7.うれしいお返し
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今でもその笑顔を思い出しただけで、杏実の胸にドキドキをあたえる。
(あれから……本当にいつも8時以降に来るのよね)
そうしてミルクティーを注文してくる。相当ミルクティーが好きらしい。
朝倉が訪れるのは週に1回ぐらいだが、その時間が杏実はいつも待ち遠しかった。
低音で心地よい彼の声……杏実の入れたミルクティーを飲む姿、仕事の書類を見ているときの真剣な目、同僚といる時のくだけた表情……そしてたまに見せてくれる笑顔。
どれをとっても杏実にとっては特別。ただ見てるだけでも幸せな時間だった。
しかし―――――
そんな日々もタイムリミットが近づいている。
今日は3月14日。4月からはここを辞めて新しい職場になるのだ。
(あと……二週間かぁ……)
考えるとさみしくてつらい。そしてその事実は未だ杏実の中で現実味を帯びないていないのだ。
そのわけは……朝倉との距離は夢の中に出てくる王子様のように遠い存在だからだと思う。
(……今だって遠くから見ているだけだもんね)
夢の中の話だから、この胸のときめきや……喜びやつらさは杏実の中では現実なのに、一人で空回って終わっていくだけの――――――――要するに片思い。
トレーに挽きたてのコーヒーと、いつものミルクティーを載せて彼らのもとへと運ぶ。
朝倉は先ほどの不機嫌なオーラはなく、平田と話をしていた。その表情は優しい。
平田と朝倉は性格は正反対のように見えるが気が合うらしい。
「お待たせしました」
杏実の声に、二人とも会話を中断し顔を上げてこちらを見た。さすが王子と言われているだけあって、整った容姿の二人に見られると圧倒される。
杏実は動揺する気持ちを悟られないよう、この6年間で培った事務的な笑顔と対応で、カップを並べ一礼して下がろうとした。
しかし朝倉の声が杏実を引き留めた。
「あ……君。待って」
「はい?」
追加注文だろうか。杏実は振り返り朝倉の座席に視線を向けた。朝倉は杏実を見上げ……その手元になんとも不似合いなかわいい巾着が置かれている。そして何を思ったのかその巾着を―――――杏実のほうへ差し出した。
「これ……その…お返し」
「え?」
自分に言われるとは全く思えないので、何のことだろうと首をかしげる。
そんな杏実の様子に、朝倉はむっとしたように顔をしかめた。
な……なに?
怒られることをした覚えはないのにその不機嫌なオーラに身がすくむ。
杏実の怯えを感じてか、朝倉がしょうがないというように口を開いた。
「今日、ホワイトデーだろ? だから……お返し」
「え?」
(ホワイトデー??)
その時……ハッと意味を理解する。
「ええ!!! そんな……結構です」
その言葉に朝倉が、明らかにむっとしたのを察した。
杏実は言葉の選択を間違えたのだと思い返し、あわてて言い直した。
「いえ……違うんです。いただけないというんではなくて……あんな小さなチョコ一つで、お返しをいただけるとは思っていなくて…」
本当にその通りなのだ。あの日は、たまたま店長が仕入れ先からもらったというチョコを、厨房でこっそり食べていたところを朝倉に見つかってしまっただけだった。
――――「おいしそうだ」
朝倉が欲しそうにしていたので一つ分けただけ。そのあとその日がバレンタインデーだったと思い出し、きっと女子社員の方々から高級なチョコをもらっただろうとと思うと……何ともお粗末で…むしろ泣いてしまったほどなのだ。
そんなチョコにお返しをくれるというのだから、驚くのは当然だ。
朝倉がそれを覚えていたことも意外だった。
「一つだろうがもらったことには変わりないだろ?」
「そうですが……そんな…」
杏実が返答に困っていると、横からからかうような明るい声が割り込んでくる。
「いらないってことじゃない?」
平田は朝倉が持っている巾着をひょいっと取り上げる。
そして杏実の目の前に持っていくと「いらないんだよねぇ?」と意地悪そうな笑みを浮かべた。
「ちっ…違います! いただきます」
杏実はそれをあわてて奪い返す。こんな貴重なものいただかないわけにいかない。
朝倉が杏実に用意してくれたものなのだから。
でも……信じられない―――――うれしい……
巾着を大事に両手で胸の前に持ってくると、巾着の中からかさっとセロハンが擦れるような音がした。
中身はアメかもしれない。その感触がこれは現実なんだと呼びかけてきていて、杏実の胸の中にあふれんばかりの喜びが広がった。
自然に笑みがこぼれる。
うれしくてうれしくて言葉では言い切れない。
「ありがとうございます。すごく……うれしいです」
杏実がそういうと朝倉は顔をそらして「どういたしまして」とつぶやいた。その顔は心なしか赤くなっているようにも見える。
あの時と同じような温かい気持ちがまた胸に広がってきて、キュンとした。
「へ~……知らなかったな?」
杏実と朝倉の様子を遮るように、平田の楽しそうな声色が響いた。平田の瞳は面白そうに細められている。
「朝倉がそんな律儀だったなんて初めて知ったよ。確か女子社員からのチョコもすべて断って、専務の娘のさえも……むぐっ」
「お前は……黙ってろ」
朝倉はテーブルを乗り出し、平田の口を無理やり押えこんでいる。
「たまたま……腹がへってたんだよ!」
めんどくさそうにそうというと、苦しそうにもごもご言っている平田を鋭くにらみ手を放した。
平田はしばらく咳込んでから体制をと整えると、そんな二人のやり取りをぼんやりと見守っていた杏実のほうを見る。
「だってさ?」
その意味不明な呼びかけに、夢見心地だった杏実ははっと我に返った。
「は……はい。朝倉さん、ありがとうございました」
再びお礼を言って、軽く頭を下げた。
しかし、ハッと思い出す。そうだ、あれは……”杏実のチョコ”ではないのだ。
「そうでした……もともとあのチョコは店長からのおすそ分けだったんです」
「えっ!?」
「黙っててすみません……ですから、ちゃんとこれは店長にも分けさせていただきますね」
杏実が申し訳なさそうにそう告げた瞬間、たちまち朝倉の顔が蒼くなった。
「それだけは……やめてくれ。あの人は苦手で…」
朝倉に似合わないほどの狼狽ぶりだ。
「俺は君にあげたんだから……そういうことにしておいてくれないか?」
「………はい。わかりました」
いつもの冷静な朝倉にそぐわないが、ここはそのようにしたほうが良さそうだと思いなおす。
まさか……何か朝倉と店長の間にはあるのだろうか?と思わずにはいられないほどの嫌がりようだ。店長の想い人がこの社内にいるという噂があるのだが……朝倉さんなのかもしれない。それはしっくりくる気がしたが、同時になんだかおかしかった。
杏実はもう一度お礼をいい、その巾着を持って厨房に戻る。
慎重に封を開けると―――――やはり中身はアメだった。
蜂蜜味。
口に入れると甘いけれどなんだか優しい……懐かしい味がした。
朝倉が選んでくれたアメ。
杏実にくれたアメ。
それは朝倉の心の中に杏実が少しでも存在する…ということだろうか?
ちょっと都合がいい解釈をしてしまいそう―――――そんなわけはないけれど…
しかし今は少しだけ……
そのアメは杏実に勇気を与えてくれている気がした。
杏実の心に一つの決意を生んだのだ。 結果は見えてるけれど、朝倉さんの記憶の中に少しでも残っていたい……そう思った。
次に朝倉が来店したときに……
―――――告白しよう