなんて。


「どうした?」

 颯人は杏実の戸惑いを感じたのか、優しい声色でそう尋ねてきた。


「すみません。なんでも……ちょっと呼びかけてみたかった……と言うか……」

 杏実がどういえばいいのかわからずそう言うと、颯人は杏実の方に一歩近づいて、頬に手を添える。杏実が顔を上げると、再び「どうした?」と聞いてきた。

 頬に颯人の手のぬくもりが伝わってくる。そのぬくもりがさっきまでの不安を少し和らげてくれるような気がした。

 もっと触れていたい。

 杏実は無意識にその頬に添えられた手に自分の手を重ねた。そして颯人のその黒い瞳をじっと見つめると、小さな声でつぶやいた。


「手を……繋いでもいいですか?」

 その言葉に颯人は一瞬驚いたように目を開いた。しかしすぐに蕩けるような笑顔を見せる。


「いいよ」

 颯人はそう言って、杏実の手を取ってギュっと握る。杏実の手は温かく大きな手の中にすっぽりと包まれた。映画館の時のように指と指が絡み合っている。

 うれしくなって笑みをこぼすと、颯人の顔が下りてきて頬にキスをされた。

 びっくりして思わず颯人の顔を見ると、颯人は優しく微笑んで「もう少し歩こう」と言って歩き始めた。




 

 やがて公園の中央にある大きな池のほとりに着いた。月明かりもなくひっそりと池の水面が揺れている。杏実はその暗く静かな水の流れに吸い込まれるように池の向こう岸をつなぐ橋に向かって歩いていった。

 橋の上は胸のあたりまである手すりがあり、杏実はその手すりに手をついて池の中を覗く。


「なんもねーな……」

 隣で颯人がそうつぶやいた。本当に何もない。魚の姿もなければ、ライトアップされているわけでもない。どうしてこんなところに来ようと思ったんだろう。

 そう思ってハッとする。―――――私以前ここに来たことがある?

 ここは圭が入院していた病院の近くだ。当時実家から自転車で病院に通っていたため、きっと寄ったことがあるんだろう。しかし、こんな夜ではなかったはずだ。

 どんな時に、どんな気持ちでここにいたのか全く思い出せなかった。そのころの気持ちはとっくに忘れているのに、心の中の寂しい残像だけがそこに残っているような気がする。


 ふっと繋いでいた颯人の手が離れた。しかし次の瞬間、背後から颯人の腕が伸びて来てギュッと抱きしめられた。

 びっくりして思わず身体を硬くする。


「あ……朝倉さん? あの……」

「さっきから寂しそうにしてる。なんかあったのか?」

 その問いにハッとさっきから考えていたことを思い出した。大した話ではない。しかしきっと“なんでもない”と言ったところで、颯人にはその嘘はすぐに見抜かれてしまう気がした。

 いつも杏実すら気が付かない小さな変化にも気が付いてくれて、知らないうちに優しく包み込んでくれるのだ。それがただの親切なのか同情なのか、あるいは愛情なのか……わからないけれど……。


「……大したことじゃないんですけど」

「うん」

「以前、ここに来たことがあるなって思ってたんです」

「そうなのか?」

「はい。ここ昔お祖母ちゃんが入院していた病院のすぐ近くなんです。だからなんとなく覚えがあるなって……」

「そうか」

「あの時……いろいろあって……きっとここに来た時もそんなことを考えてたんだろうなって思うんです。でもどんな気持ちだったのか全く思い出せないんですよ。不思議ですね……」

 そう言うと颯人は後ろからポンポンと頭を叩く。

 励ましてくれているんだろうか?

 

「私毎年祖父のお墓参りに来てたんですけど、いつも憂鬱だったんです。お祖母ちゃんの代わりだなんて偉そうなこと言ってますけど、知ってる風景を見るたび昔の嫌なことを思い出して……でも勝手に家を出たことにも罪悪感もあって……もし両親に会ったらどうしようとか、もういろいろ考えてしまうんです。今年は葵姉さんに会ったことで……もっと憂鬱でした……でも……」

 颯人は何も言わずにじっと杏実のいう事を聞いてくれている。杏実はその温かさに励まされ一つ一つ言葉を紡いでいった。


「でも……今年は朝倉さんや萌ちゃんがいてくれたからそんな気分にもなりませんでした。ここに二人がいてくれることが新鮮で、楽しくて。一緒に来てくれて……本当にうれしかったです」

 杏実がそう言うと、颯人の腕の力が強くなってギュッと抱きしめられた。

 

 あったかい……

 寂しいなんて……颯人がこんなに近くにいてくれるのに思うはずがない。たとえ颯人にとって自分が取るに足らない存在であったとしても、杏実にとってはこんなに寄り添って杏実の過去に真摯に向き合ってくれた人物はいない。

 そんな颯人の優しさや強さを知るたびに、もっと好きになっていく。


「大好きです……」

 いつの間にかあふれ出した思いが口について出てしまってたいた。

 その瞬間、颯人の腕の筋肉がが硬直したように、ピタッと動きを止めた。

 同時に自分のしてしまったことに気が付いてハッとする。


 何言ってるの! 私!! 

 こんなこと言うつもりなかったのに。協力してもらっている身で……嘘の関係の中に本当の気持ちが入ってしまえば、きっと颯人に迷惑が掛かってしまう……そう思った。そして今更ながら自分がしてしまったことの大きさに怖くなる。

 ダメ。振られる。きっと振られてしまう。こんなに親しくなれたのに近くにいれるようになったのに、自分のわがままな感情がこの関係を壊してしまう……


 とっさに誤魔化さなくてはと、沈黙してしまった颯人に向かって詰まらせながらも口を開いた。


「ち……違うんです。これは……その……萌ちゃんも朝倉さんも好きってことで……そう言う意味じゃなくて。そのかぞ……ううん……それは違うか、そう言う意味の……あっ……“親愛”? 親愛の情?って言うか。とにかく広い意味なんです!」


 ああ……

 自分でも何を言っているのかわからない。うまく誤魔化す言葉が見つからないのだ。嘘ではない気持ちが邪魔をして……一層追い詰められていくだけで。

 杏実が知る限り、颯人は多数の女性から告白を受けている。それにきっとさまざまな恋愛経験があるに違いないのだ。こんな言い訳きっと意味がない。おしまいだ。


「そんなつもりじゃ……」

 杏実がなおも何か言おうと口を開く。しかし、同時に背後から「くっくっくっ……」と押し殺したような笑い声が聞こえてきた。


 え? わ……笑ってる?

 前に回された腕や触れ合ったところからその笑いの振動が伝わってきた。

 

 なっ……なんでぇ?

 

 どうして笑われているのか全く見当もつかない。とにかく必死で誤魔化そうとしていた自分の姿が滑稽だったんだろうか。

 杏実の戸惑いをよそに、颯人は杏実を拘束していた腕を外すと、ポンポンと頭を叩いてから杏実の肩を持ち颯人の方に向かせた。そのまま杏実の肩に手を添えて、颯人はなおも楽しそうに笑う。


「あ……朝倉さん?」

 杏実がそう呼びかけると、颯人は「くっくっ」と笑いながら横を向いていた顔を杏実の方へ向ける。

 颯人と視線が交差した。その瞳の優しさにドキッと胸が高まった。

 そんな杏実に颯人は蜂蜜のような蕩ける笑顔を向けた。


「俺も好きだよ」


 ……え?

 その言葉に一瞬頭が真っ白になる。

―――――今……なんて?

 杏実が驚いて目を丸くしていると、颯人はそんな杏実の頬を軽くつねった。


「だって……“親愛なる杏実”?……だろ?」

 そう言って颯人はニコッと意地悪そうな笑顔を杏実に向けた。

 

 …………え? 

 たちまち言われた意味が分かって、顔が真っ赤になった。そんな杏実の顔を見て颯人が再び噴きだした。横を向いて楽しそうに笑ってる。

 からかわれたんだ!!

 恥ずかしい。一瞬本気にしてしまった……。


「からかったんですね……」

 杏実のその声に颯人は「くっくっ」と笑うと、やがて杏実の方を見る。

 その瞳……完全におもしろがってる。

 しかしそもそも杏実の失態から始まったことだ。本気にとられて振られてしまうより、一層冗談で済まされる方が良かったのかもしれない……そう思った。


「もう、いいです。帰りましょう」

 杏実は苦笑しながら気を取り直してそう言うと、颯人はその言葉には答えず、そっと杏実の頬に手を添え、顔を上に向けさせた。


「からかってなんかないよ」

 颯人はそう言うと、ゆっくり杏実の唇にキスを落とした。

 触れるようなキス。

 やがて優しくついばむように何度も角度を変えてキスされた。


「ん……」

 喉の奥の方から甘い声が出る。いつの間にか腰に添えられていた手にいっそう身体を引き寄せられて、颯人に隙間なく包まれているような気がする。


―――――こんなキス……初めて。

 

 いや……すぐに初めてではない。と思った。もっと前に……あの旅館で颯人が寝ぼけていた時、こんなキスをされた。

 恋人にするようようなキスだと思ったのだ。優しくて……愛おしむようだと。

 今……そんなキスをされている。

 

「ん……朝く……」

「颯人って呼んで欲しい……」

 耳朶を甘噛みされて、吐息のようにささやかれる。優しいキスなのに、またいつものように何も考えられなくなっていく。キスの合間に時折甘い声で「杏実」と呼ばれると自分の名前が特別なものであるような幻想さえ抱いてしまいそうだ。


「……は……」


 その時颯人の携帯が鳴った。颯人はその音に気が付くと杏実の頬にキスを落として、ポケットから携帯を取り出す。


「萌? ……ああ、わかってるよ。今、一緒にいる……」

 電話の声がぼんやりと杏実の耳をすり抜けていく。キスが終わった後でも颯人の腕はそのまま杏実の身体を拘束していて、颯人の胸にぴったりと顔がくっついているのだ。

 はぁ……

 颯人の声を聞きながら杏実は身体の力を抜く。驚くぐらい熱い。胸がドキドキして必死で冷静にならなくてはと深呼吸を繰り返した。


「はいはい。わーてるよ。じゃあな」

 その声でハッとする。颯人は電話を切るとそのままの態勢で一息をついた。


「杏実」

「……はい」

「帰るか」

「………はい」

 杏実がそう言うが、颯人の腕は緩まない。しばらくそのままで時間が流れた。

 帰らないのかな?

 正直言うとこのままでいたい。もっとこんな風に颯人の腕の中で、ゆっくりと時間を感じていたいと思った。そう思ってハッとする。

 もしかして……颯人も同じ気持ちなんだろうか?

キスされる前に“からかってない”と言われた気がする。からかってないって……本気ってこと? まさか……

 もしかして……そんな贅沢なことを考えても許されるなんてこと……?


「あ……の、あさ……」

 そこまで言って、ハッとする。さっき夢うつつに“颯人と呼んで欲しい”と言われたことを思い出した。

 あの甘い響きが耳の中に再びよみがえってきて、たちまち何も言えなくなった。

 落ち着きかけた心臓が再び早鐘を打ち始める。


 ……待って……今、とても言えそうにない! 

 ひどく動揺して杏実の頭がパニックになる。しかしそんな杏実の様子に気が付かず、颯人は「はぁ~」と少し長い溜息を吐くと、杏実を拘束していた腕をゆっくりと解いた。

 まだ心臓はばくばくと早鐘を打っていたが、少し身体を離して何とか颯人の顔を見る。

 颯人は少し困ったような顔をしていた。


「?」

 杏実はさっきまでの動揺も忘れてその顔を見つめた。

 どうしたんだろう?

 颯人はそんな杏実の視線を受けると苦笑をする。そのまま何も言わず杏実の手を取ると、再び歩き始めた。

 

 あ……帰るんだ。

 

 心なしかゆっくりな歩調を感じながら、杏実も颯人の足跡をたどっていくのだった。







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