九段レーシング②
話はクダンウイングがオークスを勝つ少し前の春まで遡る。
クダンムーンの第2仔が産まれたと聞き、俺は木場先生と陽菜ちゃん、仲町くんと葛西牧場を訪れていた。
母馬のそばにいる仔馬は元気そうだった。
瞳を見る。
初仔に続いて、第2仔も俺の基準ではB判定。
「思うようにはいきませんね」
「でも、まるっきり走らないわけじゃないんでしょ?十分じゃない?」
「種付け料や育成費を回収できるかというと難しそうですが」
仲町くんは現実的なところを見ている。
「うん。でも、それは最初からわかってたことだ。木場先生。この仔も預かっていただけますか?」
「もちろんです。ムーンの仔を断る理由なんてありませんよ」
今年の配合相手には、安田記念と香港カップを勝ったクラスナインを選んだ。
ところが、何度種付けしても受胎しなかった。
結局、この年のクダンムーンは空胎となった。
「そういう年もありますよ」
葛西さんに言われ、俺も頷く。
「仕方ないですね。また、来年の相手を考えましょう」
◇◇◇
クダンウイングがオークスを制し、季節は夏。
俺たちはジュライセールに参加していた。
いつものように木場先生や彩夏さんと個別馬房を回っていると、彩夏さんが声を潜めた。
「社長、さっきから後ろにいる人、気づいてます?」
「後ろ?」
振り返ると、少し離れたところに見覚えのない男がいる。
「偶然じゃないですか?」
「だったらいいんですけど」
下見を続ける。
購入候補に残した馬の馬房を訪ね、馬体を確認したり、関係者に話を聞いたりして次へ移る。
しばらくすると、さっきの男がその馬を念入りに見始めた。
別の馬でも同じだった。
「……ついてきてるね」
「ですよね」
嫌な予感がした。
セリが始まると、案の定だった。
俺が手を上げる。
別の場所からも手が上がる。
また上げる。
また誰かが上げる。
「またか……」
以前なら1000万円台で収まりそうな馬のはずなのに、どんどん値段が上がっていく。
年間予算は決まっている。いくら欲しくても、どこまでも付き合うわけにはいかない。
俺たちは次々とセリを降りた。
結局、購入頭数は0。なんてことだ。
「絶対、社長が手を上げたから値段が上がってますよ」
彩夏さんはご立腹だった。
「そんなことあります?」
「あるでしょう」
木場先生まで頷いた。
「九段レーシングの購入馬がよく走ることは、もう知られています。オーナーがどの馬を見ているか、気にする人が出ても不思議ではありません」
こんなことになるとは思っていなかった。
次のオーガストセールでは対策を取った。
下見する馬を増やし、本命をわかりにくくする。実際のセリも俺ではなく、代理人に任せる。
結果は上々だった。
購入候補に残った2頭を、どちらも予算内で落札できた。
できればもう1頭欲しかったが、数を合わせるためだけに買うつもりはなかった。
◇◇◇
それでも、今年はクダンウイングがオークスを勝っている。
悪くない1年だ。
そう思っていた9月、木場先生から連絡が入った。
そのクダンウイングが調教中に、右前浅屈腱炎を発症した。
幸い損傷は小さく、屈腱炎としては軽症だった。
美浦を訪れると、木場先生が深く頭を下げた。
「オーナー、本当に申し訳ありません」
「顔を上げてください。生き物を扱う以上、こういうことだってあります。以前、そうおっしゃってくれたのは先生です」
木場先生が顔を上げる。
「調教内容に無理がなかったか、事前に兆候に気づけなかったか、改めて確認します」
「お願いします。それと、検査結果と今後の治療方針についても詳しく教えてください」
木場先生の見立てでは、時間をかけて治療すれば復帰を目指せる。獣医も同じ見解だった。
陽菜ちゃんは少し離れたところで俯いていた。
「私が何か見落としてたのかな」
「クダンマックスのとき、誰より先に異変に気づいたのは陽菜ちゃんだろ」
「でも今回は気づけなかった」
「陽菜ちゃんが気づけなかったなら、少なくとも俺は仕方なかったと思えるよ」
そのまま2人でクダンウイングの馬房へ向かった。
右前脚には圧迫包帯が巻かれている。
クダンウイングは元気を持て余しているのか、馬房の中で落ち着かない。
「こら。大人しくしてなさい」
陽菜ちゃんになだめられている。
俺はクダンウイングの瞳を見た。
クダンムーンの時とは違って、強い輝きが残っている。
でも、本当に復帰させる必要があるんだろうか。
クダンウイングはもうオークス馬だ。
このまま引退して、無理をせず繁殖牝馬として血を残すという道もある。
むしろ、その方がいいんじゃないか。
もう一度、クダンウイングを見る。
強い輝きとは別に、その目は妙に澄んで見えた。
しばらく、その目を見つめる。
まだやれる。そんな気がした。
「……復帰を目指そう」
隣で陽菜ちゃんが、うん、と頷いた。




