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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

悪魔の囁き

作者: 喜楽 一膳
掲載日:2026/06/17

誰しも魅力がありますし、その魅力に気がつきます。

その後が問題なのです。

 20年以上前から見守ってきた、私の一番大切な甥っ子が結婚することになった。兄貴づてに聞いた時には、驚きと喜びで胸が膨らみ破裂しそうになった。もちろん根掘り葉掘り聞くようなことはせず、元々自分がそういったことが大嫌いであったから我慢してきたが、いつの間にか彼女がいて、良い仲になり、婚姻に至ることを一切知らなかった。あれだけ私の後ろに着いてきた子供と、いつのまにか距離が開いて、いつのまにか報告し合う癖も無くなっていた。失恋をした時に失恋曲を聞くような感じで、愛をテーマにした歌や映画をあるだけ鑑賞してしまった。

 私には、妻や子がいない。独身のまま44歳を迎えている。そして、私は性体験を味わぬままでいる。一度もキスや愛を確かめ合うなどということをしてこなかった。有難いことに、それをキッカケとした性格の誤りや捻じれが起こることはなく、それを誰にも気づかれることなく過ごしてこれた。まぁ、自分がいつセックスをしたかなど言う必要もなく、どんな性癖かを開示する必要もない。頭の悪い連中が、頼りないトークスキルを補うための噂話として、私の童貞が利用されたくはない。全裸になって手淫するのが好きだが、それで十分性欲を抑えられるし、誰にも知られない秘密として守っている。そんな私と違って、甥っ子はやることやっているのだろうな。しかし、そうした想像が頭に浮かぶと、強烈に死にたくなってくる。命や血の匂いが強すぎるのだ。

 明日には、家族で集まって食事会をする。昔通いつめた店に、一族全員が集まるようだ。一族と言っても奥さんになる方と僕らだけで、10人もいない。大々的なパーティーではないし、家でやるにしても狭いし作るのも面倒だ。今はただ、数年ぶりに会う甥っ子がどれほど成長しているかを妄想し


「声色はそれほど変化していないだろうけど、背丈は超えられているだろうな。」


布団に入り、恋愛小説を読みながらしみじみと浸る。無に至る暗がりを誰しも抱えているが、そこに灯るのは希望だけ。今は、明日の再会だけが希望なのだ。


「もう、寝るか。おやすみなさい。」


私ぐらいの年頃であれば、誰かにかけるべきこの挨拶も、ただ消える明かりのようにどこか寂しい。そしていつものように、襲いかかる後悔と戦いながら、なんとか瞼を閉じて目を中央に寄せるのだ。


「帰りたい。」




 翌朝になっても起きる気配はない。食事会は夜の7時からなので、昼頃までぐっすりとしているつもりだ。硬直と緊張を極めた肉体を動かすには、若いころへの絶望しかない。あの頃はもっとできたのに、と故郷を憂う眼差しで肉体の奥にあるエネルギーを刺激する。今日という日は、這ってでも外に出なければならない。


「おじさんって何の仕事してるの?」

「まぁ、自営業とかね。」

「じゃあ自宅とかで仕事してるの?」

「そうそう。」


会話のシミュレーションをすることは中学生の頃からの癖であり、落ち着きを取り戻して永く経っても健在である。そうして結果が変わったり、うまくいったりということはあまりないが、自分を中心として会話のリードを取っているように妄想することが、好きなのかもしれない。齢44の男が掴む綱としては貧弱かもしれないが、この世と私という存在を繋いでいるのは、紛れもなくこの弱い綱なのである。もっとも、甥っ子の存在をより重要な綱として認識していたはずだが、いつのまにか見えなくなっていた。心のどこを探しても、甥っ子の影を手繰ることができず、微かに残る小さい頃の数秒を繰り返し見ているだけ。急激に成長していく背中はもう甥っ子のものではなく、一人の大人としての自覚を携えた成人男性のものである。二回りよりは離れていないが、いつまでも歳のせいにはできない。


「何を話すべきか。」


独身のおっさんができる説教と言えば、ギャンブルや酒はほどほどにしとけ、というぐらい。賭け事は大好きだが、酒は下戸でまったくの無縁である。ならば、人前でできる教えなど、私にはないのだ。以前まで足場を奪っていた荷物なりを処分し、生活に必要なものだけが部屋に置かれている。それまで窮屈にくらしていた私が、人生で初めて椅子を買い、部屋の真ん中で座っている。食事時になれば床に胡坐をかいて食べ、それ以外は椅子に座って時間を過ごしている。世に言うミニマリストと言えなくもない殺風景の中で、静かに本を読んでいるというのは、中学生の頃に憧れた成熟した大人に近い。しかし、椅子を手に入れた事情というのは、座りすぎによって痔を発症し、耐えがたい痛みを防ぐためである。穴の開いたクッションだけではうまくいかず、色褪せていく足を労わるためにも椅子が必要であったのだ。アパートの二階から見える景色は緑一色で、もう緑を見て落ち着く期間は過ぎている。ちょうど窓の隣にテレビがあって、暗く陰鬱に映し出される私の顔というのは、どの自画像よりも正確に描かれているだろう。

 太陽が頂上を過ぎて下山する頃、私の身支度も終わりを迎えていたので、5時間ほどの無を消費するために外に出る。首と肩の境目に悪魔が住んでいて、そいつが地獄が恋しくて手を伸ばそうとすると、私の顎が前にでしゃばり、額が地面に対して30度ぐらいに保とうとする。こうしてできあがった猫背は、猫とつくには申し訳ないほどに祟られた様子である。


「こういう時、背中をさすってくれると楽なんだよな。そういう話もしようかな。」


愛する母の手が恋しくなる。他とは特段差のない人間の手だけれども、触ってくれる人は母しかいない。肉体的な癒しよりも、精神的な癒しによって悪魔は払われていたのだ。しかし、手のぬくもりを忘れたころから、影に隠れていた顔のない悪魔が体にのしかかり、ぶら下がって挑発してくるのだ。


「もういいじゃないか、ここまでよくやったよ。お前はお前の人生を好きにやればいい。」

「それじゃいけないだろ。好きにしたら壊れてしまう。」

「じゃあ壊すなよ。そのままでいろ。そのままのお前でいいからさ。」


答えのないことばかりを自問自答し、まるで光を避けるようにして白線の内側と外側を行ったり来たりしている。そんな折、甥っ子の婚姻を聞いた時には、悪魔が休暇を取って外出してくれたのだ。だが、バカンスを終えた奴は、今日の朝帰ってきたようだった。


「甥っ子にかっこいい言葉かけてやらないとな。おじさんは人格者だった、て言ってもらうためにも。」

「別に死ぬ気はないけど。」

「嘘つけ、今日だけで何回心臓止めてんだよ。俺だけは知ってるぜ。」


恥だけはかきたくない人生だったので、立つ鳥跡を濁さずと言うように応援だけを口にしようと決めた。並木通りを通って駅方面に歩くと、繁華街がある。その通りを歩きながら仕事に出勤していた頃は、一番好きな時間だったかもしれない。光合成を拒否した体に、空気が溜まりすぎて破裂しそうな私というのは、電車の中で嘔吐を我慢しているようなもので、たぶん限界を迎えてしまったのだろう。

 そうした昔話を辿る小さな旅をしていると、時間というのはせっかちに過ぎてしまうのだ。頭の中心にあらゆる面倒くささが集まってくるようで、関節の軟骨がガチガチに固まって歩行拒否しているかのよう。首の後ろの毛が逆立って、両鼻の穴がヒクヒクと痙攣をしている。


「怖いなぁ。」


どう見ても落ち着きのないおじさんが、飲食店を右往左往して不審である。じっとりとした指先で扉に触れた時、先ほどまで聞こえなかった笑い声が聞こえる。どことなく、過去を記憶を呼び覚ますような力があった。


「もう盛り上がってる。」


ガラガラと簡単に開くドアに、心の準備を奪われてしまったが


「こっちこっち!」


涙が出てしまった。それを形容するにこの漢字があって良かったと思うほど、水が出てきたのだ。固まったままの私に見かねた兄貴が、笑いながら席を立ち近寄ってくる。まずい、もう何年も会話をしていない。どう切り出せばよいのか。一瞬で切り替わる映像を見るような感覚で、研ぎ澄まされすぎた感性の波が五感をめぐる。


「おい!俺の息子、大きくなっただろ。近くで見てやってくれ。」


大きな手と腕で肩を力強く抱きしめる。あまりにも力強いので喧嘩でもするのかと思うほど。


「兄貴、わかったって。力強すぎ。」


なぜか、面白いことが起きていないのに、全員が笑っている。たくましく成長した甥っ子も腹を抱えているのだ。


「なんだ、全然変わってないじゃん。」

「そうだよ、おじさんも全然だね。」

「なんだ、なんだ。」


それまでの物語が嘘のように、新しく人生が始まった。予感でも気がするでもなく、実際に生まれ変わったのだ。脳を入れ替えられたロボットのように、突然性格が変化して言葉遣いも変わった。あ、今ちゃんと会話ができている。しっかりと目を見て話を聞ける。数年ぶりの太陽を浴びて、全身全霊の光合成を再開した植物のごとく、たくさんの空気を口から発散している。不在であった心のありかを思い出し、胸に手当てて命の叫びを聞くことができる。まさに、甥っ子こそが人生なのだ。

 積りすぎる話を延々したと思う。お酒を飲めるようになったことに驚き、彼女との出会いや婚姻に至るまでの話は忘れてしまった。酔ってもいないのに顔が熱くなってのめりこんでいたようだ。後々、兄から送られてきた写真を見た時には、恥ずかしくて笑うに笑えなかった。まるで変っていない甥っ子の姿を見て、少しづつ自分が何者だったかを思い出してきた。よく二人だけで語り合ったものだ。


「おじさん、二人だけで話せる?」

「もちろん、少し外の空気にあたりに行くか。」


すっかり冷え込む夜になっていたが、その風情に浸る暇がなかった。これは、何か重大な事を告げる番が来たようだなと。とうとう自分にもその役目が来たか。焦る44歳を一人置いて、甥っ子は歩き出していく。


「おいおい、どうした。」

「愛ってなんだろね。」

「・・・浮気でも。」

「いや、それはないんだけどさ。こう、急に不安になって。」

「そりゃ誰でも不安になるよ。全員そう。お父さんやお母さんだってそうだったよ。」

「おじさんも?」

「俺は、俺は、、、まだその経験もないですから、わからないけどね。」

「・・・昔さ、僕が怪我して帰ってきたことあったじゃん。その時、ばれないように手当して隠してくれたのは覚えてる?」

「・・・・・・ああ。」

「下手だったよね。この人こういう経験ないんだって思ったよ。」

「ごめんね。」

「あの時、あの時さ、あのさ。」


言い出しにくそうに踏ん張っている姿より、背中のほうで微かに見える顔が気になった。どこかで見覚えのある顔。数時間前まで背中に憑いていた馴染みのある存在。やはり今は異様に肩が軽い。


「おじさん、僕のこと好きだったでしょ。」

「・・・・・。」

「僕、変なのかな。何もわからないんだ。」


もしも、隠し通せるのなら地獄の果てまで。しかし、人というのは目を持ち耳を持ち、絶えず喚く口を揃えてしまった。いかに仮面をつけて演じていたとしても、その下にあるのは欲深い利己心と成熟しきっていない色の匂いである。それは、溢れ出てしまうものだ。仮面をつけた役者が、どんな目をして観客を見ているのか。体の隅々にある汚れが、速まる心臓の鼓動と脈に乗せて集まってくる。それが、本当の自分を作り出すのに時間はかからなかった。この世に生きるためには、偽りの面をつけて舞うほかない。舞台に降ろす晴らされるべき恨みを汲んで、どうか静まりますように。


「人生は生きるものじゃない。生き残ってしまっただけなんだ。生き残ったからには、役目を果たさないといけない。」

「それが、理由なの?」

「愛よりも関係を大事にしなさい。結婚はこの世で一番大事な縁なんだよ。お前にはそれができる。やらなきゃいけないんだよ。」

「僕も、おじさんのこと好きだったよ。」

「・・・俺もだよ。人生で一番大事な宝なんだ。だから、お願いだから。」


私は甥っ子ではなく、醜い顔をした悪魔に語りかけている。ああなんて、醜い顔をしていたんだ。甥っ子の痛がる姿を見て笑っている私の顔だ。


「どうか、縁を繋いでいってくれ。私にはできない役目をどうかお願いします。」

「おじさん、子供もね作ろうと思ってるんだ。奥さんも僕も、それに親だって欲しいって言ってくれて。おじさんもうれしいかな。」

「それが愛だよ。愛を大切にしてほしい。愛が人をたくましくするんだ。」

「おじさんだって、小さい時いっぱい愛してくれたの覚えてるよ。今度は僕の番ってことだよね。」

「まずは奥さんに、それから子供に、そして両親に捧げて。愛を失えば、悪魔がやってくるぞ。」


それまでの空気を一転させるようにクスクスと笑い、我慢できなくなって噴き出してしまう甥っ子。その顔を見て、いつのまにか甥っ子に向けていた両手を下げる。


「はは、ふー。ずっと話したかったことが話せてよかった。そのために今日来たんだから。」

「それは良かったな。あの時の傷は。」

「ほら、もう痕にもならず。」


最後にあった時にはまだあった色も、すっかりと消え去って清らかな肌になっていた。それと同時に、それまで長い間抱いていた気持ちがプツンッ、と切れた音がした。


「大人になったな。」

「・・・当然だよ。」


もう小さな甥っ子はどこにもいない。私が良く知る大人の一人になってしまった。これで安心して眠りにつくことができるようだ。


「戻るか。いやー長いこと話せれたな。」

「まだ解決できてないことも残ってるんだから、気を抜かないでよ。」


たった今成熟した大人と、幼いころのように抱擁をし、背中をそっと撫でて成長を肌で実感した。もう心残りはない。




 家へ帰れば、セミの抜け殻のように空っぽで、そこにあったはずのものがきれいさっぱり無くなっている。気が変われば物の窮屈さも愛おしくなるようだ。私はそのまま明かりもつけずに、椅子を定位置に引きずる。これまで何回も予行練習してきたことを、この一回で決めるためである。どこからともなくやってきて、そのまま居座り続ける奴との決着をつけなければならない。答えは見つからないまま、かえってその方が美しいのやもしれん。

「お、とうとうか。」

「お前か。」

「ああ俺だよ。ちょっと出かけてたんだ、何か良いことでもあった?」

「やっとお前を見つけられたよ。」

「結構ハンサムだろ、人生のベストショットだぜ!それにしてもなんだよこの部屋、すぐ片づけられちまうじゃん。もっと時間をかけてだな、儀式を長引かせなきゃ駄目だ。」

「これは俺の心だよ。」

「空っぽ?何言ってんだよ、あんだけ色にまみれた妄想してて。あ!それとも罪悪感てやつか。人てのは罪を償うのが好きなんだろ?あのまま手にかけた方が楽だっただろうな。」

「・・・・。」

「わかったよ。邪魔して悪かった。でもお前のことを思って言ってるんだぜ。お前のことを一番理解しているのは俺。お前が一番悔いてることも。」


しばしの静寂を過ぎ、風で揺れる葉の音を耳だけで感じている。それはまるで川のせせらぎのようで、思えば川上から流れる枯れ葉のような人生であった。最後は海に出て、生命の源に帰る必要がある。葉がそうであるように。


「えらく丈夫な椅子だねぇ。」

「そのために買ったからな。」

「言い残す言葉はございますでしょうか。」

「・・・・・・。」

「俺から一つ。さっきいいこと言ってたよなあ。人生は生きるんじゃない、生き残ってしまったんだって。だけどよ、死ぬことが怖いってだけで案外生きてないぜ。あいつよりも長生きする、あいつを殺すまでは生きる、あいつが痛い目を見るまでは死ねないって躍起になってる奴もいてよ。恨みや憎しみも立派な生きる意味なんだぜ。だから悪魔は困らねえし、人間と仲良しなんだ。」


ギシギシと椅子が軋んでいる。甥っ子に出会えた喜びのあまり食べすぎてしまったようだ。


「ふー、、、。」


人生の決着は、バンジージャンプのように中々つかないものである。時間を稼ごうと思えばいくらでもできる状態だ。絶えず風に吹かれて不安定な足場に、この景色も見えなくもない。

「おい、応援してやろうか。」

「・・・・・。」

「あ、そうだ。お前のことを一番理解してるってのを証明してやろうか。長い付き合いのあなただから特別よ。」

「なにを。」

「お前、甥っ子とセックスしたかったんだろ。」

「死ね。」



それから1週間が経ち、簡単すぎる遺品整理を終えてしまって、感情の落としどころを探しあぐねていた。遺族の話では、見つかった時の顔は苦痛に悶えながらもどこか笑っているように見えて、お通夜の時も微かに笑っているように感じたという。長男の息子さんが第一発見者なのだが、苦痛に悶えるその顔にどこか見覚えがあった、らしい。


「」

最後に残るのは愛です。

その愛を誰かに届けてほしいのです。

言葉だけでも構いませんから。

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