61.おまんじゅうと過去
カチャ
ダイニングに続くドアを開けて中に入る。杏実の手の中には一つの箱が乗せられていた。今日デパートに行ったときに買った、小さなおまんじゅうが入っているのだ
あれから杏実が泣き止むまで、颯人はじっと杏実を抱きしめてくれていた。特に何を言うわけでもなく、ただ優しく頭を撫でてくれていた。初めは辛かった……しかし次第にそのぬくもりに安心して心地よくなってきた。しばらくすると萌から電話が掛かってきて、杏実はハッと我に返った。もう大丈夫であることを伝えると、颯人はまだ心配そうにしながらも杏実から身体を離した
萌が「どこに行ったの!」と怒っていたこともあり、急いで合流し、デパートで買い物を済ませた後、帰ってきた
買い物中、颯人はさっきの話題に触れようとしなかったし、杏実も同様だった。どういえばいいのかもわからなかったのもある。しかし不思議なことに、いつの間にか颯人からあのギクシャクしていた雰囲気は消えており、和やかに買い物ができたような気がした
買い物の終わりに、萌がデパ地下を見に行きたいと言ったので、一緒に回り、このおまんじゅうを見つけた。小さく甘さを控えているとのことで、颯人に今日のお礼にと買ったのだ。甘いものは食べないとのことだが、これぐらいなら食べてくれるかもしれないと思った
ダイニングに入り、リビングの方を見ると颯人がソファーに座ってテレビを見ていた。萌はお風呂に入っているらしく姿が見えない
杏実が颯人の方に歩いていくと、颯人は杏実に気が付いて視線を向けた
「いらない」と言われることも覚悟して、杏実は箱を颯人の方に差し出した
「朝倉さん。今日は……ありがとうございました」
颯人は杏実の言葉に驚いたのか、その黒い瞳を大きく見開いた
「お恥ずかしいところを見られちゃいましたけど……あんなふうに言ってくれて……うれしかったです」
「………大丈夫なのか?」
「はい。いつものことですし……今は落ち着きました」
「そうか……」
杏実が笑顔を見せると、颯人は一瞬ためらった後、やがて口を開く
「……いつもあんな感じなのか?」
気遣うような口調だった。颯人なりに心配してくれているのだろうか
過去はあまり人に語りたいとは思わない。情けなくて……辛くなるだけだ
しかし……あんな場面を見られたのだ。今更取り繕っても意味がないように思える。それに、あんなふうに言ってくれた颯人に対して黙っておくのは失礼だと思った
たとえそれが本心で無いにせよ、嬉しかったのだから
「お恥ずかしいんですけど……実家にいた時はいつもあんな感じだったんです。父と母はずっと男の子が欲しがっていて……私が生まれた時、女と言うこともあってがっかりしたそうです。忍ができるまではかなり厳しくしつけられていたんです。もともと地位や名声を重んじる人たちでしたから、成績にはかなり厳しくて……姉たちはかなり優秀でしたけど、私はいつも怒られてました。……そこまで成績が悪かったわけではないんですけど、人並みにできてもダメだったので。でも待望の男の子である忍ができて……両親の関心は忍に移ったんです。出来の悪い三女のことは考えるのも嫌になったみたいに………ほとんど無視されるようになりました。小さいころは、それでも何とか両親に認めてもらいたくて頑張ってたんですけど、中学ぐらいになって……なんか変だなって思い始めて……反対に反発するようになりました。そしたらますます事態が悪化して……まあ今に至るわけです」
そう言って杏実が苦笑すると、颯人は杏実を見つめたまま「そうか……」とつぶやいた
「まあ……唯一の救いはお祖母ちゃんがいたことでしょうか。一緒にこちらに来るまでは、お祖母ちゃんと実家で同居してましたし、辛いときはいつもお祖母ちゃんのところに行って慰めてもらってました。お祖母ちゃんはいつも私の味方でしたから……」
「なんで……こっちに来ることになったんだ?」
「もともとお祖父ちゃんは、資産家だったんです。いくつも会社を持っていて、本人も弁護士を経て市議会の議員も務めていたそうです。でもそのお祖父ちゃんが早くに亡くなって、ほとんど遺産はお祖母ちゃんに渡りました。お祖母ちゃんはあまりお金とか会社とか興味のない人でしたから、お祖父ちゃんが亡くなると一部の会社は父に任せて、後は親戚や他人に譲ってしまっていました。お祖母ちゃんは……私の父や母を信用していませんでしたから。それが気に食わなかったみたいです……このままでは死後も、莫大な資産を寄付しかねないと思ったみたいです。私が大学に入ってすぐにお祖母ちゃんが事故で足を悪くした時、知り合いの医者に手をまわして重度の認知症の診断を書かせたんです。そうすれば生前に遺産の管理ができますから……。そうして根こそぎはぎ取って、施設に入れようとしました。まだそのころはお祖母ちゃんは車いすで動けませんでしたし……”その隙に入れてしまおう”と言っていたのを偶然聞いたんです。私それが……許せなくて。――――フミさんに直接話をして……フミさんの助けを借りてこっちに来たんです。私もほとほと愛想が尽きましたから、お祖母ちゃんと一緒に家を出ました」
「そうだったのか……」
「出るにあたって、両親から縁を切ると言われたので……ちょっと今回のことは……予想外でした」
杏実がそう言うと、颯人は視線を逸らし、その言葉を整理するように何度かうなずく
「両親がこのまま引き下がるとは……ちょっと思えないんですけど……朝倉さんのとっさの嘘のおかげで少し助かりました」
「嘘?」
颯人はその言葉に、不思議そうに杏実を見る。言った本人が忘れているようだ
「私のこと……“婚約者”だと、葵姉さんに言ってくれたことです」
その言葉にハッと思い出したのか、颯人はパッと手で口を覆う
「……そうだったな…」
心なしか顔が赤い気がする。今更自分の言った嘘に照れているんだろうか? いや……そもそも嘘なのだから、そんなわけないと思い返す
しかし……あの時の颯人の言葉。キス。まるで自分が本当に大切な存在であるかのように感じた。たとえ嘘でも、あの冷たい雰囲気の中で温かく包んでくれたのは事実なのだ。いつもは無愛想で…そっけなくて………しかしそんな不器用な優しさを持つ颯人がたまらなく好きだと思った
「はい。嘘とはいえ……あのままだと私、きっと流されてた気がするので……本当にありがとうございました」
そう心からお礼を言う。颯人は一瞬杏実に視線を戻し、杏実の笑顔を見ると再び視線を逸らした
「そりゃ……どういたしまして……」
杏実がその照れ隠しのような返事に思わず笑うと、いつものようにポカッと頭を殴られた
「……痛っ」
「笑うな」
「ふふ……」
なぜかそのいつものやり取りがうれしい。杏実が再び笑い出すと、颯人から鋭い視線が飛んできた
杏実が慌てて真顔に戻ると、今気が付いたように颯人が杏実の手元にある箱に視線を向けた。杏実もハッと思いだして、それを颯人の方に差し出しながら、口を開く
「これ。大したものじゃないんですけど、今日のお礼です」
「お礼?」
「おまんじゅうです。甘いもの食べないのは知ってるんですけど………この頃仕事が忙しそうで疲れてるんじゃないかと思って……小さいサイズですし、甘さ控えめなのでよかったら……」
杏実がそう言うと、颯人は少し目を見開いて杏実を見つめた後、ゆっくりその視線を箱に戻し、箱を受け取った
とりあえず受け取ってくれたことに、ホッと胸を撫で下ろす
杏実がそのまま部屋に帰ろうと「じゃあ……」と口を開きかけた時、颯人は箱を見つめながらその言葉を遮るように言った
「杏実。…………ミルクティーを入れてくれないか?」




