60.突飛すぎる嘘
「葵姉さん……」
「げ!なんで……」
葵は表情を変えず、動揺する忍の方を見て、冷ややかに言い放つ
「杏実の話をした時から、あなたが勝手に動くんじゃないかと思ってたのよ。案の定、今日こちらに向かったと聞いたから、秘書の山田に後をつけてもらってたの。杏実に会うつもりだろうと思ったし、私も少し時間が空いたから、忍が向かったという駅に来たの」
「そんな……」
「正直杏実の連絡先が分からなかったから、手間が省けて助かったわ」
忍は葵の言葉を聞いて、青ざめた表情をしている。要するに我々が警戒心の薄い忍を泳がせて、杏実の居所をつかんだということだろう
“手間が省けた”
その人の善意までも利用しようとする冷たいやり方に、嫌悪感を抱く
葵はそんな忍の様子を一瞥すると、杏実の方を向く
「杏実、久しぶりね。元気そうで何よりだわ」
そう言って忍の横に座る。忍はさっきのショックが大きかったのか、表情を硬くしている
「葵姉さんも元気そうね。8年ぶりなのになんだか変わってないみたい」
「そう」
「お父さんやお母さんは……」
杏実がそう言うと、葵は「杏実」とその言葉を遮るように話を始める
「忍から何を聞いたか知らないけど、私からも説明させてもらうわね。こちらには仕事のついでに寄っただけだし、時間がないの」
「そうなの……?」
「今度、父が市議会の立候補することになったわ。今のところ候補者の中では有力候補だし、当選確実だと思うの。とはいえ、今スキャンダルがあればたちまち有力ではなくなるでしょうね。とりわけ家庭のことでなにか問題があるのは困るのよ。杏実、すぐに家に戻りなさい」
淡々と葵は言い放つ。冷たい事務的な言い方だった
「……それは……できません」
「もうすでに対立候補がこちらの情報を探っているという情報もつかんでるの。……時間がないのよ」
「私も……こちらで就職してるの。そんな急に言われたって……」
杏実がそういうと、葵は呆れたように一つため息をついた。そのため息は幼いころ、杏実が何か言う度に母がよくついていたそれとよく似ていた。条件反射のように、びくっと身体を硬くしてしまう
「……一応大学も受けなおして、お祖母さんのところで働いてるそうね。でも所詮あなたがなにかしようとも両親は認めてないわ。興味もないの。……父や母が求めているものはわかってるでしょ?」
その言葉にズキンと胸が痛む。
”父や母が求めているもの”葵たちにはわかって、いつも杏実には理解できなかった言葉。そして結局は自立してもなお、こんな風に心が乱れてしまう
またその暗く冷たい渦の中に巻き込まれてしまいそうな気がする
「私……」
「もう十分、自分勝手にやって気が済んだはずよ。千歳家の娘として務めを果たすべきじゃないかしら」
「私が帰ったところで……なにも……」
「そうでしょうね。ただ帰ってきても、あなたが厄介者だったと言う事実は変わらない。だから今回、あなたに父をサポートしてくれている方の息子さんとお見合いしてもらうことにしたの」
「え?」
「地元では名家の方よ。息子さんも好青年だと聞いているわ。あなたがその息子と結婚すれば、父にとって強いパートナーができるわけだから、娘としては冥利に尽きるでしょ?」
「……い……嫌」
「杏実。今回はこちらから折れると言ってるのよ?」
「折れる? ……都合のいい駒になれって言ってるだけでしょ」
「駒で不満? 存在すら認めてもらえていなかったときに比べれば、娘として嫁に行けと言われるだけマシだと…」
「おい! いい加減にしろ!! さっきから聞いてりゃ……杏実をなんだと思ってんだ」
ハッとその声に、三人同時に顔を上げる。いつの間にそこにいたのか、颯人がすぐ近くに来ていた
その黒い瞳はいつもより鋭く細められ、まっすぐに葵を睨みつけている。葵はその怒声に驚いたのか、怪訝そうに颯人を見上げている。そして颯人は、さらに怒りを込めた口調で葵に話しかける
「あんた何様? 仮にも姉が、妹に対して言う言葉とは思えねーな。杏実のアイデンティティーをコテンパに傷つけて、トラウマでも引き出して、最後に思い通りに事を運ぼうとしてるみて―だけど……おあいにくさま。杏実はそちらには戻らねーし、そんな事情なら、こちらとしても杏実は渡せないね」
「……あなた誰?」
葵がその言葉にさらに怪訝そうに目を細めると、颯人はチッと舌打ちをする。そして一度呆然と青ざめた杏実を見た後、再び葵の方へ向き直った。しかし先ほどとは打って変わって口元に笑みを携えている。その笑顔は完ぺきな営業スマイル。そして仕事で使うような口調で自己紹介を始めた。丁寧だが、隙のない威圧的な声色だった
「……申し遅れました。私は圭お祖母さんの親友の孫の、朝倉 颯人と申します。あまりに感情が高ぶって口調が乱れてしまったようで、失礼しました。……杏実とは、今事情があって一緒に暮らしてるんです」
「一緒に暮らす?」
「誤解を無いよう言っておきますが、私のいとこも一緒です。ただの同居ですよ。……杏実も常に実家のことには胸を痛めていたようなんでね……今回のことが和解になればと思ってたんですが……そう言った事情ならこちらとしても認めるわけにはいかないんで、口を挟ませていただきましたよ」
「あなた……いったい……」
「私は杏実の婚約者ですよ」
―――――……え?
「言っておきますが、双方の祖母からも認められてるんで、公認の仲なんですよ? 知りませんでしたか? ……ですから、そちらで勝手に見合いとか困るんですよね」
「あ……朝倉さん何を……」
杏実は颯人のあまりにも突飛な発言に驚いて思わず口を開くと、颯人はその声に杏実の方を向き、ニコッと笑いかけると、そのまま杏実の唇に軽くキスをする
「っ……!」
驚いて言葉を無くした杏実に優しい笑顔を向け、さらに言葉を紡ぐ
「杏実。久しぶりの家族になかなか言い出せない気持ちもわかるけど、俺は杏実を手放すつもりはないんだから、こういう事ははっきり言っておかないとね」
そう言って杏実の手を取り、強く引っ張って杏実を立たせると自分の方へ抱き寄せた
「と言うわけで、これで話は終わりなら失礼しますよ。仕事が忙しくて、今日は久しぶりのデートだったんでね。言っておきますが、形だけ杏実に戻ったことをアピールするために見合いだけでもさせようとか、考えないことですよ。あなた方にとって杏実は駒でも……俺にとっては大切な存在なんでね。もっとましな提案があれば応じますが、その際はこちらも通してもらうことも忘れずに。では……」
そう一方的に言い放つと、杏実の肩を抱いてカフェの出口へ向かう。杏実が戸惑いながら後ろを振り向こうとすると、颯人から「ここは振り向くな」と言われた
思わず颯人を見る。颯人は表情を硬くしており、何を考えているのかわからない。その腕の力は強く有無を言わせないというように、杏実の方を見ることもなく、前を見据えならズンズンと進んでいく
“婚約者”
颯人は確かにそう言った
いったい何を考えてそんなことを言ったんだろう
しばらく肩を抱かれたままで歩いていた。雑踏の中、颯人の大きな掌に包まれてぼんやりと前に進む
さっきから葵の言葉が頭の中に反芻して、重たく圧し掛かっていた
そんなに簡単に人は変わるわけがないと、分かっている。反発し続けた杏実が簡単に両親に認められるはずはないと
しかし……今回の出来事。葵の話の感じで言えば、見合いをすれば杏実の意思に関係なく政略的に結婚させられる……と言う事だろう。ただの駒……要は他人のように扱われたということだ
“存在すら認めてもらえていなかったころに比べれば……”
杏実が葵たちと同じようにできたなら……はたして両親は認めてくれていたんだろうか?
いや……変わらないだろう。だって……
しばらく歩くとふと颯人が杏実を振り向いた
「なんだ、あれは! 本当に杏実の姉なのか……」
勢いよく悪態をついた颯人だが、杏実の顔を見るなり驚いたように目を見開いて閉口した
「?」
杏実が不思議そうに颯人を見ると、颯人は杏実の手を取り、少し路地裏の人気がいないところに杏実を連れて行き、やがてパッと振り向くとぎゅうっと抱きしめてきた
え……?
「泣くな」
小さな声だった。しかしすっぽりと颯人の胸に包まれていたため、颯人の胸から杏実の耳に直接響いてくるような気がした
その言葉を聞いて自分が泣いていたことに気が付く
「……違っ……私…っ…」
何か言わなくてはと思うのに、自分は大丈夫なんだと伝えたいのに……言葉にしようとすると詰まってうまく話せなかった
颯人は強く杏実を抱きしめながら、そんな杏実の頭を優しく撫でた
「何も言わなくていい」
その手の動きと同じく、その声色は優しい
その仕草と言葉にたまらず、我慢していたものが一気に溢れ出して涙が止まらなくなった
「……ぅう…」
「大丈夫だから…」
颯人の優しさに包まれて、杏実はそのまましばらく泣き続けていたのだった




