星々の行く先
およそ昼下がりといえる時間に、一人の少女は喫茶店で心地良い時間を過ごしていた。コーヒーの香りが鼻をくすぐり、暖房が冷えた身体を温かく包み込む。音楽プレイヤーは最初の曲に戻り、また一秒一秒を刻んでゆく。
そして穏やかな一幕は、最初から存在しなかったかのように消え失せた。
人々は慌てふためき、まるで水に押し流される砂のように、当惑し、悲鳴をあげながら必死に逃げていく。誰もいない喫茶店。明かりの消えた店内。けれど、少女の音楽プレイヤーは相変わらず音を奏でている。
人々と反対に、少女は羽織っていた上着を脱ぎ捨て、徐々に近づいてくる巨大な影を見据える。
「あたしの目の前で暴れるなんて、いい度胸ね……」
少女はこの世の理不尽に怒りを感じていると、いつの間にか接近していた影が目の前で丸太のように太い腕を薙ぎ払う。
砂埃が舞い、少女も木の葉と共に舞い上がる。しかし、その瞳は青く輝き、雷光を纏った拳を振り下ろす。
「さっさとぉ、ここから出ていきなさい!」
落雷が轟音を響かせ、黒焦げた地面から影が徐々に砕け散ってゆく。少女は荒くなった息が整った後、大きなため息をつき、小休止ぶりの通信回線を繋げた。
「マリア様、緊急の用件が…」
平坦な口調で、淡々と口にする電話相手に、マリアは落ち着かない様子で床を何度も叩く。
「そんなのわかってるわ! そんなことより、避難は順調?」
「はい、マリア様が倒した影で最後になります」
電話の相手が取り逃がすようなミスをすることはないだろうと、マリアは思いつつも、報告を聞くまで張っていた緊張を緩める。
「ねえ、あたしが執務室から抜け出したからって、わざとこっちに落としてきたってことはないよね?」
この街を守る責任者とはいえ、常に彼女がいなければならないほど切羽詰まるような状況に陥るとは思えないと、マリアは訝しげに質問する。
「わざわざ支部長の手を煩わせるようなことを、私がするとお思いですか?」
「質問を、質問で返さないでくれる? …もういいわ、こんなんじゃおちおち外にも出られない」
「はい、その方が賢明かと」
「うるさい!」
「それで、どうなってるの?」
「はい、現在は襲撃を仕掛けてきた影に対応するため、みなさん出払っております。その隙を突いて支部長のもとに偶然接近してきた影も、ちょうど支部長が片付けてくださったお陰で、街には壊滅的な被害も、死傷者もいません」
マリアは秘書から柔和な笑みで淡々と事後報告を確認し、背もたれを倒して、力強く伸びをした。
(全部あんたがやればいいじゃない)
マリアからすれば、彼女の秘書のほうが自体をうまく収めていると考える。責任のある立場に立ったのは、決して意図したものではなかった。ただ、度重なる偶然の不運の結果、収まりのいいところに嵌められただけ。もし今頃自由の身であれたのなら、どこかしらの僻地に旅をしていたはずだ、とは考えつつも、彼女が休憩の合間に用意してくれる洋菓子に自然と手が伸びては、その機を逃している。
(結局、今日もあと少しで終わる)
時計を見ると、針が次の日を超えようとしている。マリアにとって、この程度のことは大したことではない。ここにいればいつでも戦う責任を負わなければならない。そうでなくても、日々こなさなくてはならない書類、お偉いさんとの社交会など、楽しいことは何もない。
自宅への帰り道、夜空は地上で起こったことを気に留めず、その輝きを燦然と放つ。時折、マリアはあの星は手に届かない夢そのものではないかと考えてしまう。あの光は何千万年も前のもので、今そこにあるのかも分からない。ただ、彼女は頭上で輝いていることだけを知っている。
いつの間にか、マリアは昼の騒動が起きたところまで足を運んでいた。多少は片付いているが、それでも焦げた跡や砕けた石の破片が転がっている。
普段なら、家に多少の明かりや酔っ払いが千鳥足をしていても不思議ではない。しかし、今は閑散としていて、人気を感じることはできなかった。
(しばらくすれば…人は戻ってくる。それが荷物にせよ、思い入れにせよ、あたしたちは日常が尊いものだと知っているから)
家に着いた瞬間、衝動のままにベットに倒れて、今日のことを思い返す。
(喫茶店の代金は…明日払えばいいか。書類は……まだ貯まってる。明日も……抜け出せるかな………)
自然と重たくなった瞼、取り留めのない思考、明日のことを考えて憂鬱になりながら、眠気に身体を委ねた。
マリアは一般家庭から生まれた普通の女の子だった。大義を抱いたことはなく、特別な出会いをしたこともない。けれど、今まで続くと思ってた日常は、ある日の災害によって彼女からあらゆる幸福を奪っていった。身体はもう一般人のそれではなく、怪物に対抗できるものへと変わり、日常も怪物たちと戦う日々へと変わってしまった。
戦うために血を流し、血を流すために戦う。
彼女はそんな生活を続けるうちに、少し、人生に飽きてしまった。変わらない日々、守られていく日常。確かにそれで十分だと思う。
ただ、時々思うのだ。彼女にとっての日常は、誰かにとっての非日常であり、関心のないことだ。彼らにとっては、ただ生活を続けることが大事であって、怪物と戦うことは物語や遠く離れた人種がやることだと思っているかもしれない。
それで構わないとは思う。彼らにとっては、脅かされない明日が、大事なものだと彼女は知っているから。
(じゃあ、あたしにとって大事なものは何?)
あたしは生きるためなら迷いなく死へと向かう。そんな日々が今まで続いて、そんな理由から今でも先に進まない。
誰かが身体を揺すり、マリアは小さなうめき声をあげて目を覚ました。
「だ、誰よ?」
うっすらと目を開けると、ベージュ髪の女の子がマリアの方を掴む。
「ちょっと、マリア! 私たちが返ってくる前に寝るってどういうこと?」
「あー、あなたね。別にいいでしょ…それより報告書」
「そ、それは今聞かなくたっていいでしょ!」
「すみません、お疲れてましたでしょう。止めたんですが言うことを聞かなくて」
紺色の髪をした少女が強引にベージュの女の子を引き離し、申し訳なさそうに謝罪した。
「ちょっと、それだと私だけが悪いみたいじゃない」
「明日でもいいんじゃないかと、あなたを一度止めたときに言いましたが」
「そこら辺でいいんじゃない? 二人とも、それと支部長。秘書さんが食卓で食事を用意できたから、早く行きましょう」
黒髪の少女が二人の間に入り、その優しそうな表情で場を静めた。
「あれ? 今日は何かの祭日だったの?」
「支部長……忘れたんですか?」
「まあ、こういうことに頓着しなさそうですからね」
ベージュの女の子がマリアの手を引き、食卓まで連れていく。その後を追って、二人もついて行く。
「今日はあんたの誕生日なんだから、忘れちゃだめでしょ?」
「あなたたち……」
「ほら、今日の主役が一日を寝過ごしちゃだめだよ。楽しまないと!」
マリアは背中を押されて、促されるままに誕生日席に座った。そこには飾り付けられたテーブルの上にいくつも料理が豪華に盛り付けられ、壁には『誕生日おめでとう!』の文字が書かれていた。
「これがあたしたちの気持ちだよ。泣いて感謝してくれてもいいんだからね」
「いつも私たちのために尽力してくださるマリアさんへのお礼ですから、遠慮せず、受け取ってください」
「支部長、いつもお疲れ様です」
「みんな……」
なぜか、涙がとめどなく溢れてきた。ただ、この瞬間が幸せだと感じるから。
「本当に、ありがとね……」
暗闇の中で小さな明かりが浮かび上がる。そして、今日という日を終えると、また瞬く間に消えてしまう。ただ、その日に切り取られた景色の一部は彼女の机の上でかけがえのない輝きを放っている。




