第百十五話 裏と表界のこと
「お姉ちゃん・・・・」
不安げな声が衝撃音で消えていく。
暴発した薪に綺邑が僅かに押されている。綺邑が実際まともに力を行使したところは見たことがない。それでも強いということだけはしっかりと認識している。しかし今の綺邑はその認識とは異なる。力が低下しているということが事実であるということが窺えた。
そして薪が先ほどから一言も喋っていない。既に自我を失ってしまっているのかもしれない。綺邑がぐっと堪える姿が目に入った。こんなに苦戦を強いられてしまうなんて。穂琥は震える。
「貧相なものだな」
滑らかで美しく、それでいて強烈。美しい声が周囲の音を掻き消した。蹲っていた男がはっと顔を上げて恐怖した顔を垣間見せた。綺邑も明らか動揺しているようには見えた。
「あぁ・・・簾乃神様・・・・」
「おぉ、久しいな。ん、随分と怯えて。哀れだな」
神、簾堵乃槽耀。通称、簾乃神。彼女がここに顕現した。その瞬間ありとあらゆる変化がこの場に起きた。暴走していた薪も行動を止め、此方を観察しているようだし、アレほど苛烈に放っていた綺邑の殺気も消えた。そしてなにより。彼女がこの場に現れた瞬間、穂琥は心が妙にほっとして落ち着いた。
「何故・・・・」
綺邑が警戒したような声で尋ねた。簾乃神は綺邑へ首を巡らせるとにこりと笑った。
「限界だろう?助太刀をしてやろうただけだよ」
「頼んだ覚えはないがな」
「ははは。相変わらずよの」
簾乃神はどこか楽しそうに笑った。しかしそれに対する綺邑の言い方はひどく珍しい返しに聞こえた。
「さて。そこの小僧の力は抑えておいてやろうかね。それは置いておいて。そこのは何だ?」
鋭く光った簾乃神の眼光は今までの和やかなものとは打って変わった殺気だったものだった。それに睨まれたのは裏の男。彼は後ずさりを余儀なくされていた。
「なぜ・・・・ここに・・・?」
男は震える声でそう言った。それに答えた簾乃神の声は低く唸るようだった。
「それは我の台詞だ。間違っても裏界の者が地球に足を踏み入れるなど言語道断。なぜここにいる?」
その威圧に負け、男は声すら失っていた。簾乃神はふっと肩を落として男から視線を外した。そして穂琥へと移した。その瞳に怒気はなく、いつもの穏やかな瞳になっていた。
「さて、穂琥、といったか。その力どうした」
「あぁ・・・はい。力が削がれてしまっていて・・・」
「ほう?死神の子と同じか」
「余計なことを!」
簾乃神の言葉に綺邑が怒気をはらんで返した。一瞬、間が開いた気がした。綺邑が声を上げなければ簾乃神のいったものが誰なのか理解できなかったかもしれない。そう、綺邑は『死神』なのだから。そしてそれに反応したのは裏界の男。
「実在・・・したのか・・・?」
「これは、失言。悪かったと思うよ」
簾乃神は軽やかにそういう。綺邑は小さくしたうちを打った。
「さて、死神の子よ。そこの小僧を抑えておけ。我はそこの者を」
ひどく低く唸るような声に穂琥は過敏に反応した。
「殺さないで!?」
「何を恐れる」
穂琥の反応に少し愉しそうに簾乃神は答えた。『神』となる存在が下界のものに手を出していいのは例外である死神だけ。その他の神々は根本、手出しをしてはならない。まぁ、こうしてちょくちょく下界に降り、話をしている時点で例外といえばそうなのだが。だから、この場でいくら裏界のものだからといって簾乃神が手を下す事は出来ない。許されてはいないのだ。
「随分と挑戦的なことをしたものだな」
簾乃神が男に言う。男はその言葉の意味を理解しかねているようだった。よって簾乃神は回答を述べる。そう、手を出そうとしたこの少女は先ほど暴走しかけた少年の妹であること。そしてその少年は、今の・・・。
「愨夸だぞ?」
「な・・・!?」
簾乃神はにやりと笑う。その姿がこんな状況にもかかわらず見惚れてしまった。
『裏』といえど『表』の世界の権力者くらいは理解している。そしてそれが特に眞匏祗の愨夸であるとなると、別段、話は変わる。裏の世界でも愨夸には手を出してはならないと掟がある。主にその掟を強くする原因となったのは本当につい最近、薪の父、巧伎の影響が大きい。巧伎は裏界すらも潰す力を有していた。そして有していると同時にそれをする精神を持っている。故に、それを危惧した裏界の連中は愨夸には絶対不可侵の掟を築いた。
「愨夸・・・だと?それが?」
「はは。信じられぬか。だが事実。お前の考えているほどやわいものではないのだよ、裏界の者よ。あの小僧は優しいからな」
そう言った簾乃神の言葉に何か大きな穴があるように思えた。しかしそれを理解できるほど今の穂琥に冷静さはなかった。
簾乃神はその男に引くように命じた。まだ何もしていないに等しい状態であるから引くことを許すと。男はどこか苦しそうに顔を歪めながら頭を下げながら後ろにすっと消えていった。
「さて。そちらも何とかできそうだな?」
「ふん」
「よしよし。ならば一度そやつの家に戻るとしよう」
そうして、神々に連れられ穂琥と薪は帰宅することとなる。色々な想いが混じった気味の悪い感覚を残したまま。