26.二人きりの夜~1
「じゃ、俺は寝るからな」
「ね……寝る?!」
「俺は長時間の運転で疲れてんだよ」
「だっ……だっ…」
杏実があたふたと手を泳がしていると、颯人はさっさと布団に入って杏実とは反対側を向いてしまう
「私……仲居さんに相談してもう一度おばあちゃんに…」
「無駄だからやめとけ」
あれから何度か部屋に電話をかけたが応答はない
颯人はなおもあがく杏実に向かってきっぱりと言い放つ
「わざわざ俺たちを追い出して、荷物まで運んだんだぞ。大方旅館の仲居にも了解済みだろうから、どうあがこうと無駄だ」
「そんなぁ…」
杏実が泣きそうな声を出すと、颯人はあきれたようにため息を吐く
そして少し起き上がって杏実のほうを向いた
「あのなぁ……俺がなんもしねーって言ってんだから、お前は圭さんと寝てるつもりでいりゃーいいだろ」
「う…」
そんな……無理だもん…
颯人は紛れもなく杏実の好きな人なのだから―――――颯人がなんと言おうと杏実の動揺は抑えきれないのだ
「つべこべ言うな。寝ろ!」
颯人はそういうと、さっさと手元の明かりを消して再び反対側を向いて横になってしまう
「あ…」
怒っちゃった…
杏実はしばらく朝倉の背中を見ていたが、それ以上反応がないので仕方なく自分も布団にもぐりこむ
落ち着かない…
布団は二枚分。部屋はこじんまりして狭い…しかしきちんと隙間も作ったので(初めはきっちりくっついていた)、それぞれの布団で寝れば触れ合う距離ではない
しかし耳を澄ませば、颯人の息遣いが聞こえてくるのだ
手を伸ばせば触れることだって…
ううん!何考えてんの!ダメダメ……ダメダメ…
落ち着け落ち着け…
静かな部屋とは反対に、杏実の心中は部屋中駆け巡るかのごとく騒がしい
心臓は常に早鐘を打っている
そのせいか背中がムズムズしてきた
一向に収まらない動揺に、ちらっと颯人のほうを確認する
颯人は先ほどと変わらない体制で反対側を向いている。呼吸も杏実のように乱れている様子はない
朝倉さんは……私と寝てても何も感じてないんだろうな
杏実はふと寂しくなる
同時に、今まで動揺していた気持ちがスーっと冷めていく
……いくら杏実が颯人のことを考えていても、颯人はこれっぽっちも杏実のことを考えていないのだ
むしろこんなことになって、嫌がっているに違いない
合コンの時のこともあるし…
いくぶんか誤解は解けたようだが、第一印象というものはなかなか変えられないものだ
『スクラリ』でアルバイトしてた時は、もう少し優しかった気もする…
いや。あの頃はただの店員とお客だったのだ―――――近いも遠いもない
結局、何も変わってないってことかぁ…
そんな自分の思考に思わず落胆して、ため息が出る
幾分か気分も落ち着いてきた
寝よう…
杏実がそう心の中で呟いた
しかしその時―――――何かが肩に触れたような気がした
ん?
そういえばさっきから、背中がムズムズしていた気がする
カサカサ…
今度は耳元で何か動く気配がした
え?
嫌な予感が杏実の頭によぎる
杏実はその予感を否定しつつ、ゆっくりと上体を起こした。そして……慎重に、音のしていたと思われるほうを見つめた
カサカサ…
「!?」
明らかに杏実の枕元に何かいる!? さっきとは違う緊張感に、杏実の心臓は再び早鐘を打ち始めていた
薄暗い部屋の中で目を凝らす
カサカサ…
その影は親指ぐらい。小さく――――杏実の枕元のシーツの中でうごめいていた
ゴ……!ゴキブリ!??
「きぃゃー○×△ …!!!」
杏実はその正体を認識すると、同時に布団から飛びのいた。その拍子に、杏実の声に驚いて起き上がった颯人にぶつかる
「おい! どうした!?」
「あ……あ…!!」
言葉を紡ごうとするが、のどがひくついて声が出ない。杏実は必死で状況を伝えようと、自分の寝ていた枕のほうを指さした
「?」
颯人は正面からぶつかって固まっている杏実を、さりげなく自分の背中の後ろまで引き寄せてた
そして手早く手元の明かりをつけると、杏実の指さすほうへ目を凝らした
杏実も颯人の背中越しに、こわごわと枕元を見る
カサカサ…
「ぎゃーー!!!」
杏実はあまりの恐怖に思わず横から颯人に抱きついた
「ちょ……おい!」
颯人がとっさに抗議の声を出すが、そんなことに構っていられない
「わ……わた…虫……虫は…」
「落ち着け」
杏実の強い力で抱きつかれた颯人は、とりあえず杏実を引きはがそうとする。しかし虫が苦手な杏実は、無我夢中でしがみついた
「ダメなんです……ダメなんです…」
杏実はなおも必死に訴える
杏実の中で、颯人に抱きついているという自覚は無かった。ただ藁にもすがる思いだったのだ
杏実の尋常じゃない様子にあきらめたのか、颯人は杏実の身体を離そうとしていた手を外して、優しく背中をポンポンと叩いた
「わかったから…」
子供をあやすかのような仕草だった。颯人の優しさを感じる
そしてそのリズムに、自然と気持ちが落ち着いてきた
杏実は少し安心して自然と手の力を緩めた
しかし後ろから「カサカサ…」と音が聞こえてきたことで、杏実は再びきつく颯人にしがみついた
颯人は背中を叩いていた手を止め、短くため息をつく
「大丈夫だから…」
杏実の耳元でそうささやくと、背中に両手を回し、杏実をギュッと抱きしめた
その力強さに一瞬めまいがした




