第三十二話 その眼が開くまで
風呂を出たのはそれから随分経ってからだった。完全に寝入ってしまった穂琥。そんな風呂場で起きた不可解な出来事。
すっかり寝てしまったのでかなり長い風呂となってしまったにもかかわらず身体が冷えることなくお湯は温かだった。そんなことに疑問を持ちつつもう一つ。こっち疑問はすぐに解消されたのだが、全身の怪我が傷跡なしに治っている。
「治してくれたんだ・・・。どうせなら薪を治してくれればよかったのに」
口を尖らせながら穂琥はそう思う。それでも感謝の気持ちは忘れていないつもりだ。
翌日。やっと出来たゆとりの日。散々疲労した身体を休ませてやろうと穂琥はその日を堕落に使った。
ただ何もしない日が今までにあっただろうか。薪と出会う前にもこんな『何もしない日』などなかった。そして思うのだ。
「ありえない!最悪だ!こんな堕落した日常を薪は認めない!」
そんな風に下らない考えをしていたとき、声が聞こえる。
【お前、毎度この様な生活を送っているのか?】
聞こえてきた綺邑の声に穂琥は肩を震わす。一つ聞き忘れたことが有ったと綺邑の声がする。それに答えようとして声を出して、自分の発している声が綺邑に届いていないことがわかる。いつも薪が出していたあの独特の響きのあるしゃべり方。恐らく眞稀を使っているのだろうが、穂琥にその方法はわからない。そうやって試行錯誤していると呆れた表情で綺邑が顕現してくれた。
「あ、すみません・・・」
「ふん。お前、認可の門を触れずに開けたとは本当か?」
穂琥は意外なその質問に軽い動揺を混ぜて肯定した。何故それを知っているのかたずねると綺邑は簾堵乃槽耀から聞いたと答えた。
「神を呼び捨て?!」
穂琥の突拍子もない声に綺邑は眼を軽く細めた。
「違えぬわ」
穂琥はその言葉を聞いて少し考える。そして彼女もまた、死神。神の末端に座するものであることを思い起こす。
「あの・・・」
「ん?」
穂琥は自分の身体の傷を治してくれたことをたずねる。薪の傷は治さないと豪語しているのに何故穂琥の傷は癒してくれるのだろうか。
「知ってどうする」
穂琥自身に綺邑からそんな買われるような事はしていないと思える。薪のほうが余程だ。嫌われていてもおかしくないのは穂琥のほうだ。
「別に」
綺邑は短く答える。用件を聞き終わった綺邑はその場を後にしようとする。それを穂琥は再び止める。それに鋭く睨まれて押し負けそうになるが穂琥は必死でそれに耐える。
「お仕事の、ほうは・・・・?」
少し身を引きながら綺邑にたずねる。少し不可解な表情をしながら今は空いていると答えた綺邑。
「何故?」
「いや・・・あれほど前に出ることを嫌がっていたのに私の前には随分出てきてくれるんだなぁって思って。あっ!いや!別に、嫌とか悪いとかそういうんじゃないよ!?」
突然弁解を始めた穂琥に綺邑はただ冷たく視線を送る。
「何も言っていないが。用はそれだけか?」
「あ・・・・」
まだ何かあるのかと言いたげな眼で見られて穂琥は胸が痛む。そして死に物狂いで言葉に出す。
「あ、明日も・・・来てください・・・」
穂琥のその言葉に綺邑はしばらく沈黙した。
「ふん」
綺邑はそのまま姿を消してしまった。その態度に穂琥は申し訳ない気持ちになった。やはり悪いことを言っただろうか。迷惑だっただろうか。小さく深いため息をついて穂琥は布団にもぐった。