16.誤解された思い
朝倉は終始無言で杏実を支えながら、歩いて行く。
時間が経つごとに酔いも醒め、だんだんさっきの出来事が杏実の思考に戻ってきた。
自分が合コンに行っていたこと。
朝倉と会って……御曹司に絡まれて……朝倉にキスされた―――――
思い出した途端、その時の感覚や感触が思い出されて身体がほてってくる。
(どうして私に?)
今にでも聞いてみたい。しかしその話題を出すのはかなり勇気がいる。
それに……よく考えれば、なんとなくだが”朝倉の意図”がなんだったのかわかる気がするのだ。朝倉は御曹司に絡まれた杏実を気の毒に思って、あの場から連れ出すためにキスしたのだろうと。あのお酒も口実だったのだ。
杏実がお酒に弱いことがどうしてわかったのかはわからないが―――常にソフトドリンクしか飲んでなかった杏実のことを、山川が話題に出してもおかしくないし、それを朝倉が聞いていたのかもしれない
(でも……どうして助けてくれたんだろう?)
疑問に思う気持ちはあるが、その事実はなによりうれしい。女性にはめっきり冷たい朝倉だが、本当は優しいことを杏実は知っている。
そして今日も少しでも声が聞けたら……話しができたら、と思っていた。
そんな朝倉と……今は二人っきりになれた。
こんな機会は奇跡のようだ。なにか話したいと思うのだが…やはり先ほどのキスの余韻がよみがえって、うまく話しかけることができなかった。
そうしている間に杏実のアパートについてしまう。
「あ……ここです」
(ああ……着いちゃった)
朝倉は杏実のアパートを見上げると、何を思ったのか怪訝そうに眉を細めた。
築30年のこのアパートは中の構造はしっかりしているが、見た目において壁は薄汚れ所々泥のシミがあり、床のタイルははがれて穴が開いたところもあるし、手すりもさび付いていて、夜になると昔ながらの古い電燈が暗くそれらを映し出すのでよりうっそうとした雰囲気になるのだ。杏実とっては見慣れた風景だが、初めて見る朝倉にはこの築30年の老朽化ぶりは、あきれるものがあるのかもしれない。
杏実を見て何か言おうと口を開きかけた朝倉だが、結局何も言わず視線を逸らしてしまった。
「それじゃ」
そういうと踵を返して、来た道を帰っていってしまう。
(あ……行っちゃう!)
そう思った瞬間、考えるよりも先にとっさに声が出た。
「朝倉さん! 待ってください!」
朝倉はその声に歩みを止めると、ゆっくりと振り向く。そんな動作さえ、さまになっていて杏実の心臓はどきんと跳ね上がった。
「……なにか?」
思わず呼び止めたことも忘れて見とれていた杏実に向かって不機嫌そうにつぶやく。おそらくその言葉の前には「まだなにか?」とついていただろう。
このまま会えなくなるのが嫌でとっさに呼び止めてしまったものの、どうやってこの場を繋ぎ止めたらいいものなのか、杏実にはまったく思いつかなかった。
しかしこのまま何も言わなければ、即刻立ち去ってしまう。
それは嫌だった。
いっそのこと『スクラリ』で働いていた店員だと言ってしまおうか?
そうすれば呼び止めたわけを知って、少し話を聞いてくれるかもしれない。正直言って自分が”アメ”だと知られたとしても、状況は変わらない気もするが、今はそれしか方法が思いつかない。
そう思って言葉を発しようとして、ハッと自分が今日変装していたことを思い出した。
この”身なり”で、同一人物なんて信じてもらえるはずもない。2年前の"アメ"の面影は影も形も残っていない。
なにか証拠となるもの……とぐるぐると考えをめぐらすと、ふと”ミルクティー”のことを思い出す。
(そうだ! あれを飲めば思い出してくれるかもしれない!)
思い出してくれなくても……それで話題が広がるかもしれない。
そしてずっと気になっていた”蜂蜜の瓶”のことも聞けるかもしれないと思った。平田に託したあの蜂蜜が……
返事をしない杏実に怪訝そうな目を向けていた朝倉の顔を、意を決して正面から向き合う。
(お願い断らないで……)
「あの……よかったら私の家でミルクティーを飲んでいきませんか?」
「はぁ?」
朝倉があきれたようにそう言い、さらに怪訝そうに眉をひそめた。
(やっぱり無理なのかな……)
自信が無くなってくる。
もともと女性にはめっきり冷たいのだ。送ってもらえただけでもすでに奇跡だと思われる。
でもここで引き下がったら、このまま会えなくなる。それは嫌だ。
杏実はすがるように朝倉を見つめ返事を待った。
朝倉はしばらく杏実の目を見ていたが、やがてゆっくり口を開いた。
「………君の部屋で?」
その質問は希望の糸口のようで、杏実はたちまち嬉しくなった。
急いで笑顔で答える。
「はい。私紅茶が大好きで、よく入れるんです。今日助けていただいたお礼…」
「君、わかって言ってる?」
「え?」
街灯の暗がりの中……よく見ると朝倉が意地悪そうに笑い、杏実を見下ろしていた。その黒い瞳はかつてないほど冷たかった。
………初めて睨まれた時の震えあがる視線に―――似ている
(怒ってる……?)
なにか失礼なことをしてしまったんだろうか………まったく思いつかなかった。
「どうゆう意味……でしょうか?」
その冷たい瞳を受けながらも尋ねる。張り詰めた雰囲気に声が震えてしまっていた。
「どうゆう意味か……?」
朝倉は馬鹿にするように「くっ…」と鼻で笑うと、ゆっくり杏実のほうに近づき、思わず後方に後ずさった杏実の腰を引き寄せた。
「あの……?」
その恐怖に震えていた杏実は、びくっと身体を揺らす。
朝倉は杏実の顎に手を添えると、ゆっくり上に向かせる。
「こんな時間に部屋に男を誘う意味だよ」
朝倉と至近距離で視線が絡んだ。相変わらず、その瞳は氷のように冷たい。
杏実が朝倉の言った意味を考えるより先に、朝倉の唇が近づいてきて――――――キスをされた。
何度も角度を変えながら覆いかぶさるようにキスを繰り返され、息ができなくなった。苦しくなって口を開けると、そこから朝倉の舌が侵入してくる。
獰猛な動物にかみつかれているようだった。
(怖い……!)
しかしその思いとは裏腹に、その荒々しさに翻弄され触れ合った所から熱が生まれるような……再び杏実の胸に熱いものが込み上げてきた。
「……んぁ…」
かろうじてあいた隙間から息をしようとするが、甘い吐息しか出ない。
(朝倉さん……)
全身の力が抜けて朝倉に体重を預けてしまったとき、突然キスが止まった。そして……
―――唐突に杏実は身体ごと突き飛ばされた。
先ほどのキスで足と腰の力が抜けた杏実は、そのまま地面にへたり込む。
「……バカな女」
びっくりして朝倉を見上げると、更に冷たい視線が杏実を見下ろしていた。
その瞳を見た瞬間、朝倉の言った意味をようやく理解した―――――”誘っている”……と思われたのだ。
とんでもない誤解だった。
恋愛経験値の低い杏実は、これっぽっちもそんなことを考えていなかった。
しかしこの派手な身なりで……初対面の相手からの”お茶の誘い”は、そう誤解されても仕方ない状況だったのだと、冷静になればわかる。しかし呼び止めることに必死で、そんなこと思いつきもしなかった。
朝倉は――――――杏実を”軽蔑”している
「朝倉さん…」
必死でそういう意味でなかったことを伝えようと思うのに、うまく言葉が出てこない。
そんな杏実をさげすむように見下ろし、朝倉は言い放った。
「申し訳ないが……軽い女は嫌いでね」
(ちがうんです…)
「……君には二度と会いたくない」
そういうと朝倉は踵を返してそのまま立ち去って行った。
杏実の頬に涙がとめどなく流れていく。
(そんなつもりじゃなかったのに!)
そう後悔しても遅い。
朝倉との再会は、甘いキスと苦い涙で幕を閉じたのだった。




