63.お寿司
あれからずっと……あのキスの意味を考えている
颯人の見せた……あの蜂蜜のような甘く優しい笑顔
どうして私にそんな表情を向けるのか
ミルクティーが好きだから?―――――それとも……
油断すれば期待してしまいそうな気持ちを必死に抑えて、この日々を過ごしている。そんな杏実とは反対に、颯人はいつもと変わらない
ようやく仕事がひと段落したとのことで、この頃は一緒に夕食を食べているし、以前のように朝もたまに会うようになった
ただ一つ変わったと言えば―――――時々杏実にミルクティーを入れてほしいということだろうか
夜ぼんやりとテレビを見ている時など現れて「杏実。ミルクティー入れて」と言ってくる
杏実の分も入れてそのまま一緒にテレビを見ることもある。特に会話はないが(もともと颯人はあまり話をしないのだ)隣にいるだけでドキドキして、たちまちテレビに集中できなくなる。落ちつかない……でもその空間も心地良かったりする
隣に颯人がいるという、不思議な感覚。しかしそれはとんでもなく幸せな空間なのかもしれない
今日はフミの誕生日だった。平日と言うこともあり、仕事が終わってから買っておいたプレゼントを持ってフミたちの部屋に向かう
今日は萌も学校が終わってから来るので、落ち合って誕生日のプレゼントを渡すことになっている。颯人は少し遅くなるとのことだったが、帰るまでには行けるだろうとのことだった
コンコンッ
フミたちの部屋のドアをノックすると、うれしそうに萌がドアから顔を出した
「杏実ちゃん。おつかれさまぁ~」
萌はそう言ってドアを開けてくれる。杏実は萌に目配せをしてプレゼントを渡すと、部屋の中に入ってフミと圭と、特別に参加した境さんにも挨拶をした
やはり今日はお祝いとあってみんなうれしそうにしている
萌に取りに行ってもらったケーキにろうそくを刺す。出前のお寿司を並べ夕食の準備をテーブルに済ますと、みんなで着席して誕生日の歌を歌った
やがてフミはうれしそうにろうそくを吹き消すと、みんなの盛大な拍手が沸き起こった。そのあと萌とプレゼントを渡すと、フミは涙を浮かべて喜んでくれた。楽しい時間だった
しばらくみんなで出前のお寿司をいただいていると、やがて颯人がやってきた。颯人は疲れた顔をしていたが、カバンを部屋の隅に置くと、フミや圭たちに軽く会釈して席がないために床に座っていた杏実の隣に座る
「お疲れ様です。早く来れたんですね」
「……ん。まあな」
「なにか食べますか?」
「寿司か……。じゃあ、マグロとヒラメ……あと中トロ巻きも取ってくれ」
「わかりました」
杏実は言われたとおりに、新しいお皿にマグロなどを取って乗せ、小さなお皿に醤油を入れて颯人に渡す
颯人はそれを受け取ると、すぐに食べ始めた。お腹が空いていたらしい。すぐに平らげて、今度は自分で次のを取り始める。その食べっぷりの良さに少し笑みがこぼれた
「なに?」
杏実が笑ったのが分かったのか、颯人が不思議そうに尋ねてきた
「……いえ。お腹が空いてたんだなぁ~と思って」
「まあ……急いできたからな」
「朝倉さんといい、萌ちゃんといい、ほんとよく食べますよね」
「そっかあ?」
「はい。いつも大体ごはん2杯は食べるじゃないですか。おかずも多めに作っても残さず食べてくれるし……」
「まあ……ふつうだと思うけどな。しいて言うなら……杏実の飯はうまいからだろ」
「……えっ?」
サラッと言われた言葉にびっくりして、思わず颯人の顔を見る
颯人はチラッと圭と話をしている境さんの方を見て、こちらの話を聞かれていないことを確認してから話を続ける
「……境さんの味付けは薄くて、萌も俺も物足りないんだよな。かといって境さんのいない日は、破壊的にまずい萌か夏美の料理を食わせられるし……萌も俺も杏実が来るまでは、ほぼ別々で外食してた。杏実が作るようになってその必要はなくなったわけだけど……思いのほかお前の飯はうまいから、よく食べる―――――それだけだよ」
褒められているらしい
まさか颯人からそんな風に言ってもらえるとは思わなかったので、その率直な褒め言葉に驚いて言葉をなくす
「それにしても、よかったな。お寿司食べられたな?」
颯人はそう言うと、ニコッと杏実に笑いかける。優しい顔だ
その笑顔に思わずドキッと心臓が高鳴る。”変化”……そうだ、明らかにあの日から颯人は優しくなった
「お寿司……ですか?」
「お前。前に言ってただろ?」
その言葉に杏実が以前、電話でお寿司を食べたいと言ったことを思い出した
「でもあれは……朝倉さんがお土産に……」
「ああ~……でも持ち帰りは巻き寿司しかなかったからな。やっぱ寿司は生の方がうまいだろ」
そう言って、颯人はお皿に新しいお寿司を取って食べ始めた
何気ない杏実の言葉を覚えてくれていた……意外だった。先ほどの杏実の料理を“うまい”と言ってくれた颯人の言葉。どれもうれしくて……その言葉に胸がジーンとなる
「朝倉さん」
杏実が呼びかけると、颯人はお皿から視線を杏実に向ける
「このお寿司……美味しかったですけど………私は朝倉さんが買ってきてくれたお寿司の方が好きです」
杏実がそう言うと、颯人はその黒い瞳を丸くして意外そうに杏実を見る
杏実がうれしくなって笑顔を向けると、パッと颯人は杏実から視線を外した
「変わってんな……」
ぶっきらぼうな言い方だったが、明らかに照れているのか、耳が赤い
「はい。変わってます」
杏実がそう言って「ふふ……」と笑うと、ぽかっと頭を殴られる
「……痛っ。もう! なんでいつも殴るんですか」
「うるさい。なんか……腹立つ」
「……腹立っ…」
杏実が颯人とそう言いあっていると、後ろから二人の肩を叩かれる
杏実と颯人が驚いて振りむくと、フミがニヤニヤとこちらを見ていた
「お二人さん。睦まじいね?」
「えっ!」「はぁ?」
二人の返答がシンクロして、再び颯人と杏実は視線を交差する。こんなこと……以前にもあったなと思う
そんな二人の様子を見てフミは満足そうにニコッと笑うと、一枚のきれいな若葉色のA4サイズの封筒を杏実に渡してきた
………?
「フミさん、これは?」
「今日はあたしの誕生日じゃろ? 何よりも杏実ちゃんと颯人からのプレゼントがうれしかったんでな。お返しじゃ」
朝倉さんと私?
フミのプレゼントは、萌と颯人と買いに行った先ほどのプレゼントのみだ。颯人と二人で渡したものなどないはずだ
不思議に思って颯人の方を見る
「朝倉さん。何か渡したんですか?」
「んなわけねーだろ」
ばかばかしい質問だと言うように、切り捨てられる
まあ……そうだよね……?
そう思って再びフミを見るが、フミは二人のやり取りを見てもなお、ニコニコしてこちらを見ている。怪訝に思いながらもその封筒の中を見ることにする
お返し……? 確かにフミはそう言っていた
中からきれいに折りたたまれた一枚の薄い紙が出てきた。それを取り出して中身を確認する
しかし――――――その左上の文字を見てたちまち身体を硬直させた




