10.運命の足音
「はい。血圧も問題ないです。この頃は順調ですね。この調子できちんとお薬お飲んでいきましょうね」
「ありがとう。安心したで……この調子だったらもうちょっと長生きできるな。よし……やっぱり杏実ちゃんワシの嫁さんにならんか?」
「もう……吉井さん……またそんなことを」
「お金ならたんまりあるし、苦労させんで~。杏実ちゃんほどの優しくて甲斐性のあるある子はおらんわぁ…」
そういって吉井さんのしわの深い手は、血圧計におかれている杏実の手をギュッと握る。
「何をいっとるんじゃ! 杏実ちゃんはわしと結婚することにきまっとる」
横からもう一方の手を取ったのは、同じく入居者の藤井さんだ。
「もしわしがだめでも、息子にと思っとるんじゃ」
「なにっ! 藤井さんの息子言うたらバツイチで、もうだいぶ年じゃろが。そんなやつに杏実ちゃんはやれるか」
「なんじゃと! 息子が年やったら、吉井さんはその二倍あろう!!」
「ほんなら藤井さんもやろが!!!」
二人が目の前でそんな不毛なやり取りをしていると、前に座っていたいつも穏やかな田中さんがそっと口をはさんだ。
「なら……杏実ちゃん。私の孫はどう? 年は同じぐらいだし…」
「こら! 田中さん。杏実ちゃんはワシの…」
次第に収集がつかなくなってきた気がする。
”冗談”と静観していた杏実だが、さすがに終結を図ろうと口を開きかけた。同時に後方から、またまたよく知った声が聞こえてきた。
「ちょっと、ちょっと!! 何言ってる……吉井さんも藤井さんも田中さんも!? 杏実ちゃんは私の孫にって決まってるんじゃよ!」
(決まってません…)
思わず杏実はため息をつく。
もちろん、その発言者は杏実の様子に気づく様子はない。
「まったくこんな爺さんたちに圭ちゃんの大事な孫娘をやれるもんか~。な? 圭ちゃん」
そう言うと後方より、もう一人姿を現した。杏実が何よりよく知る人物だ。
「そうね……吉井さん達よりは、フミちゃんの孫がいいかもねえ…」
「ほらみい! さあ、わかったら変な期待持たないことじゃな」
そういうとフミは手を「シッシッ」と振って、みんなを追い払おうとした。するとみんなはしぶしぶ席を立ちはじめた。「フミさんにはかなわん…」「圭さんに言われたんじゃ勝ち目ないじゃろ……」などと皆口々に呟きながら、コミュニティールームから立ち去っていく。
このやり取りは今に始まったことではない。毎回同じような展開なのだが。
よくわからないが……杏実は入居者に人気があり「息子はどうか?」「孫は?」という話をされるのだ。
まれに「自分は?」というのもあるが…
いままで一度としてモテたことのない杏実にとって、正直そんな風に言ってもらうのはうれしい(もちろん本当に紹介してもらったことはないけど)
しかし、そんな時決まって杏実の代わりに断って(あしらって?)しまうのが、こちらの”下村 フミ”
入居者兼ここのオーナである。
そして”圭ちゃん”というのが、杏実の祖母。フミとは女学校以来の親友だ。
圭は杏実の両親からひどい扱いを受けて困っている時に、フミから誘いを受けて住んでいた土地を離れ、フミの経営するこの介護付き住居型有料老人ホーム『やすらぎの里』に入居することになった。
老人ホームといっても、ここは現代風。
シニアマンションのように、ほとんど個室でプライバシーに優れており、二人においては特別仲がいいので、最上階オーナー用の2LDKで一緒に住んでいる。
同時期に圭を追いかけてきた杏実は、一緒には住むわけにはいかなかったが、右も左もわからない時からフミにお世話になっていた。フミは経営者ゆえか器が大きい。言い方は厳しいが、いつも杏実のために親身になってくれる頼りになる存在だった。
杏実はフミが大好きであり、今では自分の身内のように思ってしまうほど近い存在だった。
「フミさん……みんな冗談なんですから」
みんなをやり込めたことに満足そうにしているフミに、あきれ顔を見せるとフミは首を振る。
「何言ってるんじゃ。杏実ちゃんモテるんだから、今からちゃんと牽制しておかないと大変なことになるじゃろ」
「モテませんよ……ここだけです」
「今まではそうだったかもしれんが、ここ何年で杏実ちゃんきれいになったしこれからは違う。今のうち予約しておかなくっちゃな」
「フミさんはおばあちゃんと親戚になりたいだけでしょ~」
「お。鋭いな」
そういってフミは口角を上げてしたり顔で笑う。圭をこよなく愛すフミの魂胆など、お見通しだ。
「まあ~フミちゃん。私もそれには賛成だわ!」
その言葉にうれしそうに圭が賛同した。
「圭ちゃん!」
「フミちゃん」
(……ったく……両想いなんだから私を巻き込まないでよ)
「はいはい……。もう私行くね」
「あ! 杏実ちゃん。私本気じゃよ~」
部屋から出ていこうとすると、フミは杏実に向かってそう叫ぶ。
毎回この調子なのである。
でも……孫のことはさておき(実際会ったこともないし、ほんとにいるのかもわからない)フミが杏実のことを身内のように心配してくれているのはわかっている。杏実が絶縁状態になっている両親のことで、悩まなくていい方法がないか考えてくれているゆえの言葉なのだ。
その気持ちはくすぐったくてうれしい。
杏実が「スクラリ」を退社してから、2年2か月という日々が経った。
初めの2年は併設病院での勤務だったので、祖母のいるこのホームに変わってからは2か月になる。
働き始めて眼鏡が邪魔になりコンタクトに変えた。先輩から指摘されて化粧もするようになったし、あの当時まっすぐに伸び放題伸びていた黒髪は切って、今は軽くカラーリングした髪がふんわりと肩までウエーブしている。すべて美容師さんの言うままだが。
ここの従業員はいい人ばかりで、時々は飲みに行ったりして、毎日あわただしく時間が過ぎていた。スクラリにいたころに比べ、だれが見ても”充実している”と思うだろう。
実際充実している。
――――でも
何度かスクラリに顔を出したが、朝倉には一度として会えなかった。
朝倉に会えないという事実は、ぽっかりと胸に穴が開いたかのようなさみしい気持ちをもたらしていた。
二年も経つのに……馬鹿だと思う。最後の日に会えず自分の中で区切りをつけなかったことがいけなかったのだろうか。しかし長い月日と忙しい日々は、次第にそんな気持ちを麻痺させているようにも感じられ
、いつかそうして忘れる日々が来るかもしれないと思い始めていた。
始まってもいない恋愛にこんな風になるなんて、変だと思う。
しかし”新しい恋”については―――――今はそんなこと考えられなかった。
忙しい一日が終わった。
杏実が更衣室で着替えをしていると、後ろからポンと背中をたたかれた。
「千歳さん。今日、わかってるわよね?」
振り返ると2年先輩の”山川 千理”が立っていた。
すでに着替え終わっており、今日もアイメイクはばっちり決まっていてその顔つきは華やかというより限りなく派手だ。
細かいパーマのかかった髪は腰まであって、金髪ぎりぎりの明るい色。豹柄のミニスカートに10センチぐらいと思われるほど高いヒールを履いていて、今日は一層気合が入ってる。
それもそのはずで……
「ちょっと……何よその地味な服は!」
「先輩……私には無理ですよ。これでも精一杯選んできたんです。そもそも普通の合コンにも行ったことのないのに、接待も含めた合コンなんて無理に決まってます。ほかの人を誘っていただければ……」
「だめよ!! 忘れたの? 私に借りがあること。この前休みを交換してくれたら何でもしますって言ったわよね?」
「それは言いましたけど……向き不向きが…」
「つべこべ言わない。まあ……こんなことだろうと思って用意してきてよかったわ」
そういって小さい声で抗議する杏実の前に、黒に紫のきらびやかなロゴの入った紙袋を置いた。
「な……なんですか?」
恐る恐る尋ねた杏実に、顎で「開けてみろ」と促してくる。
―――――嫌な予感がする。
中身を見てみると……山川に引けを取らないぐらいの派手な服が入っていた。またその横には明るい茶色の髪のウイッグがはいっている。
それを見た瞬間、山川の意図を察して気を失いそうになった。
「これを着なさい」
「ええ!! 無理です」
「無理でもやるのよ。私がばっちりメイクしたげる。そうすればもう誰も千歳だとは思わないだろうし、そう思えば恥ずかしさも消えて参加できるでしょ」
杏実は”同意できない”と大きく首を振る。
「千歳。これは私たちの未来もかかってるの! 御曹司よ…玉の輿よ!!」
「私は興味ありません!」
「聞く耳なし!!」
そういうと杏実を椅子に座らせ、勝手にメイクを始める。
拒否権はないらしい。
落胆する杏実をよそに、メイクをしながら山川は口も動かした。
「そもそもあなた、御曹司といつ知り合いになったのよ?」
「なんのことですか?」
御曹司の知り合いなんていない。地元ならまだしも、ここに来てからは仕事関係しか付き合いはないのだ。
「はい? あなたが御曹司に指名されたから、この話が決まったのよ。それなのに知らないわけないでしょ?」
「知りませんよ。何かの間違いじゃないですか」
「もう! まあ間違いでもなんでもいいわよ。とにかく指名されたあなたがいないなんて、許されると思う? ダメに決まってるでしょう。これは先輩命令なのよ」
「はあ……」
「ちょっと、何よその返事! そもそもこのメイクや服はあなたを守るためにやってんでしょーが!」
「どういう……」
「一人だけ地味だとなめられたり、目をつけられて使いっ走りになったりしたらかわいそうでしょ? 優しい先輩心なのよ」
「そうだったんですか……?」
「そうよ。感謝しなさい」
「はい…」
なんだか納得いくような、都合よくまとめられたような…
そう思って山川を見ると、杏実の気持ちが伝わったのか「口答えは許さない」というようにキッと睨まれる。
今日は逆らわないほうがいいようだ。
(行きたくないよぅ……)
本心とは裏腹にメイクとウイッグの装着が素早く終わったので、渋々ながら着替えをする。それが終わると山川に呼ばれ鏡の前に立たされた。
鏡の中には杏実とはかけ離れた度派手なお姉さんがこちらを見ていた。
いつも手馴れているだけあって、山川のメイク術は完璧でなかなかきれいである。似合う似合わないは別として、新しい自分を発見した気分でちょっと笑い方なんかも練習してみる。それを見て、山川は満足そうにうなずいた。
「さすがね……私。千歳さんは化粧映えすると思ったけど予想通りね」
確かにこれでは”杏実”だと言わない限り、誰も気が付かないだろう。そういう意味では別の人になり合コン(接待?)に臨めるかもしれない。
なんとか気持ちを盛り上げようとする杏実に、山川は肩をたたいた。
「さ……行くわよ。大丈夫よ……私たちに任せてあんたは黙って笑ってなさい。期待してないから」
慰めてくれてるのか、けなされたのか。そうして重い足取りで先輩の後をついていった。
運命の歯車が回り始める瞬間がもうすぐ訪れる―――――
杏実は知る由もなかった。