物言わぬ君と愛した僕
昼休み。騒々しい廊下を東 隆一は不機嫌そうに歩いていた。嫌、不機嫌なのは何時もの事で、彼の眉間の皺が取れる時は常に一人の時だけだ。だが、この日はそれだけが原因ではなかった。
(頭が痛い……)
隆一の両親はお互いに浮気を繰り返しており碌に帰ってこない。たまに帰って来たかと思えば息子の生存確認と、面倒を見てくれている叔母への金の工面くらいだ。嫌、生存確認は恐らくついでで、家にある衣服やアクセサリーなどを取りに戻ってきているだけなのだろう。
そう思えるほど、両親は隆一に興味がなかった。
その叔母も金が貰えるだけで内心は隆一の事を疎ましく感じているのを知っていた。
(外面だけは良いんだよな。あのババア)
母や父がいる時は愛想のいい叔母だが、隆一が一人になると冷食を机の上に置くか、金をテーブルの上に置くだけで会話らしい会話は一切ない。
最近になっては掃除もサボり気味で何処かに遊びに行っているのだろう。そろそろ両親と同じようにいなくなるのも時間の問題だろう。
そう思う程度に叔母との関係は希薄なものになっていた。
いつからそうなったのかは分からないが――おそらく、隆一が叔母の本性に気づいてからだった気がする。
昔、まだ隆一が叔母に懐いていた頃、たまたま電話で話しているのを聞いてしまったのだ。叔母の本音を。自分を疎ましく感じ、金さえ貰えていなければさっさとここを出ていると。自由だった時間が全て育児に奪われ、遊びにも行けない。家にずっといるから出会いもない。それに比べあいつは一日中遊び回って綺麗にした服や家を汚して仕事を増やしていく。よく怪我をして泣いて帰ってくるのも鬱陶しい。
あいつさえいなければ――。そんな言葉が、幼い隆一の心に深く突き刺さっていた。
確かに幼いころの隆一は活発で良く服を汚したし、怪我もした。だがそれは子供にとっては日常茶飯事だ。子供の日常は何時だって冒険の連続で、そこから学ぶことも多いのだ。それなのに、叔母はそのすべてを否定した。
その時からだ。愛想のいい人間だからと言って、その本性は全く別のものだと。
それ以来、隆一は心を閉ざしてしまった。父に捨てられ、母に見捨てられた唯一の拠り所すら失った隆一は、残された本やアニメにのめり込んだ。
その時に読んだ絵本か、アニメか、詳細は忘れてしまったが、死んだお姫様が永遠に美しい姿のままで王子に愛されている内容だった。王子は常に幸せそうに、死んだお姫様のお世話をしていた。物語の中の王子も姫も幸せそうにしていた。死んだ人間ならば裏切らないし、裏も表も関係ない。子供心にそう考えてから、隆一の心は一転した。
(死人は良い。何も考えないし、何も喋らない。ただただ眠っているだけの存在だ。裏切ることもない)
今では遺体が永遠に美しいままだなんてあり得ない、という事は知っている。だがそれでも、幼いころに知ったその内容が、隆一に多大なる影響を与えていた。
「失礼します」
固い口調で声を掛けながら保健室の扉を開く。生憎と保険医は不在のようだ。これ幸いにと隆一は利用者名簿に名前を書き、一番手前の空いているベッドへと向かう。
(帰るころにはマシになってるといいんだが)
甘い期待を抱いたところで、保健室に涼しい風が吹いた。その風でカーテンが揺れ、奥で寝ている人間の顔が見える。
――それは女だった。真っ白な肌、唇は青白く、生気がない。骨だけのように細い四肢。
それでいて陶器のような肌に、艶のある長い髪。
隆一は初めて見たその女から、目を離せずにいた。閉じて開かない瞼に長いまつ毛、何故こんな所に理想の人間《遺体》がいるのだろう。そう思い、隆一の胸の鼓動は高鳴った。
恐る恐る、頬に触る。驚くほど冷たく、だが柔らかい。死んだら死後硬直が始まると聞いた事があるが、この人間《遺体》は死んだばかりなのだろうか。そんな考えが隆一の頭に過る。
だが、隆一の夢はここで冷めた。自分以外の体温に反応したのか、単純に眠りが浅かったのか、遺体だと思っていたその少女は静かに目を開いた。
(生きて……る?)
あんなにも冷たかったのに。こんなにも青白く、生気がないのに。
そう思った瞬間――隆一は落胆した。死んでいない人間は嫌いだ。この女も何を考えているか分からない『人間』になり下がってしまった。その時、隆一は本気でそう思った。
「あら、東君、どうしたの? 静香ちゃん、体調はどう? お母様お呼びする?」
気落ちしている隆一と、それを黙って不思議そうに心目静香が数拍、沈黙していると保険医が慌ただしく入ってきた。
「……いえ、怪我をしたので絆創膏を貰いに来ただけです。あと、窓が開いていたので」
面倒くさくなった隆一は、短時間で受けた衝撃の強さに頭痛も忘れ、適当に嘘を吐く。そうしながら窓を閉め「それじゃあ、教室に帰ります」とだけ伝え保険室を後にした。その際、ちらりと静香の方を見て、動きが止まる。
静香と呼ばれた少女は確かに生きていた。心臓は動いているだろうし、呼吸はしている筈だ。だが――その瞳に生気が見当たらなかった。まるで死んだ祖父を思い出す。――祖父も、自分を見ると険しい顔をして歓迎していなかったように思う。穏やかな顔を見たのはやはり、死んだ時だけだった。
それを思い出し、やはり死んだ人間の方が生きた人間に比べることなく素晴らしいと再認識する。――生きた人間なんて、腐った臓物よりも醜いものだ。
それから数日後、隆一は再び保健室に向かっていた。授業中、彫刻刀で誤って手を刺してしまい、思った以上に血が出てしまったのだ。教師から保健室に行くように指示を受けた隆一は黙々と保健室に向かっていた。
「失礼します」
手の傷は思ったより深く、数日は包帯が必要だと言われてしまった。これを叔母に言えば表面上は心配そうにしつつも、面倒くさがるだろう。そう思い、隆一は必要がなくなるまで保健室から拝借することを心に決める。どうせこの保険医はいないことの方が多いのだから、気づかれることは無いだろう。
手当てを受けながらそう算段していると、奥のカーテンが揺れる。カーテンの隙間から棒のように細い足が上履きの中に吸い込まれていく。
その光景に、隆一は思わずそちらを凝視した。生きている。生きている人間なのだ。それは知っている。だがあの死人のような顔、死人のような体系、そして――生きることを諦めた、死人のような瞳を思い出して、隆一は思わず期待する。
ゆっくりと、カーテンが開かれる。異様なまでに遅く開かれたカーテンの奥には、隆一が無意識に期待していた静香がゆらゆらと揺れながら立っていた。
「あらあら、静香ちゃん。急に立ったら危ないわよ。ほら、ベッドに座って。今お母様に連絡してあげるから、ここにいるのよ?」
静香の出現に保険医は隆一の事を放置して慌てて保健室から出て行った。それを見送った隆一は中途半端にされた包帯を巻いていく。
包帯を巻きながら、隆一は静香を観察していた。伏せられた目、生気のない頬。目を瞑って横たわっていれば確実に死人に見えるだろう静香の瞳が、ふいに隆一に向けられる。
不覚にも、ドキリとした。死人のように光のないその目に、隆一は謎の圧力を感じた。今にも死にそうなのに怪我をしただけの隆一よりも強いその存在感に、息を忘れる。
「……」
静香は口を開き、静かに閉じる。そして顔を背けるとゆっくりと喉を抑えた。
「……喉でも痛いのか?」
隆一にも寝起きに喉が渇きすぎて痛みを感じた経験はある。それを察し、隆一は無断で常備されているミネラルウォーターを静香に手渡した。
「……と」
礼を言ったつもりなのだろうか。小さすぎる声の後、静香はキャップを開けようと力を籠める。
「……」
「……」
何の冗談だろうか。隆一は初め本気でそう思った。だが、その細すぎる腕を見て本気なのかと溜息を吐きながらペットボトルを取り上げる。
キャップを回し、蓋を開けた状態のペットボトルを再度手渡せば、静香は恥ずかしそうに両手で受け取り俯いた。そしてその小さな口でこくり、こくりと水を飲みだす。
「けほっ」
慌てて飲んだのだろうか。随分慎重に飲んでいたように思えたが、苦しそうな静香に対し、隆一は戸惑ったように背中を摩った。そしてふと、風邪をひいて苦しかった時、誰かに背中を擦ってもらった記憶が朧げに思い出したが、気のせいだと被りを振った。
幾分かマシになったのだろう、ほっとしたような溜息を吐いた静香に隆一は目を細める。
(叔母も叔母だが、こいつもこいつだな)
やはり生きている人間は何を考えているか分からない。現に水を飲み終わった静香は黙って隆一を見上げているのだ。折角背中を擦ってやったのだから、礼くらい言ったらどうだと言いかけたが、面倒になって口を閉じる。生きている人間に何を言ったところでどうしようもない。短い人生の中で、隆一が考え付いた答えの一つだ。
「……な、まえ」
こいつを見ているのは良いが、面倒ごとはごめんだ。そう結論付けた隆一は手早く保健室を去ろうと足を動かす。それと同時にか細い声が聞こえてくる。
「あず、ま、くん?」
あまり流暢ではない言葉は隆一の名前を確かめる物で、普段なら無視して当然の声を――隆一は口を開いて答えた。
「苗字は嫌いなんだ。今度呼ぶなら隆一と呼んでくれ」
あの汚らわしい両親と同じ苗字。叔母も父方の人間で独身の為苗字も同じだ。まるで呪われた苗字だ、と隆一は自嘲して今度こそ保健室を去った。
それから隆一は包帯を取り替える度に保健室で静香と出会った。時には死んだように眠っていたし、ベッドに腰かけていたこともある。目を開いていてもベッドに横たわっていた時だってあった。
ある日は、珍しく窓の縁に座っていた。半場くったりとした様子だったが、その表情は珍しく穏やかで、黄色に変わり始めた木から落ちていく葉を楽しそうに眺めていた。
そんな表情は初めて見て、思わず魅入ってしまった。何時も無表情で人形のようだと思ったこともある静香がそんな表情をするなんて。そんな事を思いながら、隆一は高鳴る胸を無かったことにした。
「なにをしている。保険医から言われているだろう。あまり風に当たるな」
真夏も過ぎ、風も冷たくなっている。あまり体を冷やさないように保険医から言われていたことを思い出し声を掛ける。すると静香は体勢を変えないまま、静かに外を指を刺した。
「き、いろ」
「黄色? ああ、落ち葉の話か。下を見てみろ。茶色もあるし、木には緑の葉もまだ残ってる」
何ともなしに言えば「本当だ」と楽しそうに笑う静香は珍しく楽しそうで、本当は予定のなかった教科書を開き、予習を始める。だが風が吹くたび寒そうにする静香に集中が出来ず、隆一は静かに立ち上がる。
「?」
来ていたブレザーを静香に掛ける。ブレザーとは言ってもどうせ布の厚みはたかが知れている。それでもないよりはましだろう。
「あまり自分を痛めつけるな」
その言葉に不思議そうに首を傾げた静香は、大切そうにブレザーを被ると、再び外の風景を楽しみだした。
あれから数か月がたったが、二人の間に会話はなかった。だが時折お互いに視線が合い、見つめ合うことはある。それは無言の交流だった。静香は穏やかに目で問いかけ、隆一は鬱陶しそうに返す。それを見て、静香は穏やかに、楽しそうに無言で笑っていた。それに隆一は思わず目を逸らす。何の音もない会話。だがこれ以上にない程、穏やかな空気が流れていた。
「わたし、ね。もうす、ぐ、しぬの」
とある日。その日は曇天だった。静香との無言の交流がスムーズに進むようになった頃だ。そろそろ包帯ともお別れだな、と自己判断した隆一に、静香は唐突に話し始めた。その言葉に思わず隆一は反応する。
「げん、いん、わかんな、って。でも、もう、いきて、られな、い、て。せんせが」
原因不明の不治の病。それが彼女が死人のような原因だった。彼女は薄っすらと笑う。
「み、んな、ぞ、ん、び、って。わら、うの」
心底諦めたような、そう言われても仕方ないと諦めた声音に隆一は思わず顔を顰める。腹がふつふつと煮えたぎるような感覚に不思議に感じながら、思考を巡らせる。
こんな美しい少女がゾンビだと? 確かに静香は死人のようだ。だがゾンビはもっと醜い。百合のような真っ白な花が似合うだろう彼女に、その言葉は不適切だと、隆一は腹の熱が怒りだと気付いた。
「そんなこと言う奴は馬鹿だ。ゾンビに花が似合う訳がない」
思ったことを口走った後、沈黙が訪れる。隆一も、静香も続きを喋る事はなかった。
「……俺はもう帰る。具合が悪いなら無理せず寝ておけ。今度お前にお似合いの花を持ってきてやる」
それは気まぐれか、惚れた弱みか、隆一にも分からない。だがそう言って荒々しく扉を閉めた隆一は無駄に大きい足音を立てていたことを自覚し、立ち止まる。
「……なにが、ゾンビだ。ゾンビのように醜いのはお前達の方だろう」
食い合い、貪りつくす。群れを成して一人を徹底的に叩きのめす。それが人間の本性だ。ゾンビと何が違うと言うのだ。
そう思えば静香は何を考えているか分からないが喋らない分、まだましだと結論付ける。
「……花って、一日経っても枯れたりしないよな?」
無駄に約束してしまったことに隆一は一人零す。登校時間に開いている花屋なんて知らないし、放課後に一度花屋に行って戻ってくるなんて面倒なことはしたくない。なら今日の帰りにでも買って、明日渡してやればいい。その日の隆一は、そんな事を思っていた。
それから数週間が経った。静香は現れない。タイミングが悪いのか保険医にも出会うことが出来ず、折角買った百合の花は枯れてしまった。
「ちっ」
思わず舌打ちをする。と、担任が物々しい表情で歩いている姿を発見する。何時もなら互いに無視する関係だったが、担任は隆一を見つけると呼び止めた。
「……何か」
担任には嫌われても居ないが好かれても居ない。空気のような存在だと自覚している。実際隆一の名前を覚えるのが遅かったのを覚えている。そんな担任が何の用だ、と嫌そうに顔を歪める。
「お前、心目と交流があったらしいな?」
「心目?」
唐突に聞かれた質問に首を傾げる。心目、と言う人物について考えるが被りを振る。
「いえ、無いです」
「本当か? 心目静香。たまに保健室登校していたんだが、本当に心当りないか?
髪が腰まであって、黒色で……ちょっと体調が悪くて教室には出られなかったんだが」
静香。その言葉にそう言えばあの少女は保険医に静香ちゃんと呼ばれていたな、と思い出し「それがどうかしましたか?」と口を開く。
担任は複雑そうにした後、後頭部を掻くと、心底言いづらそうに口を開く。
「落ち着いてくれ、東。実は――」
隆一は、担任の言葉に駆け出していた。
朝は快晴だったと言うのに、隆一が走っている間に土砂降りになっていた。どこに向かっているかも分からない。それでも動かずにいられなかった。
「東! そっちじゃねぇぞ!」
途中、車で追いかけてきたのだろう担任の声でようやく足を止める。体は嫌なほど冷えているのに、中が煮えたぎるように熱い。まるでマグマのようだ。
いつか来ると思っていた。それを願っていた。その日が遂に来たのだ。動かずにいられない。
「連れて行ってやるから乗れ。静香の家の場所も知らねぇだろ」
後部座席を指さした担任の言葉にようやく足を動かした隆一は濡れたまま後部座席に乗り込む。
担任は助手席に置いていたのだろうタオルを放り投げると「頭くらいは拭いておけー。風邪ひくぞ」と気遣いの言葉を掛けた。
雨の音と、車の走る音、時折曲がる際に聞こえるウィンカーの音。それら全てを、隆一はフィルター越しに聞こえているよな感覚に陥っていた。
『私、もうすぐ死ぬの』
『ゾンビって、笑われたの』
彼女から聞かされた言葉はどれも悲し気で。彼女は最後までそれを抱えていたのだろうか。――そう思ったと同時に、楽しそうに外を眺めていた彼女も思い出す。あの時の静香は何を考えていたのだろう。
(馬鹿か。生きている人間の事を考えたって無駄だ。それよりも早く――)
車で走っているにも関わずノロノロと一生つかないような感覚に陥る。急いているのが伝わったのか「落ち着け、もう少しでつくから」と名前も覚えていない担任に窘められた。
静香の家に辿り着くと、黒衣装の大人たちが集まっていた。小さい一軒家だったが、思った以上の人が集まっているようだ。皆一様にハンカチを濡らしている。
「あ、おい! 東!」
車を近くのコインパーキングに止めた担任を待たずに、隆一は走り出す。鼓動の速さは期待の表れだと確信していた。
心目静香が、死んだ。遂に、理想の姿になった。
隆一の心は現実とは違い晴れ渡り、体は軽かった。一応の礼儀として家に入る前に友人だと告げ、挨拶をして中に入る。
彼女は眠っていた。初めて見た時と同じように。違うのはそこが保健室のベッドか棺桶の中か程度だ。
彼女はキリスト教だったのだろう。互いに自分の事を離さないが故に、そんなことも今初めて知った隆一は、静かに彼女に近づいていく。
自分が似合う、と断言した百合の花に囲まれた静香は昔読んだお姫様のようだった。美しく、儚く、尊い。
なんて素敵な姿なんだ、と鼓動がまた早くなる。もっと近づきたくて足を動かすと「君が、隆一君かい?」と声を掛けられた。
少しでも彼女に近づきたいのに、邪魔をされた隆一は半場睨むようにして振り返る。そこにはやつれ切った――おそらく見た目よりも若いだろう男性が、一冊のノートを手に立っていた。
「来てくれてありがとう。静香も喜んでいるよ。……静香は小学校までは元気だったんだけどね、中学に入った途端、急に病に侵されてしまって……」
どうでもいい身内話か、と隆一はうんざりする。それで同情して欲しいのであれば担任にでも言えばいいものを、と考えていたところで、持っていた本のような分厚いノートを手渡される。
「これは、静香が書いていた日記だ。これは、君に持っていて欲しいんだ。……静香に優しくしてくれて、本当にありがとう」
目尻に涙をにじませながら、頭を下げた男性は半場押し付けるように隆一にノートを手渡して消えてしまった。隆一は手渡されたノートを見て、横たわる静香を見る。
(生きてる人間は嫌いだ。裏で何を考えているか分からない。それはこいつだって――)
同じだ。同じなんだ。そう言い聞かせつつも、隆一はノートを開いた。
最初は、自分が死ぬ恐怖から始まっていた。死にたくない、生きたい、また元気に走り回りたい。希望を捨てられない静香の葛藤。それから友人にゾンビだと言われショックを受けたこと、それを真似してクラスメイトにも揶揄われたこと。
またゾンビだ死人だと言われるのが怖くて、教室にも行けなくなった事、それでも学校に行きたくて、無理を言って保健室登校をしていたこと。――隆一に出会ったこと。
不思議な人だと思った。自分をじっと見つめて何も言わない。でもきっと、彼もゾンビだと思っているんだろうな。そんな事が書かれていた。
だが、隆一が水を手渡してくれたこと。蓋が開けられなかった私に対して、呆れながらもふたを開けて水を飲ませてくれたこと。
水を飲んでむせたら、背中を無言で摩ってくれたこと。初対面なのになぜ優しくしてくれたのか、疑問に思ったこと。
度々保健室に来ては無言でいながらも気遣ってくれていたこと、その空間が居心地よかったこと。――灰色になっていた世界が、色づいてきたこと。
生きていることを諦めて、世界に色が無くなっていたのに彼が来てから、色がまた分かるようになったこと。
それが嬉しくて窓から外を眺めていたら、隆一がブレザーを掛けてくれたこと。彼の温もりが温かくて、嬉しくて。思わず握りしめてしまったこと。
それを彼にバレるのが恥ずかしくて、寒いふりをしたこと。
彼と目が合うたび、嬉しくなった事。怪訝そうにした彼が、照れたようにそっぽを向いて不覚にも可愛く思ったこと。目が合うたびキラキラと世界が輝いて、どんな風景も綺麗に見えたこと。
聞き取りづらい筈の自分の言葉を、最後まで聞いてくれたこと。ゾンビだと言われたと言ったら怒ってくれたこと。花が似合うと言ってくれたこと。嬉しかった事。
どんな花を持ってきてくれるのだろう。明日が楽しみなのは彼のお陰だ。
そこから暫く、白紙が続いていた。日記を書く力すら無くなったのだろう。パラパラとページを捲ると、最後のページには『りゅういちくん、ありがとう。だいすきです』と書かれていた。
弱弱しい字だった。ミミズがのたくったような字だった。それでも、その言葉が隆一の心に刺さった。
静かにノートを閉じる。目を閉じ、渦巻く感情を抑えようとして、失敗した。
感情のままに棺桶に近づき、あの時と同じように静香の頬に触れる。もう起きることは無い。それは知っている。それでも願った。あの時は心底がっかりしたが、今はその奇跡を祈った。
(ああ、思い出した)
死体を大事にしていた王子。あの物語の本当の結末は違ったのだ。お姫様の死を悲しんでくれた王子が姫にキスをして、その愛によってお姫様は生き返り、王子と共に幸せに暮らしたのだ。そう。お姫様は死んだままではなかった。
静香は眠ったまま。心臓も動いていない。呼吸さえしていない。起きることは無い。分かり切った事実だ。
「人間は嫌いだよ。何を考えてるか分からないし、平気で裏切る。でも」
声が震える。喉が痛い。ああ、どうか神様。一度でいい、一度でいいから。
奇蹟を起こしてくれ。そう願いながら静香に口づけを落とした。生れてはじめてのキスはとても悲しい味がした。
「お前とは、もう少し一緒に居たかったよ」
現実は物語とは違う。子供ではなくなった隆一はちゃんと理解している。それを受け入れられる心の準備もしていた。動かない静香を見つめながら、ノートを握りしめた。




