第一話 寿命口座と余命マイナスの王女④
砦の上から見下ろす谷は、まさしく地獄だった。
灰色の毛皮に覆われた魔物たちが、歯を剥いて門へ殺到している。
ところどころに、岩のような皮膚を持つ大型の個体が混じっている。
兵士たちが弓矢を放ち、魔法の光が炸裂し、叫び声と咆哮が交錯する。
そんな中で、ひときわ目立つ存在がいた。
白銀の鎧。
胸元に金色の紋章を刻んだプレート。
腰まで届く金髪を高い位置でまとめたポニーテールが、陽光を跳ね返す。
彼女は砦の上から谷を見下ろしていた。
胸元のプレートを、指先でコン、と弾く。
「んー……やっぱり今日もきつい。
これ以上育ったらマジで鎧作り直しなんだけど」
ぽろっとこぼれたのは、戦場らしからぬ愚痴だった。
「で、殿下! こんな時に何を!」
近くの兵士が慌てて声を上げる。
「だってさー。借金スタートの余命マイナス王女に、この重さは罰ゲームでしょ?
どうせ減る分は働いたもん勝ち。だったら一番固い鎧が前に出るのが筋じゃない?」
「ほら、“マイナス分くらいは役に立て”って顔してるでしょ、みんな」
彼女は、肩をすくめて笑った。
俺は、その頭上に浮かぶ数字を凝視する。
──《対象:リシア・ヴェイルハート》
──《寿命残高 マイナス三四・〇年》
「……は?」
思わず声が漏れた。
マイナス。
寿命がマイナスなんて、あり得るのか。
普通ならゼロで終わりだ。
ゼロからさらに下に行くって、どういう状態だよ。
近くの兵士の頭上の数字は、九年とか十一年とか、普通の範囲に収まっている。
その中で、彼女の数字だけが、真っ赤に逆立って見えた。
「そこ、下がってて!」
リシアと呼ばれた少女が、こちらを振り返った。
碧い瞳が、まっすぐに俺を射抜く。
「ここから先は危ないから、新顔は砦の内側に」
「し、新顔?」
「今朝、荷馬車と一緒に運ばれてきたって話、砦じゅうにもう回ってるよ。
……って、そんな顔しないの。あたし、噂話の回り方だけは早いんだよね」
戦場なのに、テンポだけは軽い。
けれど、その身体は迷いなく前に向いている。
(コイツ、余命マイナス三十四年で、このテンションかよ……)
頭の中で誰かが呟いた。
さっき医務室で感じた「働かされる未来」の嫌悪感と、
今、目の前で命を削ってでも守ろうとしている姿が、変な風に重なる。
「で、殿下自ら前に出られるなど!」
別の兵士が焦った声を上げる。
「今日は大型も混じってる。ここ抜かれたら、中にいる人たちがアウトなんでしょ?
だったら、あたしが前に出た方が早いじゃん」
そう言って、リシアは剣を抜いた。
刃に、淡い金色の光が宿る。
俺の視界の端で、彼女の頭上の数字が小さく揺れた。
──マイナス三四・〇年 → マイナス三四・一年。
(動くだけで減ってる……?)
嫌な予感が、背骨を這い上がる。
リシアは胸元のプレートをトン、と叩き、笑った。
「よし、行こっか」
誰にともなくそう呟いて、砦の上から身を躍らせる。
白銀の鎧が、灰色の群れの中へ飛び込んでいく。
剣が光の線を引き、魔物たちをまとめて薙ぎ払う。
砦の上から、歓声が上がった。
「さすが殿下!」
「やっぱりお姫様は別格だ!」
兵士たちの頭上の数字が、小刻みに削れていく。
──一一・一年 → 一一・〇年。
──九・八年 → 九・七年。
その中で、リシアの数字だけが、異常な速度で増えていく(マイナス方向に)。
──マイナス三四・一年。
──マイナス三四・二年。
──マイナス三四・三年。
肩口の鎧が割れ、血が飛ぶ。
それでも彼女は一歩も引かない。
(……このまま行ったら、どこまでマイナスになるんだ)
頭がおかしくなりそうな問いが浮かぶ。
ゼロから下なんて、本来あり得ない。
でもこの世界は、俺が知ってるルールから大きく外れている。
青いウィンドウが、視界の中央に割り込んできた。
──《寿命口座システム》
──《残高 五・〇〇年》
──《周辺個体への再配分が可能です》
──《再配分先を選択してください》
リストの一番上に、赤い名前があった。
──《対象:リシア・ヴェイルハート》
(……やめとけ)
頭のどこかが、冷静にブレーキを踏む。
これは二周目の人生だ。
二十四歳で過労死して、やっと手に入れた「やり直し」の五年。
ここで見知らぬ王女のために使う理由なんて、どこにもない。
(また同じだ。
自分を削って、誰かのために使って──結局、自分だけ損して終わる)
前の世界で、散々やった。
その結果が、あのオフィスでの倒れ方だ。
(……見なかったことにしろ)
そう思って、視線を落とす。
けれど、耳に飛び込んでくる悲鳴と、石壁に跳ねる血の音が、
「見なかったこと」にさせてくれなかった。
リシアが大型の魔物に弾き飛ばされ、膝をつく。
頭上の数字が、跳ねるように減る。
──マイナス三四・六年。
周囲の兵士が焦って叫ぶ。
「殿下!」
「後ろ!」
彼女は口元の血を拭って笑い、剣を握り直す。
「大丈夫! ほら、マイナススタートだし。
ちょっとくらい増えたって、まだ借金のうちでしょ!」
(お前、それは強がりって言うんだよ)
胸の奥で、何かがブチッと切れた。
俺は青いウィンドウを睨みつける。
──《再配分先:リシア・ヴェイルハート》
──《再配分量を指定してください》
(全部じゃない。五年全部なんて、そんな善人じゃない)
それでも、ここで目を逸らしたら一生後悔するのは分かっていた。
「……一年だけだ」
心の中でそう告げる。
──《再配分量 一・〇〇年》
──《実行しますか?》
「実行」
胸の奥が、一瞬だけ焼けたように熱くなった。
心臓をぎゅっと握られる感覚。
視界が揺れ、足元がふらつく。
──《寿命残高 五・〇〇年 → 四・〇〇年》
──《再配分完了》
同時に、戦場の真ん中で、リシアの身体がふわりと光を帯びた。
金色の光が濃くなり、剣の軌道が一段階速くなる。
さっきまでギリギリだった動きに、余裕が戻る。
頭上の赤い数字が、わずかに「マシ」な方向へ変化する。
──マイナス三四・六年 → マイナス三三・六年。
「……本当に、減った」
俺は石壁に手をついて、その数字を見つめる。
四年残った。
リシアは一年分、「マシ」になった。
それだけのことなのに、体感はやけに重い。




