64.恋人とか婚約者とか…
「どうじゃ? うれしいじゃろ?」
「ふっ……ふっ……フミさん……これって……」
呆然と杏実が言いよどむ中、フミは楽しそうに言い放つ
「婚姻届じゃ」
「はぁ?」
今度はその言葉に興味がないといったふうに食事を再開していた颯人が、こちらを振り向く。そして杏実の持っていた紙を覗きこんだ
“婚姻届”
そう明らかにそう明記された一枚の紙。名前や住所は隈なく埋められ、証人の欄にはフミと圭の名前が記載されている。ただ一つ抜けているところがあるとすれば、下の二人の署名の欄だけだ
「なんだこれは!? ……なに考えとんじゃ、ばばあ!!」
あまりの驚きに言葉を無くす杏実をよそに、颯人がすかさず反論するとフミが不思議そうに言い返す
「何って……婚約してたんじゃろ? 二人とも何も言わんから、知らんかった」
「はぁ? 婚約? ……んなわけ……あっ!!」
颯人はそう言うと、パッとテーブルの向かい側に座っていた萌の方を見て睨む
「萌! お前か!」
「えへへ~! だって……颯人お兄ちゃんが言ってたからぁ……」
萌は悪びれもなさそうに、うれしそうにそう言う。颯人は「チッ」と舌打ちをし、強い口調で言い放つ
「嘘に決まってんだろ!」
「嘘~? まっさかぁ~……だってキスもしてたじゃん」
萌はそう言って颯人に疑いのまなざしを向ける。フミは後ろではやし立てるように「わぉ~」と、圭たちを見て盛り上がっている
「っ……あれは成り行き上……」
颯人はバツが悪くなったのか歯切れ悪く反論すると、すかさず萌も言い返す
「ふ~ん……お兄ちゃんって案外軽いんだぁ。杏実ちゃんかわいそうぉ……」
「はぁ!?」
「も……萌ちゃん。もうその辺に……」
杏実はますますヒートアップしつつある二人に割って入る
どうやらあのカフェでの場面を、萌に見られていたらしい。萌と合流したとき、萌は一言もそのことを言わなかったので気が付かなかったし(確かに……妙に機嫌が良かった気もしたが)、聞かれなければあえて事情を説明することもなかったので、誤解が生まれたようだ
萌は杏実の気持ちは黙ってくれると約束したが……この件は言わずにいられなかったのだろう
「杏実ちゃん! この際はっきりしといたほうがいいんだよ。萌は杏実ちゃんにだけは、颯人お兄ちゃんのいつもみたいな適当な付き合いしてもらいたくないんだよね」
「て……適当?」
「うん。だってね……いっつも…」
「萌!!」
しまった……杏実が萌の話に加担してしまったため、再び二人の諍いに油を注いでしまった。そう思って今にも殴りに行きそうな(隣にいたなら間違いなく危なかっただろう)颯人を手で静止しつつ、慌てて萌に事情を説明しようと口を開く
「ごめん……萌ちゃん違うの。今回は朝倉さんに助けてもらっただけで……」
「え?」
「あの時、私の姉が来ててね。ちょっといろいろあって、私に無理やりお見合いさせるって話をされて……」
杏実が掻い摘んで事情を説明しようとしていると、横から圭がソファから身を乗り出して会話に割って入ってきた
「杏実。それ……本当なの? 忍ちゃんからは連絡が来たけど……葵ちゃんって……どういう事なの? 説明しなさい!」
「あ……」
そうだった……。結局その話は心配かけまいと思い、圭には話していなかったのだ。しかし偶然そのことを知ってしまった圭は、案の定心配そうに半分怒ってそう言う
杏実は仕方なく先日の事情を説明することにした
颯人が“嘘”をつく経緯についても説明する。その場にいたフミや境さんも真剣に杏実の話を聞いていた
「そうだったの……英明と康子さん(杏実の父と母の名前)は、まだそんなことしてるのね。葵ちゃんも……何も変わってないのね」
圭はそう言って寂しそうに笑う
杏実も同じ気持ちだった。決別して別々の生活をし始めて、この温かい雰囲気の中にいると、ついあの時のことを忘れそうになる。きっと今は変わってるんじゃないか、あの時のことを後悔しないにしても、良くなったんじゃないか? そんな風にも思えてきたりもしたのだ
しかし現実は何も変わっていないのだと知ってしまった。圭にとっては実の息子と嫁の話だ。信じたい気持ちは強かったのだろう
「このまま……英明君がおとなしく引き下がるかのぉ……」
フミが心配そうにそうつぶやく
「さあね。事情が事情だけに、切羽詰ってきたら……あの子のことだもの、どんな手段を使ってくるかわからないわね」
「……私、今のうちに形だけでも帰った方が良いのかな?」
「それは……」
圭が答えようとするより先に、隣にいた颯人が強い口調で言い放つ
「ダメだ!」
え?
思わぬところから反論が来たことに驚いて、思わず颯人の方を見つめる
フミ達もびっくりしたようだ、目を丸くして颯人の方を見た
「お前。姉の言葉、聞いてなかったのかよ? 駒って言われたんだぞ? 今帰ってみろ。それこそ相手の思うつぼだろ。お前の事情なんかお構いなしに見合いさせられて、なんだかんだ理由つけて断れないうちに結婚させられるぞ」
「そんな……」
「絶対ダメだ。やめとけ」
颯人の強い口調に驚いていると、圭もその意見に賛同する
「私も颯人くんの言うとおりだと思うわ。杏実が帰っても、向こうには誰も味方はいないわけだし、杏実の意見が無視される可能性が高いわね……かといってどう対策をすればいいのか……」
「いつどんなふうに現れるかわからんからなぁ……あたしや圭ちゃんも常に近くにいるわけじゃないし……」
そう言ってフミは神妙に杏実の顔を見た。その時、ハッと思いついたように手をポンと打つ
「そうじゃ。……杏実ちゃん」
「?」
「颯人にこのまま婚約者になってもらったらどうじゃ?」
「は?」
「だってそうじゃろ? いつもあたしらが近くにいるわけにもいかん。たとえ気が付いても、圭ちゃんはあまりよく歩けんし助けにもいけんじゃろ。その点、颯人は一緒に住んどるわけじゃから常に近くにおるし、何かあればすぐ気が付くじゃろうし身軽に動けるじゃろう? まして、お見合いの話が出てるんじゃったら、恋人がいた方が断る理由にもなるし、婚約者ともなるとより牽制力が出てくるじゃろ?」
「で……でも…」
「どうせもう相手方にはそのことは伝わっとるんじゃろう? このままそうゆうことにしておいた方が都合がいい。 もともと颯人がついた嘘じゃ。最後まで付き合ってもらったらいい」
「そんな無茶な……」
「要は英明君は選挙に当選したいがために、杏実ちゃんを呼び戻したいって言うんじゃ。見合いもそれに関係あるわけじゃから、選挙が終わればひとまず安心じゃろ。それまでのことじゃ、大したこともなかろう?」
大したことはない?
いやいや……そんなことはない!
「だ……だめ! そんなのだめ!」
「なんでじゃ? ひとまずそうしといたほうが……」
「ひとまずって……そんな簡単なことじゃないでしょ!? こ……恋人とか婚約者とか……そんな私の個人的な事情に、朝倉さんまで巻き込むわけにいかないよ!」
「でもなぁ……」
「だめ!」
杏実はそうきっぱりフミに言う
フミは困ったような表情を浮かべると、今度は颯人に向かって「颯人はどう思う?」と問いかける
颯人はなにか考えているのか眉を寄せて下を向いていたが、フミの言葉で顔を上げた
杏実も颯人の方を見る。いつもは杏実よりも先に反論する颯人のことだ。きっと拒絶の言葉が返ってくると思ってた
―――――しかし
「いいよ」
……え?
杏実がびっくりして目を丸くしていると、颯人は杏実を見て言う
「要は、期間限定で婚約者のフリすりゃいいんだろ? 杏実の実家の奴らは結構食わせもんみたいだし、お前すぐ押されて流されそうだしな。スキャンダルを嫌うなら、他人の俺がいることで相手も下手に動けないだろうし、その方が良いだろう。それぐらい協力してやるよ」
「……」
驚いて言葉を無くす
“協力”――――――颯人はそう言った
要するに……期間限定の嘘とはいえ婚約者……恋人になっても良いということだろうか
その意外すぎる反応に呆然とする杏実を見て、颯人は意地悪そうにニヤッと笑う
「なんだ? 杏実は俺じゃ不満……ってことか?」
「……そんな……まさか違います」
「じゃあ。いいじゃねーか。まあ俺の存在が、どの程度相手に効果があるかは不明だけどな……」
「………」
―――――本当にいいんですか? どうして……そこまでしてくれるんですか?
その言葉をぐっと飲み込む。言えないまま、杏実は颯人に問いかけるように見つめた
「じゃ。まあ颯人の了解も得られたことだし、杏実ちゃん、決まりじゃな!」
そうフミはうれしそうに言って、杏実に片目をつぶって見せた
“決まり”
それはつまり……期間限定、嘘の……婚約をすることとなったことを意味していたのだった




