56.蜂蜜の行方
「杏実ちゃん。コーヒー入れてくれる?」
料理を一通り食べ終えた後、平田は「ごちそうさま」と言うなり、隣に座る杏実の方を向いてそう言い放った
あまりの唐突ぶりにびっくりして、思わず平田に視線を向ける
「え?」
「やっぱり食後にはコーヒーでしょ? 入れてほしいな……」
平田は相変わらずの調子で、飄々とそう言ってのける。その傲慢な態度に一瞬面食らったが、特に言い返す言葉もないので「はぁ……わかりました」と言い立ち上がった
すると颯人が向かいの席から杏実を手で静止し、平田を睨んで言った
「平田。杏実はお前の召使いじゃねーだろ」
「ん……まあそうなんだけどさ」
「じゃあ……」
「でも杏実ちゃんの入れるコーヒー好きなんだよね。ちょっと飲みたくなちゃってさ……いいよね?」
そう言って、ニコッと杏実の方に笑いかける
なんとも強引な言いぐさだとは思うが、食後にコーヒーが飲みたいという平田の言い分は十分理解できるのだ。平田はよく『スクラリ』でも食後にコーヒーを飲みに来ていたから
「良いですよ。といっても……この家にはパックのインスタントしかありませんけど」
「うん、十分。朝倉と萌ちゃんはいる? ついでに作ってもらったら?」
「俺はいらない」
颯人はそのやり取りに、不機嫌そうにそっぽを向いてしまった。
それもそのはず、颯人がコーヒーを飲んでいるところは見たことが無い
萌は考えながらも「私飲んでみようかな~」と言っている。杏実がカフェオレにしてあげようか? と言うと、うれしそうにうなずいた
杏実はテーブルの食器を片づけ、コーヒーを入れるためにキッチンへ向かう。やかんを火にかけ、インスタントのパックをカップに設置したりしていると、ダイニングから平田の声が聞こえてきた
「朝倉も紅茶、入れてもらえばいいのに」
「お前みたいに図々しくないんでね」
「ふ~ん。……全くわかってないよね~」
「は?」
「ところでさぁ……朝倉。二年前に渡した蜂蜜覚えてる? あれ、どうしたの?」
その会話にドキッと心臓が高鳴る
“二年前の蜂蜜”
杏実が平田に託した―――――あの蜂蜜だ。
ずっと行方が気になっていたのだ。そしてこの話題を颯人に持ち掛けたということは、平田はその後、蜂蜜を颯人に渡してくれていたらしい。杏実の精一杯の気持ちを間違いなく届けてくれていた
杏実は颯人の返答が気になって、耳を澄まして会話に聞き入った
颯人は平田の問いに軽く顔をしかめると、ふと顔を上げ、キッチンで耳をそばだてていた杏実に視線を向けた。颯人と杏実の視線が交差する。驚いて目を丸くすると、颯人はさっと視線を逸らしてしまった
「お前には関係ない」
「……またか」
「大概しつこいんだよ。何回目だ、その質問。二年も前のことなんか覚えてない。捨てたんだろ」
“捨てた”
その言葉に頭を殴られた様なショックを受ける。二年も前の話だ。覚えていないのは仕方のないことだとは分かっている。しかし……何を期待していたんだろう
「まして二年も……」
「ねえ? ……それってラベイユの蜂蜜のこと?」
颯人がさらに何か言おうとした言葉を遮るように、萌が不思議そうに口を挟んだ
“ラベイユ”聞きなれたその言葉に、落ち込みかけた顔をハッと上げる
「二年前って……一度、颯人お兄ちゃんだけが帰国したときに持って帰ってきた、あの蜂蜜でしょ?」
持って帰ってきた?
“ラベイユの蜂蜜”それはまさしく杏実が平田に託した物と同じ店の蜂蜜だった。萌のその言葉に、平田はうれしそうに身を乗り出して聞き返す
「萌ちゃん知ってるの?」
「萌!」
その言葉を遮るように、颯人が萌を制止しようと呼びかける。しかし萌は悪びれることなく平田に楽しそうに話し始めた
「うん。颯人お兄ちゃんの部屋の机に、いつも栓も開けず置いてあったよ。萌の持って行ったやつが無くなった時に『ちょっと頂戴』って言ってもくれなかったから覚えてたんだ。あれのことでしょ? なんで大切に……」
「萌! いいかげんにしろ!!」
「なんで怒るのぉ~? わけわかんない……」
「平田から聞かれたからって、ペラペラとなんでもしゃべるな」
「だってぇ……」
「萌ちゃんは悪くないよ。ありがとう。教えてくれて」
「役に立った? あれって平田さんがあげたものだったの?」
「それは違うんだけどね~……ずっと気になっててさ。萌ちゃんのおかげですっきりしたよ」
そう言って、平田は王子スマイルで萌に笑いかけている。萌はうれしそうに顔を赤らめた
本当だろうか……?
杏実の渡した蜂蜜は颯人の机に置かれてたんだろうか?
使わず? 大切に?――――――信じられない
……もしくは杏実の渡したものではないのだろうか? ラベイユなんて大手の蜂蜜専門店だし、どこででもとはいかないが百貨店に行けば手に入るし、インターネットでも販売している。たまたま味が気に入ったから、自分で買って持って行ったのかもしれない
ダメ。期待したら……
まさか……ただのカフェの店員のプレゼントを大切にしてくれているはずがない
杏実はそう自分に言い聞かせて、一度納得するようにうなずき、顔を上げた。しかしその瞬間、颯人と視線が合った。いつからこちらを向いていたんだろう。その表情は杏実の中に何かを探すような……真剣なまなざしだった
「杏実ちゃん? できた?」
「ひゃ……」
後ろから萌が肩越しにカップを覗いてきた。いつの間にか後ろに来ていたようだ
「お鍋でミルクまで沸かしてくれてたのぉ~? レンジでよかったのに」
「う~ん。つい癖でね」
「さすが、元カフェ店員だね」
「……どうかな?」
杏実は曖昧に笑うと、カップに落としておいたコーヒーとミルクを混ぜてカフェオレを作る。平田のコーヒーと共にトレイに置くと、うれしそうに萌がそれをダイニングに運んで行った。その様子をキッチンからぼんやりと見つめる
颯人はもうこちらを向いていない
いったいあの視線は何を伝えていたのか
―――――――なにか胸騒ぎがした