第二章 ○●痲臨奪還編●○ 第三十一話 風呂場での出来事
薪の家に着くまではよかった。しかしその後が大変だった。
「薪?!ちょっと?!」
玄関に入ってすぐ、薪は何かが切れたように倒れこんで意識を失ったしまった。穂琥はそんな薪を必死で駆けて布団まで運んだ。
「もう!気を失うにしてももう少し余裕を持って・・・・余裕を・・・」
穂琥は苦情の言葉を途中で切る。薪が昏倒することなどあり得ないのだ。それが今こうして昏倒したということは本当に限界だったのだ。玄関に入るまでは意地でも意識を手放さないように。それこそ余裕なんてなくて。
「眼、覚ましてよ・・・」
不安げな声だけを残して穂琥は部屋を後にした。負担を掛けないように。
穂琥は薪を刺した。どんな理由であれそれは変わる事のない事実。それを物語っているのが己の身体。替装して誤魔化していたが実際穂琥は血まみれだ。薪みたいに替装するだけで身体の汚れを払えるほど器用ではない。それを落とすべく風呂に湯をはりに行く。
鏡を見て絶句する穂琥。薪をどれだけ切り裂いてしまったのかよくわかった。今の髪は茶色がかったさらっとした髪をしているがそれが血で黒っぽく固まり髪を何束にもまとめていた。
シャワーでとりあえず媚びれ付いた黒い塊を落とす。案外血液とは固まると落ちにくいものだった。何とかしてそのへばり付いたものを落として綺麗にすると湯船につかる。以前と異なり今回はあまり怪我がなかったけれどそれでもあちこち怪我をしていてお湯が沁みる。
しばらく悶絶して何とか沁みるのを我慢できる程度まで来るとやっとゆったりとお湯につかる。そうしてふっと考える薪のこと。きっと眼を覚ます。今は疲労で倒れてしまっているだけだ。きっとそうだ。
「私って役に立っているのかなぁ・・・」
【奴がそう言ったのならそうなのだろう】
ふっと聞こえた声に穂琥は驚いた。穂琥の身体の動きとは別に水面が微かに揺れを見せる。そして僅かな波紋を作って降り立った一つの影。水面に触れることなくその水面の上に立つ黒い影。穂琥はそれの登場に驚いて顔を不自然に上げる。
そこには威圧感を眼に灯した綺邑の姿があった。
「き、綺邑・・・さん・・・?!どうしてここに・・・?」
「少し用が有ったからだ」
「え?!薪を治しに・・・」
「戯け。何故私があんな奴を治さねばならぬ」
威嚇に近いその言葉に穂琥は萎縮した。綺邑は本当に言葉の一つ一つが痛いくらいに強い。綺邑は確かに薪に対する扱いが随分とひどい。どれだけ嫌いなのかと突っ込みたくなる。
「聞きたい事が有る」
綺邑が突然尋ねてきたので穂琥は少し身構えた。
「邑頴のことだ。瞑、と名乗っていたか。奴は貴様等の戦いに居たか?」
綺邑の鋭い声が風呂場で木霊する。その強さに負けそうになりながらはたと穂琥は思考がとまった。そういえば。
「居なかった・・・」
綺邑はそれを聞いてふっと目を伏せた。
「邑頴が李湖南程度の餓鬼の元に居るのに飽きたのだろうな。いや、意味を達成したのかもしれんが。奴の事など詳しくも知らんし知りたくも無いがな」
綺邑はそっぽを向いて冷たくそう言った。
「まぁ、それの確認をしに来ただけだ。帰る」
そう言って綺邑はふっと水面を揺らした。
「あ、待って!!」
穂琥の声に綺邑は答えるように姿を消さなかった。その代わりに何か用かという鋭い目つきを向けられてそれに耐える穂琥の心は折れそうだった。薪の眼光より強いその眼に穂琥は必死になって耐えた。
「あ・・・・り・・・。ありがとう・・・」
「・・・・は?」
綺邑にしては珍しい疑問系の返しだったが穂琥はとにかくその綺邑の目つきが怖かった。鋭くて。
飲まれるな・・・呑まれ・・・呑まれてはだめだ!!いけない!しっかり意思を持つのだ!
そんなことを自分に言い聞かせる穂琥だった。あまりに綺邑が凝視してくるのでだんだん萎縮していく自分が少し惨めに思えた。
「開眼、一つ。増えたのか」
綺邑にそう言われて驚く。しかし薪も認める力の持ち主なのだからその位わかってもおかしいことではないか。穂琥はそっと頷く。そして綺邑は白眼であることまで言い当てた。穂琥はそれを肯定する。
「開眼しろ」
突然綺邑にそれを言われて穂琥は身を引いた。
「そんな・・・」
「嫌だと言うならそれは構わん。強制するつもりは無いが。ただ今の儘使うのであればお前、命落とすぞ」
綺邑のその脅しに穂琥は肩をびくっと震わせた。力が増大する白眼。使い方を誤れば眞稀の消費のしすぎで死に至る。そういうことだ。
「眼を閉じろ」
綺邑にそう言われて穂琥は仕方なく眼を閉じた。すると眼に熱いものが乗った。
「其の儘開眼しろ」
綺邑に言われた通り白眼を開眼する。そうして開眼してる途中に穂琥は関係の無いことが頭をよぎった。
―あぁ、今眼に乗っているの、綺邑さんの手だ
ふっとそれが取れる。そして閉眼するように言われて穂琥は言われるままに閉眼する。そして綺邑は今から24時間、決して開眼するなと忠告した。無論、桃眼も。そうすれば普通よりかは自由に扱うことが出来ると言う。それに穂琥は礼を述べる。この死神、綺邑に対しては以前、尋常ではない嫉妬を抱いていた。しかしそれが今では随分となくなってきていることに薄々気づき始めていた。
しかし今はそんなことどうでもいい。ただなんとなく穂琥は無意識に綺邑へ言ってしまった。
「綺邑さん、手、あったんだ?」
これにはさすがの綺邑も返す言葉が無かった。
「貴様、馬鹿か?」
薪よりも強烈な一言に穂琥はしり込みする。なんたって今まで全身をすっぱりと覆った服装で戦うときや薪への攻撃時も手は一切使っていない。全て足だけで攻撃をしている。だからてっきり手がないのかと穂琥としては思ったのだった。
綺邑は完全に貶すような目つきで穂琥を見下ろし、姿を消した。さすがに今の質問はまずかったと思い直す穂琥だった。
ふっと、消える寸前。綺邑は肩越しに穂琥を見た。どうやら若干自分の言動に落ち込んでいる様子だった。そんな穂琥を眼にして。そんな穂琥にへんな質問をされて。
―私の見当は違えたか、見込みを違えたか?
そんな疑問を浮かべたのだった。