第百十二話 迷と不安のこと
仭狛から儒楠を呼び寄せて話をする薪。穂琥の様子がおかしいから不安があるが、ひとまず今は代わりに穂琥を見ていて欲しいと頼む。薪の中でどこか、けたり狂う眞稀が仮にも地球で爆発してしまったら破壊しかねない。それだけは避けたい。儒楠はそれを深く神妙な表情で了承して穂琥のいる部屋へと急いだ。
「穂琥?入っていいかな?」
「うん」
声は思ったほど落ち込んでいなかった。儒楠はそっと穂琥の隣に腰を下ろして穂琥を横目で確認した。声とは違いその表情は重たかった。
「何を聞いたのかわからないけど、あまり深いことを気にしないほうがいいよ。穂琥は穂琥だよ」
「・・・うん、大丈夫・・・・」
その言葉に大丈夫という感じが全くしないことに儒楠は不安を抱いた。
「強いっていいね。力って憧れる」
穂琥から洩れたその言葉に儒楠は目を丸くした。力というものの恐ろしさはよくわかっていると思っていた穂琥が、こんなことを言うなんて正直、驚く以外の何物でもなかった。力を持ちすぎたがために民を苦しめた前代愨夸。そしてその力を受け継ぎ一生消えることのない傷を心に作った今の愨夸。その両方とも穂琥は知っているはずなのに。力の持つ危うさを・・・知っているはずなのに。
薪はどうして強いのか、穂琥はそんな事を言った。わかりきったことだろうと儒楠が答えると穂琥は淡い笑みを見せた。
「へへ。分からなくなっちゃった」
「穂琥・・・・。それは穂琥を護るためだろう?」
儒楠の言葉に穂琥はまともに返答をしなかった。一体何があってこんな揺らいでしまっているのか、全くわからない。一体何があったというのだろうか。何かの術中にかかってしまっているにしてもその気配は感じられない。儒楠は不安で埋まる。しかし、穂琥はそれを無視するようにもう寝るという。儒楠はそれ以上追求する事は出来ないと判断して仕方なく部屋を出た。
穂琥は膝を抱えてその隙間にすっぽりと頭を埋めて小さくなっていた。儒楠が部屋を出てから少しして、また鈴の音が聞こえた。穂琥はその音に反応を示さなかった。
『ねぇこっちに来なよ。夜に・・・おいで・・・待っているからね・・・』
声はそのまま聞こえなくなり気配も消えた。それから少しだけ間を開けて穂琥は埋めていた頭をガバッと上げた。その瞳に最早生気などなく、人形のように呆然とした目。穂琥はゆらりと立ち上がって窓の外を見詰めた。
あまりの穂琥のおかしい行動に儒楠が薪へ連絡を取る。薪も頭を抱えているようでどうしたものかと話しているとき、儒楠が慌てた顔をしたので薪が尋ねると、穂琥の気配が消えたと聞く。薪は一瞬、間を空けた。恐らくその一瞬の間に自分が何をすることが最善かを試行錯誤したのだろう。薪は即座に傍にいる役夸に声を掛けて地球へ行く手はずを踏んだ。準備をしている間、儒楠は穂琥の気配を必死で辿っていた。僅かに残る感覚を。
「私も行こう」
突如綺邑が参戦してきたので儒楠は口をぽかんと開けて固まった。
静かな夜闇の中。穂琥は一人、ぽつんと立つ。しんと静まり返る丘の上。
『あぁ、来てくれたね』
声が穂琥の耳の奥で鳴り響く。穂琥は小さく頷く。
「そこは・・・・何?」
簡単でそれでも一番大きな質問。穂琥はぼんやりとそう尋ねた。声の主は少しだけ間をいて笑った。
『ククク・・・。そうだな、そちらが表だというのなら此方は裏の世界だ』
ぼうっとする穂琥の耳に入る言葉。入れてはいけない。本来ならこの声は決して聞いてはならない、言葉を交わしてはならない危険な音。
「さて、では来る手筈を整えようかな」
目の前に突然見知らぬ男が現れた。真っ白い衣服に身を包んだ赤褐色の髪を頭の上で一つに結んで前にたれている。身長はさほど高くはないがどこか威圧する力は持っているようだった。群青色の瞳が穂琥を捉える。穂琥がその男に近づこうとしたとき。
「穂琥!そいつに近寄るな!!」
大きな声が静寂を破った。
「ちっ・・・」
男は舌打ちをして穂琥から離れた。そしてそんな穂琥の前に薪が降り立つ。
「じゅ、儒楠君・・・!?お姉ちゃん!?」
「悪い、オレは儒楠じゃない」
「・・・し、薪!?」
ぼうっとしていた穂琥の目が大きく見開かれはっきりと生気をもった瞳になった。しかしその奥ではまだどこか揺らいでいる気配を漂わせている。
「おっと・・・眞匏祗じゃないのがいるな・・・・?」
「ふん」
綺邑を見て男が顔をしかめた。
「なんで・・・?」
「お前を連れ戻すため。穂琥が『裏』に染まるのは嫌だからね」
穂琥は肩を落とした。
「いつ・・・から薪・・・?」
「綺邑と話しているときに乱入したときと、今だけ。後は本当に儒楠だよ」
背を向けて薪が言う。穂琥は視線を地面に落とした。
「穂琥がオレと離れたことで力がそがれてしまったのは魂石に由来する。詳しい事はまた後で説明するけど、とにかく今はしっかりと意識保って」
「カッハッハッハ!騙されたのかい?知らないけど。お嬢さん、こっちにおいで。そうすれば何も不安になることなんて・・」
「誑かすな!お前らの世界など、此方のものが交わるものではない」
男の声を遮って薪が怒鳴る。奴らの世界は『裏』・・・・・。
俗に世界とは主に三つに分断される。地、冥、天。『地』とはこの世界。今生きている世界で人間も動物も、そして眞匏祗も。この世界で生きている。『冥』とはあの世を指す。つまり死んだ後に行く世界。事と場合によっては綺邑に選別された後にいく世界。そして『天』。これはすなわち神々のいる世界。地と冥の境に存在する天の世界。主にこの三つ。しかしもっと細かく分断していけばさらにもっと多くの世界は存在する。
そしてこの地の世界を『表』と称しそれに対を成す『裏』の世界というものが存在する。よく影とも比喩されがちだが、影の世界と呼ばれるものが主に『冥』に値し、なくてはならない必要かつ重要な存在。しかしこの『裏』は違う。表の世界に仇成すもの、それが『裏』。
表を妬み消し去ろうと企む恐ろしい世界。妬み、傲慢、卑下。負の感情取り巻く裏の世界。一度足を踏み入れたら二度と表へは出ることのできない絶対不可侵の世界。そしてその門番を司るのが恐らくこの男なのだろう。裏の世界にして、唯一表へと足を踏み入れコンタクトをとることの出来る存在。