第百十一話 声と誘惑のこと
儒楠と綺邑がそんな内緒の話をするくらい親密になっていることがどこか意外な穂琥はソファに寝転び考え事をしていた。綺邑はあくまで薪との繋がりであってその他が介入する事は殆どないのではないかと思っていた。そして薪の存在。色々と自分には欠落するものが多すぎる。たった少しの変化にすら対応できないなんて最低だ。
―シャラン・・・・
「?鈴の・・・音?」
物思い耽っていた穂琥の耳に聞こえた小さな鈴の鳴る音。穂琥は耳を済ませる。そうして聞こえた声。
『困っているのかい?悩んでいるのかい?こっちへおいで、おいで』
纏わり着くようなねっとりとした声。聞きたくなくても自ずと耳に入ってくるようなその声に穂琥は首を振る。
「私は・・・ここにいるの・・・・・」
『そんなもの、誰が決めたの?自らを縛っているのではないのかい?さぁ、こっちへおいで。自分を制御することなく自由に、あるがままに・・・生きていけるよぉ?何も畏れることなんてない』
声が穂琥の耳を伝って頭を、心を揺らす。穂琥はそれにまともに答えを返す力を失っていた。
『自分の存在を主張できるよ?こっちへおいで・・・』
「存、在・・・?」
穂琥は惑う。徐々に視界が狭まっていく。意識が遠く、遠く・・・。
「穂琥!!」
名前を呼ばれてはっとした。ぼんやりとしていた頭がふっと現実世界へと舞い戻ってくる。奇妙な気配はしたうちの音だけを残してすっかり消え去った。その消え去った気配を追おうとしたがする事は出来なかった。
話をしていた薪と綺邑は穂琥のいる部屋から得体の知れない妙な気配を感じて慌ててそちらに駆けつけた。
―今のは・・・
綺邑は消えた残りの気配を感じながら顔をしかめた。
「おい。穂琥と話をする。席をはずせ」
「え?あ、わかった・・・」
綺邑にそういわれ薪は部屋を出る。穂琥にとっては恐らく儒楠、だろうが。
「お姉ちゃん・・・?」
「何があった」
綺邑に尋ねられ、穂琥は視線を落とした。不安が存在する穂琥の心。薪も儒楠も綺邑も。みんな自分という存在をしっかりと持ち、確立している。それが羨ましくも思えれば妬ましくも思う。そして何よりそう思う自分が恐ろしい。
「行きたいと思う場所に好きに行けばいい」
綺邑が突然そう言った。穂琥は驚いて綺邑の顔を見上げた。身長の問題もあるが綺邑は基本、地面より数センチ上に浮いている。よって身長分より上になる。だから穂琥からすれば大分顔が上になってしまう。それを悟ってかそうでないのか、綺邑はふっと地面に足をつけた。そして長く黒いローブの中から白い肌の手をすっと出して穂琥の頬に触れた。ひんやりと冷たい綺邑の手。
「一時の感情で左右されるな。お前は強い子だよ、しっかりしろ」
今までに聞いたことのないくらい穏やかで優しい声に穂琥は全身が熱くなるのを感じた。涙が零れそうになるのを堪えるような熱さ。
「さて、私は一旦帰る」
ふっと宙に羽浮き綺邑はその場から消えてしまった。恐らく力がそがれ始めている綺邑がこの世界に顕現していること自体が辛いことなのかもしれない。穂琥は自分の膝を抱え込んで小さく震えた。