57.イチゴケーキ
物事というのは意図せずとも必然的に起こりうる
いつ起こり、どんな事柄なのか
それは神のみぞ知る
良いことか、悪いことかはわからない
自分の知らないところでも、絶えず起こりうるものだ
―――――
「あれ?」
時刻は午後4時、カルテの入力も終わり、申し送りの準備も済ませたので、スタッフと共にリネンの整理を手伝っていた時、ふと玄関の方に見慣れた後ろ姿を発見した
紺色のスーツに黒い鞄……あの颯爽と歩く姿は”朝倉さんだ”と思う。杏実がその姿を発見したと同時に、颯人は玄関の向こうに姿を消した
帰るところだったんだろう
平日、家で会うことはもともと少ない。朝はリビングで会うこともあるが、基本的に朝は各自で用意することになっているので、それぞれのタイミングで出ていく。話しかけたいが、忙しそうに新聞を読んでいるので、話しかけるタイミングをつかめず会話はほとんどしない
とはいえ、先週から(一緒に買い物に行った日からだ)は仕事がひと段落ついたとのことで、時々早く帰ってくるので、何度か夕食を一緒に取ることがあった
颯人は基本的にあまり話はしないので、ほとんど萌と杏実が話しているのを聞いているだけなのだが、そこに境さんも一緒になるとちょっとワイワイとしていて、なんだか家族の団欒のようで楽しいのだ。杏実には無縁の風景だった
颯人は境さんの料理も杏実の料理も、文句を言わず完食してくれる。杏実の時はおかわりもすることもあり、よく食べる。萌もいつもおいしいと言ってくれる。そんな何気ない毎日が、たまらなく幸せで楽しかったりするのだ
昨日も颯人と夕食を一緒に食べていた。境さんとフミさんの昔話をしていたりしていたが……今日こちらに来るということは言っていなかった気がする
また急に呼び出されたのかもしれない
どうやら『スクラリ』での颯人の甘党の噂。あれはガセだったらしい。……と言うのも、フミさんに差し入れを頼まれるらしく(しかも当日に取り置きしたから取って来いとかかってくるらしい)そのせいでついた噂だったのだ
颯人は基本的に、家では甘いものは食べない。よって境さんがデザートを買ってきても颯人の分はない(食べないので)
甘いものは嫌いではないようだが、ケーキのような甘ったるいものは苦手のようなのだ
甘党の噂で社内の女性社員から数々の差し入れをされるようだが、ほとんど断られるという話。それは甘いものを食べないからだと誰が予想しただろう
現に杏実もミルクティーに蜂蜜を入れることがあったが、そのことで文句を言われたことはない。チョコレートを食べているところも目撃し、甘党と信じて疑わなかった
噂なんて信用できないものだと思う
先ほどの後姿が本当に颯人のものだったのかわからないが、帰ってきたら聞いてみようと思った
帰り支度をしている時、杏実の携帯が鳴った。圭からだ
「もしもし、おばあちゃん?」
『ああ……杏実ちゃんかい』
電話口からフミの声が聞こえた。圭の携帯から掛けてきたらしい
「フミさん。どうしたの?」
『帰りこっち寄っておいで。渡したいものがあるから』
渡したいもの?
「うん。わかった。今終わったから、着替えたらいくね」
そう言い、電話を切る
帰る準備ができると、杏実はフミと圭の最上階の部屋に向かった
コンコンッ
軽くノックすると「入っといで~」と、いつもながらのフミの軽快な声が聞こえる。杏実が入ると、二人ともリビングのソファーに腰かけて、お茶をしているところだった
「いらっしゃい。突然呼び出して悪かったね」
「ううん。もう終わったところだったし大丈夫。ところで渡したいものってなあに?」
「これだよ」
杏実がそう言うとフミがテーブルの方に身体を起こして、テーブルの上に置かれたケーキの箱を杏実に手渡してきた
中身を見る。中には美味しそうなイチゴの乗ったケーキが3種類入っていた
「うわ~! イチゴだ~美味しそう!!」
「ほらね?」
「なんじゃ。本当じゃな……」
思わず歓声を上げると、それに合わせたように圭とフミがうなずき合っていた
「なに? ……急にどうしたの?」
杏実が色とりどりのケーキに見とれながらそう言うと、フミが楽しそうに話し始める
「ケーキが食べたくなってな。さっき颯人に取りに行かせたんだが……」
やはりあれは颯人だったのか……と思う
「フミさん……また? 朝倉さん結構忙しいんだよ……今週は割と時間があるみたいだけど、先週なんて夜もすごく遅いかったし、急にはダメだよ。どうしてもなら私が終わってから取りに行ってあげるから……」
「……おやまあ。さっそく奥さんみたいなこと言い始めたね?」
「…奥さッ……もう! 違うでしょ!?」
杏実が顔を真っ赤にして否定すると、フミはからかうようにニヤリと笑みを浮かべる
「まあ。一応……今日は予定を聞いてから行ってもらったんじゃ。今から急に接待が入ったみたいでな、それまでなら行っても良いって言っておったから頼んだんじゃが…」
接待?
昨日はそんなこと言っていなかった(夕食がいらないときは連絡してもらうようにしている)。ということは今日は朝倉さんはいないらしい
……萌ちゃんと私だけかぁ…何にしようかな
杏実がそんなことを考えている間も、フミの話はさらに続く
「中に……あたし達が頼んでいないケーキが入っててな」
「え?」
「実は前回もそうじゃった。その時は颯人に選ばしたから“こんな種類のケーキ、いつも頼まん”て言ったんじゃが、“たまには違う種類も食べろ”と、こうじゃ。……まあそれもそうかと思ったんじゃが、今回はこちらで選んで取り置きしてもらってたんでな。……それに足してあった」
「ふ~ん……?」
フミの話に不思議そうに杏実が聞き入っていると、フミがまたニヤリと笑う
「ふ~ん……て、わからんか?」
「なに?」
颯人がたくさん買ってきたからといってなんなのだ
「颯人帰ってから気づいてな、圭ちゃんにその話をしたんじゃが………杏実ちゃん、イチゴが好きなんじゃろ?」
「う……うん」
「だから、こういう事じゃ。”イチゴのケーキ”は杏実ちゃんの分なんじゃよ」
「え? ………ええ!!」
まさか
「意外か? あたしもそうじゃ。あいつもなんも言わんから、圭ちゃんに言われるまで全く気が付かなんだ。わが孫ながら、わかりにくい」
本当に?
朝倉さんは本当に、私のためにこれを選んでくれたんだろうか
――――そう言えば……以前フミと颯人が喧嘩して颯人が部屋を飛び出してしまった時……ケーキを食べそこなって、とっさに「イチゴのケーキのほうが好き」と言ったことあった
それを覚えてくれていたってこと? もしかしてその時のお詫びだろうか?
しかし本人に伝わるか伝わらないかもわからないのに……こんなに沢山???
三層のイチゴのショートケーキ、イチゴがたくさん乗ったタルト、シンプルなイチゴのムース……それはどれもおいしそうだ。これを見て……どうしようかと迷って……結局考えるのが面倒になって全部買ってきたのかもしれない
そう思うとおかしくて、うれしくて、自然に笑みがこぼれた
「うれしいか?」
「……うん」
杏実が素直にそう答えると、その杏実の様子をうれしそうに見ながら、穏やかにフミが問いかける
「杏実ちゃんは……颯人が好きかい?」
今までの“嫁に”などという強引な言い方ではなく少し遠慮がちな口調だった
なんて答えようかと迷う
素直に答えようかと思った……しかし杏実の気持ちをフミに正直に伝えれば、颯人に確実に迷惑がかかる気がした
でも嘘もつけない
フミにとっては大切な孫なのだ。杏実にその孫を託してもいいと思うフミの気持ちもわかる気がするのだ
「いい人だと……思うよ」
「そうか……」
杏実がそう言うとフミは寂しそうに笑った
――――――少し胸が痛んだ
結局ケーキは帰って萌と食べることにした。今日は食事当番の日だしきっと遅くなれば萌が「お腹空いたぁ~」というだろう
杏実がフミと圭に挨拶をして、カバンを持って玄関の方へ向かうと、「あら……すっかり忘れてたわ」と圭が杏実を引き留めた
圭は一度部屋に戻ると、手の中に一枚の封筒を持って部屋から出てくる。そして、それを杏実に渡してきた。花柄の圭らしいきれいな封筒だ
「お祖母ちゃん、これなに?」
「見てごらんなさいな」
中を開けると、10枚ぐらいの写真が入っていた。その中で杏実がジャージ姿で走ったり、職員とうれしそうにピースをしたりしている
年代はさまざまでかなり前の写真もあるようだ
「どうしたの?これ」
「ちょっと……このところ写真を整理しててね。ようやくホームに来てからの写真もアルバムに入れ終わったんだけど、ちょうど杏実がこのホームに来てボランティアしてくれてた時の写真も出てきたから、せっかくだし杏実に渡しておこうと思ってね。職員方や家族の方から頂いたりしてたし、杏実こちらに来てから写真なんて撮ってないでしょ?」
パラパラと捲っていると、大口を開けてパン(パン食い競争の時だろう)を食べているところや、浴衣で踊るところやさまざまあり、懐かしい反面なんだか恥ずかしい
確かにこちらに越してからの写真は、スクラリで最後の日に撮った写真と大学の卒業アルバムぐらいのものでプライベートでは皆無である
実家にいたころの写真は今も実家にある
ちょっと恥ずかしいが、これぐらい手元に置いてても悪くないだろう
「ありがとう。じゃあ有難くいただいておくね」
杏実がそう言ってにっこりと笑うと、圭もホッとしたように穏やかな笑みを見せた
ホームを出て食事のメニューを考えながら歩いていると、ふと颯人のことを思い出した
今日……本当に接待なのか聞いておかなきゃ
そう思い立って、携帯をカバンから取り出す。電話は仕事中だとまずいので、メールを送信してみた
”フミに今日は接待になったと聞いたが夕食は必要ないのか”という、実にシンプルなメールだ
するとすぐに杏実の携帯が鳴る。颯人からの電話だった
「もしもし」
『杏実か?悪い。連絡すんの忘れてた。今日はお前の日だったな』
「朝倉さん、今大丈夫なんですか?」
『今移動中だから……後30分ぐらいして先方と会うことになってんだ』
「そうでしたか」
『お前は帰りか?』
「はい」
『そうか……俺も帰りて~な。……接待は性に合わねんだよな』
確かに。颯人が人に頭を下げてお世辞を並べる、想像できない
「でも美味しいもの食べれるんですよね?」
杏実は接待をしたこともないし受けたこともない。イメージはこの程度だ
『ああ? まあな……今日は寿司だっけか』
「お寿司! わぁ~いいなぁ!」
『……そうか? お前もたまには外食して、萌と行ってきたらどうだ? どうせたんまり食費もらってんだし、使えば良いんだよ』
「ええ! そんな……贅沢な。できませんよ」
『はは……杏実らしいな』
「家賃分働くのは当たり前です。それに今日は食後のデザートがあるので……」
そこまで言って、ハッとケーキのことを思い出した
そうだ……聞いてみようか?
もし本当に杏実のために買ってきてくれたのなら、お礼も言いたい
「あのっ……」
『ん?』
「ふ……フミさんのところで、け……ケーキをいただいたんですけど……イチゴの!」
『…………ああ』
「ありがとうございました。私イチゴ大好きなんで……あんなに沢山、びっくりして……フミさんがきっと私の分じゃないかって…」
杏実がそこまで言うと、電話口から少しぶっきらぼうな言い方で颯人が返事を返してきた
『先方に渡す分を間違えて一緒に入れてしまっただけだ」
「え?!」
そうだったのか!
恥ずかしい……てっきりフミが言うことを鵜呑みにしてしまっていた
少しショックだったが、しかし杏実のためになんてもともと考えられない。そう思うと、この接待用のケーキについて心配になってきた
「知りませんでした……私勘違いしてすみません。でも……なら大丈夫なんですか? 後で萌ちゃんと一緒に食べようと思ってまだ食べていないので……これを持って行った方がいいんじゃ…」
『もういい。杏実が好きなら食べとけ』
「え……でも…」
『代わりのもんは買った。もともと……ケーキなんて好き好みあるしな』
「……そうですか」
その言葉にホッと胸を撫で下ろす。そういう事なら有難くいただくことにしよう
『そろそろ着くから切るな。気を付けて帰れよ』
「わかりました。朝倉さんも頑張ってくださいね!」
『ん。……じゃあな』
そう言って颯人の電話は切れる
なんだ
フミさんのせいで恥ずかしい思いをしてしまった……。あんな風に杏実から言われれば、颯人も困ったことだろう
しかし真実を知ったところで、このケーキが食べられなくなったわけじゃない。萌と食べることを考えたらわくわくしてきた
「さあ。帰ろっかな……」
杏実はそうつぶやいて、歩き出したのだった




