72.元婚約者と現偽婚約者?
一瞬、何を言われたのかわからなかった。その言葉を飲み込むように、目を何度か瞬きする。
“颯人の元婚約者なんです”
目の前の女性はそう言った……そしてそう言った後、じっと杏実を見てその反応をうかがうように何も言わない
ドクンッと心臓が嫌な音を立てた。
やっと言われた意味を把握する。この美しい容姿の女性は颯人の元婚約者。恋人だった人……ということだ。杏実は何を言えばいいのかわからず、呆然と口を開く。
「あの……」
言葉がそれ以上続かない。頭を鈍器で殴られた後のようにぐるぐると廻り、ガンガンと耳鳴りが続いている。そんな杏実の様子を見て、その女性はさらに言葉をつぐむ。
「二年以上も前のことなんですけど……ちょっと私の事情で一方的に婚約を解消したので……それ以来フミお祖母さんに疎まれてるんです。私が颯人に会いに来たことを知られれば……と思うと怖くて」
「あ……」
二年前?
そんなに前の話じゃない。颯人が海外に赴任する前の話だろうか? 二年前と言えば……杏実もまだ『スクラリ』にいた。そんな時に……婚約者がいたなんて知らなかった。
颯人の恋人だった人。こんな風に近くで見たことはなかった。あまりのショックに言葉が出てこない。
その時杏実の後ろから杏実を呼ぶ声が聞こえた。
「杏実!」
耳に心地いい……低いテノールの声。颯人だ。
杏実は反射的にその声に振り向く。ホームに続く道を杏実の方へ歩いてくる颯人の姿が見えた。
薄いベージュ色のストライプのついたYシャツに濃い色のスラックスを履いている。颯人は杏実の顔を見ると、穏やかな表情で近づいてきた。
「帰りか?」
「……はい。朝倉さんも……仕事終わったんですか?」
「まあな。今日は一日出先だったんだが、また仕事中にフミ婆がうるさい電話かけてきやがって……仕方ないから帰り寄るって言って切ってやった」
「そう……ですか」
颯人の言葉が横からすり抜けていくように感じる。必死で取り繕うと思うが、さっきのショックで自分が今どんな表情をしているのかもわからなかった。
「杏実? ……どうかしたのか?」
そんな杏実の様子を怪訝に思ったのか、颯人が不思議そうな表情を浮かべ杏実の方へ手を伸ばす。杏実に熱でもあると思ったのか、颯人の手はおでこにピタッとあてられる。ヒンヤリとした大きな手の感触が杏実のおでこに広がった。
いつもなら心地いい感覚。しかし思わずその手から逃れるように、身体を引いた。
「杏実?」
杏実は何と言ったらよいかわからず、うつむく。
すると話が途切れるタイミングを待っていたかのように、杏実の背後から先ほどの女性が声を出した。
「颯人。私に気が付かないなんて、ずいぶんじゃない?」
その声に、杏実に怪訝そうに目を向けていた颯人は顔を上げる。そして驚いたように声を上げた。
「恵利!?」
その呼び方を聞いたとき、再び心臓がドクンドクンと鳴り響く。
……やっぱり本当だったんだ。
「お前……なんでここに? いつ戻ってきた?」
「今日の昼よ。何回も電話してんのにかからないし、会社にもいないし。仕方ないから裕之に聞いてきたのよ」
「平田? ……あいつ、社に戻った時なんも言ってなかったぞ」
「そう? お得意の、面白そうだから……じゃないの?」
「……まあそうだろうな」
「しばらくこっちで公演があるの。颯人、泊めてよ」
「はぁ? 家帰れ」
「嫌よ。あんたのマンション部屋余ってたでしょ?」
「あの部屋は解約した。今は萌とフミ婆の家にいる」
「え~……。もう役立たず!」
「……お前……それ言う前に俺にいう事あんだろ! お前のおかげでこっちは迷惑したんだぞ」
「……騙される方が悪いんでしょ?」
「てめぇ……」
そう言うと、恵利と呼ばれた女性は“関係ない”という風にそっぽを向く。
その軽快なやり取りに、呆然と杏実が見入っていると、ハッと気が付いたように颯人が杏実の方を向く。
「ああ……悪い。こいつは……」
「もう私が説明したわ。紹介は不要よ」
「は? ……ていうか、そもそもなんでお前が杏実と一緒にいるんだよ」
「颯人の所在が分からないから、ちょっと協力してもらってたの」
「協力?」
そう言うと颯人は一瞬顔をしかめ、杏実の方を見て「なんかろくでもない事されなかったか?」という。
「どういう意味よ! 圭さんの孫なんでしょ? フミお祖母ちゃんのところに颯人がいるか聞いてもらってたのよ。全く私をなんだと思って……」
「ほんとに……杏実になんもしてないだろうな?」
「してないわよ」
「まあ……それならいいけど。杏実、大丈夫なんだな?」
颯人は恵利に念を押した後杏実の方を見て、そう言う。
いったいどういう意味だろう? そもそもこんな女性に杏実が何をされるというのだ。
颯人の意図はわからないが、本当に何もないので戸惑いながらもうなずく。そうすると颯人はホッとしたように、表情を緩めた。
「あ~あ……颯人が使えないんじゃどうしたらいいわけ? 今回部屋取ってないのに……」
「自業自得」
「うるさいわね。なんだかんだ、あんたも同罪でしょ」
「おまえなぁ……」
「なんか考えなさいよ!」
恵利がそう言うと颯人は呆れたようにため息をつく。そして杏実の方を見ると、恵利を指し示して、口を開いた。
「杏実。悪いけど、こいつフミ婆の家に連れて帰ってくれないか?」
「え?」
颯人がそう言うと、恵利はすぐに「嫌よ!フミ婆に告げ口する気でしょ!」と反論している。その声に再び恵利の方を向くと呆れたように言う。
「あのなぁ……俺はもう一切お前に振り回されるつもりはない。今更フミ婆に言うとか、そんな面倒な事するか! どうせ短期間しかこっちいないなら、夏美と萌を説得して黙らしときゃ済むことだろ。それが嫌なら、どっかホテルでも泊まれ!」
「……言わないのね?」
「言うか」
「そう。ならいいわ」
恵利はそう言うと、二人の会話を聞いていた杏実に視線を向けてきた
「で? なんで彼女が関係あるの? 圭さんの孫ってだけなんでしょ?」
「今、事情があって一緒に住んでるんだ」
「……え?」
「お前鍵ないだろ? 俺は今からフミ婆のところに行くから、杏実と先に帰れ」
颯人はそう言うと、恵利は驚いたように、じっと杏実の方を見つめてきた。その表情からは何を考えているのかわからない。
杏実も何と言ったらいいのかわからず、その瞳をじっと見つめ返すしかできなかった。
“元婚約者”……フミとは何やら確執があるらしいが、颯人は家に連れて帰ると言っているのだ。その意図は考えたくもない。
やがて恵利は「ふ~ん……」と言うと、一度うなずいた後に杏実の腕を取る。
「そうだったのね。じゃあ、一緒に帰りましょうか?」
そして自然な仕草で杏実と腕を組むと、荷物を持って歩きだした。杏実が引きずられながら戸惑って颯人の方を見ると、颯人はその恵利の様子に苦笑して「よろしくな」と言って、ホームの方へ歩いて行ってしまった。
……そんな
元婚約者と現偽婚約者? ……そんな奇妙な組み合わせで、家に帰ることになったのだった。
「さっきの会話……聞いてたわよね?」
家に帰る道中。しばらく無言で歩いていると、恵利が遠慮がちにそう口を開いた。先ほどの颯人とのやり取りとはうってかわって、丁寧な口調だ。
そもそもあの場にいたのだから、聞いていない方がおかしい。
「え……っと、はい」
「杏実さんは、フミお祖母ちゃんから……なにか私のこと聞いてます?」
「え?」
「私のこと……颯人からとか、実は知ってたりします?」
「いいえ……」
婚約者がいたなんて初耳だ。全く聞いたことが無かったので首を振る。しかしその事実は、所詮颯人とはその程度の関係なのだと認めるようで辛い。
恵利はその答えを聞いてホッとしたように表情を緩めた。
「そうなの。……じゃあ私と颯人のこと、いろいろと気になるでしょうね」
杏実がその声に顔を上げ恵利を見ると、恵利はゆっくりと説明を始める。
恵利の話によると、もともと颯人とは家族ぐるみの付き合いだったらしい。ある時期から恵利の両親が海外に行くことになり、恵利のみが残ることになったため、一人暮らしも大変なのでフミの家に住むことになった。颯人は就職するまではフミの家にいたので颯人とも共に同居していたらしい。やがて颯人とは自然に恋人となり、婚約もしていたのだが、恵利はかねてから女優になることが夢だったらしく、二年前、舞台女優になるチャンスに恵まれ、恵利はその夢に集中したいがため颯人との婚約を解消した。しかしそれを知ったフミが激怒したらしく、今後の一切交流や家への出入りを禁止したらしい。そして颯人とも縁が切れ、この二年連絡は一切していなかった。
しかし今回は仕事でこちらに帰ってくることになり、ホテルで泊まるにはお金がかかるが帰る家もない。そのため、颯人を頼ってきたという事なのだ。
「だから……フミお祖母ちゃんには知られたくないの。少しの間だから……お願い黙ってて……ね?」
「それはいいですけど……」
そもそも杏実も居候の身だ。とやかく言える立場ではない。
「ありがとう。……あと杏実さん。もう一つお願いがあるの」
「なんですか?」
「……この事。颯人に言わないでほしいの」
「この事……とは何のことですか?」
「颯人と婚約していたって、私があなたに話したことよ。颯人の性格上、もう私と婚約してたってことは忘れたいって思ってると思うの。婚約解消は私の事情とはいえ、もちろん颯人も納得してのことよ。フミお祖母ちゃんと違って、二人の間にわだかまりもないんだけど……今更あえて言われたくないと思うのよ」
「……」
「別れる時も……もともと私たち家族みたいなもんだったから、これからは自然でいようって言ったのよ。だから……いまさらあの時の話をぶり返して颯人とぎくしゃくしたくないの。わかるかしら?」
「家族ですか……」
もともと恋人同士で婚約までしていた二人が、そんな風に戻れるものなのだろうか。
「変な話でしょ? 所詮そんな関係の延長だったのよ。杏実さん……黙っててもらえる?」
「……わかりました」
「ちなみに杏実さんは……本当に颯人の恋人じゃないわよね?」
「はい」
どうして何度も確認するんだろう……と思う。恋人がいないことを確認しようとしているんだろうか。
恵利さんは――――――今も朝倉さんが好きなのだろうか?
恵利はそう考える杏実には気が付かず、杏実の返答を聞いてホッとして笑顔を見せた。
「よかった。……じゃあそういうことで、これからしばらくお世話になります」
そう言って杏実の方へ、片手を差し出した。握手をしようと言う事らしい。杏実がその差し出された手をそっと握ると、恵利がきゅっと握って「恵利って呼んでね」と笑いかけてきた。
きれいな笑顔。微かになにか思考に引っかかったが、すぐに何を思ったのか忘れてしまった。
恵利は颯人の元恋人で婚約までしていた人……。
その事実だけがぐるぐると頭の中を駆け巡っていたから。
こうして恵利との同居生活がスタートした。




