76.テラス
「朝倉さん」
PM10時。颯人とはあれから夕方までぶらぶらと街中をショッピングして、萌たちの夕食の用意もあるので帰ってきた。
フミの家には階段上がってすぐ、椅子や本棚が置いてある5畳弱の共有スペースがある。その奥に少し広いテラスがあり、窓から出れるようになっている。杏実がお風呂から上がって階段を上がると、颯人がそのテラスにいるのが見えた。
蒸し暑い夜だ。涼んでいるようだった。
何気なく通り過ぎようとした杏実だが、ふと昼間のことがよぎった。なんだか曖昧になってしまったが、颯人が杏実を心配してくれていたらしいことはうれしかったのだ。
もう一度きちんと伝えておこうと思った。
杏実がテラスに出て、颯人の名前を呼ぶと、颯人は空を眺めていたのか、手すりから身を離して、ゆっくりと振り向いた。手にはグラスを持っている。中には半分ほどの透明な液体。お酒を飲んでいたのかもしれない。
「杏実か……どうした?」
その雰囲気はお酒のせいか、月明かりのためか、色っぽい。夜風と共に低いテノールの声が響いてきて思わず心臓がドキッと高鳴った。
杏実はその高鳴りを抑えながら、ゆっくりと颯人がもたれかかっているテラスの手すりの方へ歩いていく。颯人は何も言わず、ただ近づいてくる杏実を見ていた。
やがて横まで来ると杏実は颯人に笑いかけ、さっき颯人が見ていた方向に目を向ける。
「何見てたんですか?」
「……別になにも」
確かに何もない。そこからは家の前の道路、向かいの家、街頭……時折人が通るだけの静かな住宅街の風景だ。ふと上を見上げても、家の明かりと街頭が明るいせいか、星はうっすらとしか見えない。
しかしながら、夜風は気持ちよく真夏の空気とは思えないぐらいヒンヤリとしていた。
颯人は何も言わず、杏実が見ている方向を同じく見ていた。
「あの……」
やがて杏実が口を開くと、颯人は杏実の方へ視線を向けた。
「今日は……あの……ありがとうございました」
杏実がそう言うと颯人は不思議そうに首を傾げる。
「心配してくださったのに……笑ったりしてすみませんでした」
「……ああ」
杏実の言葉に、思い出したのか少し苦笑する。
「別に……怒ってないよ」
颯人はそう言うと、不安そうに見つめる杏実を見て、少し表情を和らげた。
「取り越し苦労なら……それでいい」
「……え?」
「お前、いつも辛くても一人で抱え込むだろ? 聞かないと遠慮して言わねーんじゃないかと思ったんだよ。でも……何もないならそれでいい」
そう言って颯人は優しく笑う。
ああ……もうダメ―――――そう思った。
実家のことや颯人と恵利のことで、このところ精神的に不安定になっていたせいか、再び涙があふれてきた。
どうして……そんなに優しいの
好き……好き……
どうしても抑えきれなくなるこの思いに……応えてほしい
恵利さんを好きにならないで
私を……どうしたら私だけを見てくれる?
「ほら……また泣く。ほんと泣き虫だな……」
そんな杏実に、颯人は呆れたように杏実の涙をぬぐう。
「こ……これは違います……うれし涙で……」
「くっ……そうかよ」
杏実がそう言うと、颯人は楽しそうに笑った。颯人は両手で杏実の涙をぬぐうと、その目尻にチュッとキスを落とす。そして驚いて顔を上げた杏実のおでこにもキスを落とした。
「あの……」
「よし! そうやって顔挙げてろよ? なにがあったか聞かねーけど……言えるようになったらちゃんと言え。……聞いてやるから。わかったな?」
颯人はそう言ってポンポンと杏実の頭を叩いた。その言葉と優しい仕草に杏実は言葉を発することなく小さくうなずいたのだった。
そして……―――――そのやり取りを見ていた人が……一人。
「……え? 何あれ?」
恵利は帰り道から見える家のテラスで、人目もはばからずいちゃつく二人を見て愕然と歩みを止め、呆然とつぶやく。
「颯人……まさか……うそでしょ?」
恵利はサッと二人から見えないであろう陰に隠れて、考えをめぐらした。
杏実さんも颯人も恋人同士じゃないって言ってたでしょ? ……だから私は……
でもあの颯人の様子……今までにあんな甘ったるさ全開、好き好きオーラ駄々漏れの颯人を見たことはない。
今までどんな女でもドライなやつだった。だから、ちょっと杏実さんには優しい感じかな……と思っても気にもしなかったのだ。
「いやいや……ありゃどう見ても、颯人は杏実さんのことが好きでしょーが……え~!! やっばぁい……」
入念に計画したつもりだった。しかしこんなところに落とし穴があったとは……と、恵利は顔をしかめる。
とりあえず……杏実さんはいかにもいい子そうだし、しばらくはばれないとしても、ばれたらと思うと颯人の反応が恐ろしい。フミの前に引っ張り出されるだろうし……萌が杏実さんはフミの大のお気に入りだと言ってたから……ますます嫌な予感がする。
「ああ! もう! 知らない!!」
恵利はそう言うと、家のテラスから隠れるように、家への帰路を歩いて行った。




