俺は、幸せだった。
朝、ユージンが軽口を叩きながら学院に向かうのを見送った。
「サクラが喜ぶから」
そう言って“幸せの味”を買いに行ったあいつの背中を、
俺は少し羨ましいと思っていた。
会いに行きたい。
けれど、立場がそれを許さない。
――ただの婚約者として、王子として。
守ることしか許されていない。
全部捨てて、サクラだけを守ることが、できるなら…。
そんな子供じみたことなんて今更言えるわけない。甘い希望を思い浮かべた自分を自嘲する。
けれど、どこか胸の奥に、拭えないざらつきが残っていた。
――嫌な予感。
理由はない。ただ、昨日の夜からずっと胸が騒いでいた。
書類に目を通しながらも、何度もペンを止めては、彼女の顔が浮かぶ。
「おれが王子様なら、君はお姫様だね」
幼い頃に言ったあの言葉を、ふと、思い出す。
あの頃、サクラは世界でいちばん綺麗に笑ってくれた。
あの笑顔をもう一度見たくて、ずっとここまで来たのに。
「ダメだ。」
サクラに会いに行こう。
なぜかそうしなければいけない気がして、急いで学園に向かう。
***
学園につけば、どこか騒しい。
遠くから「人が落ちた!」「誰か!先生呼んでこい!」と怒声が聞こえた。
「何事…リリー嬢」
階段を駆け上がれば、踊り場に倒れ混むリリー嬢と真っ青なサクラ。
あわてて駆け寄り、治癒魔術を使うが、流れる血の量に俺だけでは到底間に合わなさそうだった。
「サクラ!お前の治癒魔術で応急措置は出来ないか!」
本来ならすぐにでもこの場から離してやりたいが、俺の魔力では足りない。
サクラははっとして、治癒魔術をかけ始めるが発動がしないようだ。
「お前は大事な妹を失う気か!」
思わずそう叫んだ瞬間、サクラは糸が切れたように顔を伏せると、そのまま詠唱を始めた。
「『時は遡り、翻る、螺旋の階段を登りて、過去・現在・未来への扉よ、開け』」
それは古代魔術。
莫大な力と引き換えに、願いを叶える。
そんな力を使えば、サクラでさえどうなるか…
「やめろ、サクラ!」
声を張るが、届かない。
サクラの唇は震えながら、別の詠唱を紡いでいた。
「『彼の者の痛みは我が痛み。彼の者の哀しみは我が哀しみ。乞い願わくば、彼の者の苦痛を我が身に移せ』」
詠唱が終わった瞬間、サクラは糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
「サクラ!」
その体を抱えた瞬間、凍りつくような冷たさが伝わる。
サクラの目は俺を見ていなかった。
遠く、誰か別の場所を見ていた。
「……ねぇ、シオン様?」
サクラがかすかに微笑む。
「今、私は幸せです。」
その言葉に、呼吸が止まる。
嘘だ。
そんな顔で、そんなに優しく言うな。
もう一度、呼ぼうとした。
けれど、声にならなかった。
サクラの体から力が抜け、俺の腕の中で崩れ落ちる。
真っ黒に潰れたケーキ箱が床に転がり、
白い床に甘い匂いだけが残った。
***
その夜、誰もが泣いていた。
俺だけが、泣けなかった。
泣くよりも先に、胸の奥の何かが静かに壊れていった。
――“幸せの味”。
サクラはそれを食べることなく、眠ったままだ。
触れた頬は冷たいのに、唇だけが、まだ微かに笑っていた。
「ずっとそばにいる」
あの日の誓いが、音もなく崩れ落ちる。
『シオン』の物語は、ここで区切りを迎えますが、
それでも、世界は続いていきます。
この物語が、
春を待つ小さな灯になっていたら幸いです。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。




