虐げられた庶子の私が現状の不満をぶつけたら父は○○、王太子は求婚者になった【GC短い小説大賞用】
※GCN文庫1周年記念『短い小説大賞』に応募するため、連載形式だったものを短編に編集しなおしたお話です。
連載版(N8389HL)とは若干の変更点があります。句読点の変更、細かい描写など加筆修正し読みやすさを心がけました。大筋の変更はありません。
◇ プロローグ ◇
深夜、男は刀を振るう。
憎い相手をその愛刀で屠り去る。
目頭が熱いのは泣いているせいだろうか。
――愛している愛している愛している……のに。
男の想いは届かなかった。否、理解されなかった。なぜ、こうまで彼の周りには愚か者ばかりが集ったのだろう。
こんな者たちを野放しにしたせいで、男がもっとも大切にしなければならなかった花が――オーロラが――汚された。
全ては己の愚かさが招いた報い。
ならば、
――後始末は己の手で。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1.ジベティヌス公爵一家、殺人事件
ドゥリオ・ジベティヌス公爵一家、ほぼ全員皆殺し。
それは一大センセーショナルな事件だった。
ある初夏の朝、公爵家の執事が当主夫妻、長男、長女、次女、計五名の変わり果てた姿を発見した。夫人とふたりの娘は談話室で刺殺され、長男は自室で滅多刺し。当主は二階のバルコニーから首を吊った姿で発見された。
生き残ったのは十五歳の三女だけ。
凶器は発見されていない。
事件が大々的に取り沙汰された理由は、公爵家の長女がこの国の王太子殿下の婚約者だったからだ。それも事件前夜の夜会で、婚約者はジベティヌス公爵家が長女ヴィクトリア嬢であると公式発表されたばかり。
発表された翌日に、その彼女を含む一家ほぼ全員が殺害された。
事件の詳細を捜査する為に王立騎士団が動き、上流階級はもとより、市井でもこの事件は話題に登った。
犯人は誰だ。
我がエイーア国、筆頭公爵家の権勢を妬んだ者か。
王太子の婚約者という地位を狙った家の者か。
はたまた、公爵家に仕える者の犯行か。
公爵家敷地内にはジベティヌス騎士団という、公爵家に仕える騎士団が存在する。その彼らの目を掻い潜っての犯行なのだ、内部犯に間違いない。
市井ではそんなふうに面白おかしく噂された。
事件現場は王都にあるジベティヌス公爵家邸宅。
王宮のすぐそばに位置するその場所で起こった陰惨な殺人事件に、エイーア国王太子テオドールは頭痛を堪えるような表情をした。彼は王立騎士団名誉総帥の任に就いていたので、最高責任者としてこの件の報告を受けていたのだ。
「まずは殿下。ヴィクトリア嬢のこと、お悔やみ申し上げます」
沈痛な面持ちで頭を下げる騎士団の副団長に、王太子は鷹揚に手を振った。
「よい――現場の状況は?」
「ジベティヌス騎士団が現場保存の鉄則を守ってくれたお陰で、おおよその捜査は済んでおります。
談話室にジベティヌス夫人、長女ヴィクトリア、次女グロリアの刺殺死体がありました。いずれも鋭利な刃物一振りで絶命した模様。長男アレクサンダーは自室のベッドの上で。彼の遺体は一番損傷が激しい状態で発見されました。頸部および手足の切断。胴体に複数個所の傷痕、特に局部を酷く損壊させられています……執拗な、恨みを晴らす目的でもあったような印象です。以上四名の刺し傷はどれも同じ刃物によるものだと推測されますが、凶器は未だ発見されておりません。
当主であるドゥリオ・ジベティヌス公爵閣下は自室の二階ベランダから首つり遺体で発見されました。彼が自殺なのか他殺なのか、未だ判断がつきませんが、彼の衣服が大量の返り血を浴びた状態だったので、恐らく……」
副団長であるジャン・ロベールはテオドール王太子の側近でアルフォード侯爵の次男だ。王太子よりも5歳ほど年上の彼は、側近である以前に王太子の幼馴染みでもある。
その彼が報告の言葉尻を濁したのは、捜査の結果ジベティヌス公爵一家を惨殺したのは公爵本人だと言外に伝えたかったからだ。
「凶器は発見されていないと言ったな」
「正確には『特定できない』です。公爵の自室にも該当しそうな長剣が何本か飾られていました。ですが、どれも血糊などついていませんでした」
「――公爵の遺書は?」
「いえ。捜索中ですが、そのようなものは無いかと」
王太子はしばし空を見つめ考え込んだ。
「……これは当主であるジベティヌス公爵の暴走。彼が妻子を殺害し自殺した、という線が濃厚だと私は思うのだが」
「……なぜかと、伺っても?」
ジャン・ロベールの冷静な碧眼が王太子を見つめる。
「公爵は軍務省の中でも有数の剣の使い手だったと聞いたことがある。独身の頃は戦場で何度も武勲をあげたかなりの腕前だったと……あとは……あぁ、君は昨夜の騒ぎを知らないのか」
テオドール王太子は、どさりと背もたれに体重をかけた。少し働きづめだったが、緊張の糸が途切れた。侍従に目配せしてお茶の支度をさせる。
「昨夜の騒ぎ? ……夜会で、ですか」
「あぁ。私の婚約者のお披露目の場でもあったのだが……」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その夜会は、正式にテオドール王太子殿下の婚約者となったジベティヌス公爵家長女のお披露目会を兼ねていた。昼に婚約式を行い、公爵令嬢は准王族として正式に認められた。
その栄えある宴の最中に、黒髪を見事に結い上げ深紅のバラで飾った淑女が同じく黒髪を結い上げた同年代の少女と共に、金髪の少女に赤ワインをかけ、彼女の白いドレスをわざと汚した。赤ワイン塗れになった少女を蔑みの目で見降ろし、彼女を悪し様に罵った。
「不義の子である貴女が、のこのこと王宮になど来るものではなくてよ。疾くと塒へお帰り」
「本当に。卑しい女の子どもが、この様な晴れがましい場に姿を見せるなど、我が公爵家を愚弄する気?」
あぁ、と。
その場に居合わせた誰しもが納得した。
あそこで虐げられている見事な金髪の少女は、有名な公爵家の三女であり、あの庶子か、と。
“あの有名な”踊り子の娘か、と。噂には聞いていたが、初めて見たと。
公爵家三女フローラの美しい容姿は人目を惹いた。
輝く金の髪は豊かに波打ち、烟るような睫毛の下の瞳は、夢見るような深い藍色。
白磁の肌に薄紅色の滑らかな頬。可憐で小振りの唇は控えめな紅が塗られ、より扇情的だった。
嫋やかな肢体とそれを裏切る豊かな胸。白く長い手足。
彼女を構成する全てが人々の、特に男の目を惹きつけ劣情を煽った。
それらすべて、三女の実母である踊り子から譲り受けたもの。
長女も次女も公爵夫人譲りの黒髪なので、一見しただけで彼女らが姉妹だと思う者は少ない。
その三女は、ふたりの異母姉から赤ワインをかけられるという辱めを受けていた。
型は流行遅れだが質の良い白いドレスに、ワインの赤が無情にも染み込んでいく。
無抵抗の三女の頭からグラスを傾けワインを零しているのは、この国の筆頭公爵家の令嬢。名をヴィクトリア。美しく結い上げられた黒髪を飾った紅い薔薇の生花は王家の象徴。その薔薇を飾る事を許された彼女は、この国の王太子の婚約者だった。
隣に並んだ妹、グロリアと共に赤ワイン塗れになった末の異母妹を蔑みの目で見降ろしていた。
誰も彼女たちの行動を止められなかった。
2.夜会での醜聞
「もとより!」
赤ワインに塗れながら、なお美しい金髪の下から向けられた瞳はきらきらと輝き、フローラの可憐な容姿を引き立てた。彼女の発する声さえも可憐で、耳に心地よい旋律を奏でる。
「もとより、この場はお義姉さまと王太子殿下の為の宴。わたくしはお義母さまに、おふたかたのための余興となるよう、舞を所望されこの場に参りました。ひとさし舞ったら失礼します」
この夜のパーティーは、公爵家の長女ヴィクトリアと王太子テオドールの為の宴。
誰もが祝いの言葉を今夜の主役に贈った。
デビュタントも果たしていない十五歳の三女は、最初から壁の花だった。
それを目ざとく見つけワザと悪目立ちさせたのは、ジベティヌス家の黒髪の姉妹だ。
良識ある者は眉を顰めた。何もそこまでしなくても、と。
だが、この場にいた大多数の人間は娯楽に飢え、刺激的な事件を求めていた。弱々しい立場の人間を一方的に貶める。それも可憐な美少女が虐げられ、格好の餌食にされる。
――はずだった。
「ですが」
金髪の美少女はその場にいる、全ての人間へと視線を向けた。思いのほか、強い視線で会場中を見渡す。まるで女王陛下が臣下を見渡すように。
堂々としたその態度に、誰もがみな息を呑んだ。
「不義の子、卑しい女の子と申しますが。
その『不義』を成したのはどこの何方なのか、問いたい。
わたくしは好き好んでここに生まれた訳では無い。
叶うなら生まれてきたくはなかった。
勝手に産ませておいて、勝手に卑しい女の子と蔑む。
まこと身勝手なのはどこかの殿方の方ではありませんか?
さて、その身勝手で不義を行ったのがどこの殿方なのか、皆様、ご存じですか?
ご存じの上で、わたくしを蔑んでいましたか?
わたくしを蔑むという行為は、同時にどこかの殿方の不義を追求し、蔑んでいるのと同義。
わたくし、確かに卑しい女の腹から生まれましたが、どこかの殿方の種が無ければ生まれませんでしたわ。
どこの種ですか?
お義姉さま。教えて下さいまし。
愚かにも、わたくしの母に劣情をもよおした身勝手で卑しい父親の名を」
その場は水を打ったように静まり返った。
流麗な声でもたらされた彼女の問いかけは、会場中の誰の耳にも届いた。
当然、目の前にいる異母姉妹にも。
だが、自分が一方的に蔑む相手だったはずの異母妹の予想外の反論に、拳を握って震えるばかりで言葉もない様子だった。
ヴィクトリアは当惑した。
まさか、いつも弱々しく俯くばかりだったこの異母妹が声をあげて反抗するとは。
事あるごとに虐げられ、公爵家長女と次女に踏み躙られるばかりの存在だったはずなのに。
今宵、ヴィクトリアは准王族として正式に認められた。ゆくゆくは国一番の女性となる。これからも確実にお前は見下される存在なのだと教え込むつもりだったのに。
ここでバカ正直に答えれば公爵家当主を公の場で侮辱することになる。
それも自分の父親を。
未来の王太子妃に、そんな選択はできない。
沈黙が答えだった。
「どなたさまも、わたくしの質問にお答えいただけませんのね……残念ですわ」
会場中をゆるりと睥睨したあとのフローラの呟きは、どこか揶揄うような響きだった。
彼女は異母姉からの返答など最初から望んでいなかったように、あっさりと踵を返した。
「では……舞います」
屈辱に震える異母姉にぽつりと告げたあと、彼女は靴を脱ぎ捨てた。広間の中央に出ると自然と人が避け、空間ができる。
間髪入れず高い飛翔を見せ、独特のリズムで足を踏み、舞を披露した。
それは、独特な舞だった。
パートナーを必要とせず、高尚でありながら煽情的。
抒情的でありながら好戦的。
白い裸足が刻む独特のステップは、会場にいるすべての耳目を惹きつけた。
白いドレスに飛び散った赤ワインの染みのせいで、まるで血を流しながら舞う鳥のようにも見えた。
それはこの国の踊りではなく、遠く東の国で見られる神に捧げる舞だったがその知識がなければわからない。
わからないが、誰もが初めて見るその舞に魅了され、声もなく見入っていたとき。
「オーロラ‼ オーロラ‼」
突然の男の叫び声に、フローラは足を止めた。
「おとう、さま……」
現れたのは血相を変えたドゥリオ・ジベティヌス公爵だった。彼はズカズカと広間中央に進むと、自分の娘を突き飛ばす勢いで押しのけ呆然と立つフローラに近づいた。
「あぁなんと、……こんなにもオーロラそっくりではないか……お前は……フローラ、か? こんなにそっくりに成長するとは……」
感極まったような声を出す公爵。
頬は紅潮し瞳を潤ませ、まっすぐに彼の三女フローラを見つめる。
両手を広げ一歩ずつ近寄る度に、フローラは一歩ずつ後ずさる。
「来ないでっ!」
三女は悲鳴のような声を上げた。公爵は足を止める。
「あなたは、誰、ですか?」
鈴を転がすような美しい声で、フローラは目の前に立つ男に尋ねた。
「何を言っているのだ? お前はフローラだろう? 私は父だよ、お前のお父様だよ」
笑顔を作りながら、だが意外な質問にショックを隠し切れない様子で公爵は狼狽える。
「いいえ。わたくしが昔、おとうさまと呼んだ人は……わたくしを慈しんでくださった方は……いません」
フローラは厳しい瞳を男に向けた。
「フローラ?」
「かあさまが死ぬ前、わたくしに言いました。自分は八年間愛されて幸せだったと。自分は病気で死んでしまうけど、お父様には自分の代わりにフローラを愛して下さいとお願いしたと。でも――」
フローラは自分で自分の身体を抱き締めた。まるで寒くて凍えてしまうから、その寒さから自分の身を守るように。
きっと彼女の感じた寒さは物理的なそれではなく、心の中に抱えた氷河なのだろう。誰もがそう感じた。
「かあさまが死んでからの、この八年間、わたくしにお父様なんていませんでしたっ」
それは悲鳴のような声だった。聴く者の耳にも彼女の慟哭が伝わった。
「わたくしは、いつも考えていました。いつか、お父様がわたくしに会いに来てくれる。この地獄のような生活から救ってくれる、わたくしを愛してると言ってくださる、と」
麗しい藍色の瞳からぽろぽろと涙が零れた。幾筋も零れるそれを拭うこともせず、フローラはまっすぐに目の前の男を睨みつける。
まるで、お前は敵だと言わんばかりに。
「地獄のような、生活?」
公爵は、意外なことを聞いたと呆然とした表情を浮かべた。
彼の背後にいた長女と次女は、お互い手を握ると一歩後ずさる。
「地獄……でしたわ。食べる物や寝る場所に困る事はありませんでしたが。人の心は、言葉によって殺されることが可能なのです。常に。常に蔑みの言葉が私の心を切り刻みました。目に見えず、一度聞けば消えてしまう言葉。それらによって私の心が傷を負い、その傷が蓄積されているなどと、誰にも気づかれはしませんでしたが」
強い決意を秘めた瞳でフローラはまっすぐに異母姉たちを睥睨した。
「公爵閣下。貴方の妻と子どもが、わたくしを地獄に追いやり殺しました」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
3.テオドール王太子、遅まきながらの恋
「夜会で、そんなことがあったのですか……」
話を聞き終えたジャン・ロベール副団長は己の顎を撫でた。
彼はちょうど騒ぎのあった時間帯、外園の警備を担当していたためジベティヌス公爵家姉妹が起こした醜聞を知らなかった。
夜会で起きた事件を語り終えたテオドール王太子は、紅茶で喉を潤わせた。重苦しい気分を吐き出すように溜息をつく。
「つまり。ジベティヌス公爵が三女フローラの告白を聞き激昂し、自分の妻子を殺したあと、その罪を悔いて自殺した。殿下はそうお考えなのですね」
「あぁ。外部犯だと思うより、よほど自然だ」
「確かに……ジベティヌス騎士団が護る邸に侵入して殺害を企てる輩がいた……なんて方が不自然ですよね」
「もしくは、そのジベティヌス騎士団の団員の中に犯人がいる?」
「――その場合、犯行の動機は?」
「残されたのが三女のフローラ嬢だ。彼女の身にジベティヌス公爵家の全てが継承される。彼女ともども欲しがる人間など、山ほど居よう」
「あぁ……それでしたら、親戚や家門の連中、それらが騎士団の人間を唆して犯行を企てた可能性もありますね」
そうだ。
ジベティヌス公爵家の莫大な財産、広大な領地、利権の数々、そのすべてをひとりの少女が継承することになるのだ。
あの美少女が!
「殿下?」
「いや、なんでもない。……屋敷内の使用人への聞き取り調査は?」
「現在調査続行中です」
部下から捜査状況を聞きながら、王太子は意識の片隅でフローラ・ジベティヌスの美しさを想起していた。
流れる金の髪。
躍動的な肢体。靴を脱いだ細い足首の白さ。
虐げられても、なお美しく輝く意思の強そうな藍色の瞳。
美しい容貌。
そして、自分の婚約者は死んだ。
ジベティヌス公爵家の令嬢が、王太子の婚約者だった。
その座を異母妹のものにしても、良いのではないか?
彼女は正式にジベティヌス公爵家の令嬢なのだから。
あの哀れな美少女を、己が保護するべきなのでは?
微かな期待と打算が脳内を過った。
「フローラ・ジベティヌス嬢は、今どこに?」
脳内妄想をおくびにも出さず、部下との会話を続ける。
「ひとり生き残った重要参考人なので、騎士団で保護しております……というか、ジベティヌス公爵家の執事補佐から保護を依頼されました」
「執事から?」
「御意。公爵家家門の親戚たちが押し寄せることが想定されるので、お嬢様の身の安全を保護して頂きたい、と」
ただひとり生き残った無力な少女。しかも公爵家の中では虐げられていたと聞く。あわよくばを企む親戚連中にいいように扱われるのは容易に想像がつく。
保護を申し入れたその執事は、フローラの数少ない味方なのだろう。
「なるほど……普通の貴族令嬢として丁重に扱っているか?」
「無論。我が王立騎士団第二師団は秩序と礼節を重んじております」
胸を張る副団長。彼は自分の仕事に誇りを持っている。
「彼女は公爵家ではどのように扱われていたのか、調査済みか?」
昨夜の彼女自身による告白では、衣食住には困らなかったようだが、心無いことばにより蔑まれていたようだ。
とても痛ましい。
「現在、屋敷内の使用人への聞き取り調査中ですので、今しばらくお時間をいただければ。纏め次第、ご報告申し上げます」
あの時、フローラは泣いていた。
泣きながら、けれどその美貌は少しも損なわれることなく父である公爵を睨み続けていた。
彼女の哀しみ、あるいは怒りに彩られた瞳は――とても、美しかった。
「話を聞きたい」
「こちらにお連れしますか?」
「いや、私が出向こう。案内せよ」
「殿下、もしかして……」
「なんだ」
「ヴィクトリア嬢の後釜にフローラ・ジベティヌス嬢を……などと目論んでいませんか?」
ときどきこの部下は聡い。そして幼馴染みである分遠慮がなく、歯に衣着せぬ発言をする。
だからこそ、重宝してはいるのだが。
「フローラ嬢の美貌に惑った、と」
ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべこちらを窺う幼馴染みが鬱陶しい。
「うるさい」
その時、ノック音に会話が中断された。
入室の許可を与えれば、ジベティヌス公爵家の専属管財人が面会を求めているという。フローラ嬢より先に彼に会うことにした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ジベティヌス公爵家の専属管財人を名乗った男は、年の頃は五十過ぎ。鋭利なナイフを連想させるやせ型の神経質そうな男だった。
「初めてご尊顔を拝する栄誉を賜り、恐悦至極に存じます。私はジベティヌス公爵家の管財人、ヒュー・アボットと申します。陛下より男爵位を賜っております」
「仰々しい挨拶はいい。質問に答えよ。貴君は、ジベティヌス公爵家に仕えて長いのか?」
「住み込みで、先祖代々お仕えさせて頂いておりますが、恐れ多くも先代さまより勉学の機会を与えて頂いたので学問を修め、現在、公爵家の会計や財産管理を任されております。私自身はお役に立ち始めてから二十年ほど勤めております」
「ならば、ジベティヌス公爵家内でフローラ嬢がどのような扱いを受けていたのか知っていよう? 捜査の一環だ、話せ」
ヒュー・アボットは暫く迷う風情をみせたが、何度が逡巡を示したあと、ぽつりぽつりと口を開いた。実際この目で見てはいない、伝聞も含めてのことだ、自分は加担していないと念を押して。
4.ヒュー・アボットの報告
ジベティヌス公爵家には有名な三姉妹がいた。
特に有名なのは庶子である三女。異国の踊り子に産ませた娘。今は亡きその踊り子に生き写しという美しい娘。
どこの貴族も大概そうであるが、ご他聞に漏れず公爵家も政略結婚で子を為した。一男二女を授かり、政略結婚と言え夫婦仲は良いのだろうと思われていたが、何を思ったのか公爵は踊り子に魅了され誑かされた。その金髪か、はたまた男を誘惑する見事な身体になのかはわからない。公爵は彼女に嵌り、貢ぎ、しばらくは別邸に踊り子を囲い本家に帰らないありさまだった。
そんな生活が八年続いた。
公爵は突然本家に帰還した。七歳になる、踊り子そっくりな金髪の娘を連れて。
踊り子が死んだからだ。
公爵は自分が連れて来た金髪の娘を正妻に託し、領地へ赴き領地経営に尽力した。王都では軍務省の長官を務め、今まで片手間にしていたような雑な仕事を改め馬車馬の如く働きづめになった。領地の邸宅と、王宮にある軍務省長官の執務室を往復する多忙を極めた生活は、世事を忘れる為に没頭しているようにも見えた。
王都にある公爵家の本邸宅にはほとんど戻らなかった。
公爵家内部を取り仕切るのは正妻である公爵夫人の勤めである。子どもの教育に関しても。公爵夫人は新しく迎えた金髪の娘を正式な三女として届け出た。無論、庶子だ。自分の産んだ娘二人と同等の教育を与えた。
彼女の行いを聞いた人々は彼女を良妻と褒め称えた。賢婦の鑑とも。
その影で。
三女は言葉により虐められていた。
言葉は時に、剣よりも明確に人を傷付ける。誰にも見えない、癒えたかどうかも解らない心の傷を。
住まう場所を与えられたのは確かだが、本邸ではない。少し離れた別館――長女ヴィクトリアはそこを『小屋』と呼んだ――が、三女フローラの住居だった。
充分な食事も与えられた。だが、離れでの生活を強いられたので、温かい食事とは無縁だった。もちろん、家族団欒など物語の中の出来事だ。
市井の暮らしと比べれば高度な教育を受け、衣服は長女や次女のお下がりが与えられた。
長男も、長女も、次女も。
三女を無視した。居ないものとして扱った。彼女に向き合う時は、蔑む言葉を告げる時だけ。
自分たちから父親を奪った女。卑しい女。死んで誰もが喜んださもしい女と、彼女の生みの親を嘲笑った。お前はその女の娘なのだと罵った。
お前は卑しい踊り子にそっくりだ。
きっと心根も卑しいのだろう。
人の夫を盗む、悪女。
その美しい姿形で、男を誘う悪魔のような淫婦。お前は自分を律しなければ、生みの母と同様に悪魔に身を堕とすだろう。
公爵夫人は彼女に関心を払わず、異母兄姉は、彼女を蔑んだ。
使用人は、出来るだけ彼女と関わらないよう過ごした。日常生活の補助はしたが、それ以上の手出しはしなかった。
一度、メイドがワザと三女を転ばせて、三女は膝を擦りむいた事があった。メイドは軽い気持ちでやった。この家の女主人に嫌われている三女など、何をしても構わないだろうと。
だがその報を聞いた夫人は、意外なことに転ばせたメイドを頸にした。紹介状は与えなかった。公爵夫人は、三女の身体に傷がつくのを殊のほか嫌った。
世間体のためである。
お陰で、表立って三女を虐めようとする人間は現れなかった。
世間的には三女も公爵家で大切に育てられた令嬢となった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「なるほど相分かった。参考になった」
テオドール王太子は眉を顰めた。
彼の婚約者だった麗しのヴィクトリアは、社交界ではその美しさも品位も知性も最上級の淑女の鑑と評判だった。
だが陰では異母妹を虐げる性根の腐った令嬢だったらしい。
愛人の子が気に入らないのは仕方ないにしても、放っておけばよいものを。
昨夜のあの騒動のとき、ジベティヌス公爵は王太子である自分への挨拶もそこそこに、有無を言わさぬ勢いで娘三人を連れて退出した。長女と次女に至っては憎々しいと言わんばかりの瞳を父親から向けられていた。彼は三女に対する家人の対応など知らなかったのだろう。フローラは対外的には何不自由ない令嬢として生活していたのだから。
これはますます公爵本人による内部犯行の線が濃くなった。
そう考えていた王太子にジャン・ロベール副団長は囁く。
「でも、変ですね。公爵はなぜ自殺したのでしょう。それも凶器をどこかに隠して。自分の意に反した者が自分の妻子だった。それを衝動的に殺した。ここまでは分かります。ですが公爵という身分を考えれば、その遺体を部下に始末させて事件そのものを闇に葬ることも可能だったはずでは? 自殺する理由がわかりません」
「自殺の理由、か」
「自分の愛する娘だけは殺さなかった。邪魔者を始末したあと、その娘と新たな生活をやり直せばいい。だが彼はそうしなかった。なぜなのでしょう?」
なぜと訊かれても、王太子にもその理由はわからない。すべて推測の域をでない。
「殿下。こう申し上げたら語弊があるかもわかりませんが、犯人の決め手は『この件で一番得をするのは誰か』です。今回、この殺人事件のお陰で一番得をするのは誰ですか?」
誰が一番得をしたのか。
自分をイジメていた継母と異母兄姉妹が死に、父親までも自殺した。
三女フローラに公爵家のすべてが相続される!
犯人はフローラだというのか?
その時、ヒュー・アボットは切実な表情で訴えた。
「あ、あのぅ……殿下。フローラ様との面会の許可を頂きたいのですが」
「面会?」
「はい。今回、このようなことになりまして公爵家の財産などを一時凍結する必要があります。代替わりの遺産相続の手続きが必要なのです。そのための特別な印璽が必要なのですが、印璽が保管されている金庫の鍵をフローラ様がお持ちのはずなのです」
「フローラ嬢が金庫の鍵を持っていると?」
「はい。八年前に公爵閣下がお戻りになって遺産相続に関する遺言書を書き換えました。そのときに印璽の話もしまして……閣下が『大切な鍵だからオーロラに預けた』と」
「“オーロラ”? とは誰だ」
「フローラ様の実の母君です。すでに亡くなっていますが、確かにあのとき閣下はオーロラと、仰いました。フローラ様なら鍵の在処をご存じかと思いまして、お話を伺いたいのです」
「なるほど。――面会を許す。私も同席しよう」
ヒュー・アボットと共に、フローラ・ジベティヌスが保護されている部屋に向かう途中、副団長は王太子に囁いた。
「フローラ・ジベティヌス嬢が金庫の鍵を自由にできる立場にいたのなら……公爵を自殺に追い込んだのは彼女だと考えられませんか?」
「……フローラ嬢が?」
「令嬢本人が昨夜言ったのでしょう? 『人の心は言葉によって殺すことが可能』だと。彼女は公爵を絶望させ、彼女と共に生きる未来を絶った。そして公爵家のすべてを手に入れる立場になった。……違いますか?」
「……違わん。だが、もしそれが真実だとして……我々はそれを罪だと問えるのだろうか」
王太子の問いに、副団長は答えられなかった。
廊下には王太子たちの靴の足音が響くばかりだった。
5.貴賓室のフローラ
王宮の一角にある騎士団本部。そこの貴賓室にフローラ・ジベティヌス公爵令嬢は保護されていた。
王族が使用するものと同じ豪奢なソファに浅く腰かけたフローラ嬢の前には、お茶と茶菓子が提供されていた。
捜査に当たった第二師団の名誉にかけても丁重なもてなしを! と言っていたジャン・ロベール副団長の言葉どおり、彼女は不当な扱いを受けていないようでテオドール王太子はこっそり安堵の溜息をついた。
「まさか、これほどとは……」
彼の隣で副団長が感嘆の溜息をついた。フローラ・ジベティヌス公爵令嬢の可憐な美貌を間近に見たのは初めてだったのだ。
なるほど、彼女の母親は傾国の美女だったのだろうと頷いている。
ソファに浅く腰掛け、まっすぐに背筋を伸ばして座る姿はとても美しかった。王太子たちの入室に慌てて立ち上がろうとするのを止め、楽にするよう告げる。
フローラの動作、すべてが可憐で品があった。なんとも愛らしい令嬢だと王太子は思いながら、対面のソファに腰を下ろした。
副団長は王太子の背後に控え、ヒュー・アボットは挨拶もそこそこにフローラに話しかけた。
「フローラお嬢様。このようなことになり、お悔やみ申し上げます。ですが、大切なことなので急ぎお聞きしたいのです。よろしいですか? 閣下から……お父上から鍵をお預かりではありませんか? 大事な鍵なのです」
「あの……その前に、確認したいのですが」
フローラはその場を見渡し、王太子に向かって尋ねた。
「朝、執事に一大事だと言われ、慌ただしく騎士団の皆さまにこちらに連れてこられたのですが……なにがあったのですか? 誰も事情を説明してくださらないのです。アボット卿。お悔やみとは、なんなのですか?」
なんと!
誰も彼女に状況説明していなかったらしい。彼女はなにも知らないようだった。
よく見れば彼女は普段着らしい質素なワンピース姿だ。慌ただしく連行されたというのが目に浮かぶようだった。とはいえ、彼女の美しさは些かも損なわれていないが。
「フローラ嬢。落ち着いて聞いてください……ジベティヌス公爵家の……ジベティヌス公爵本人、夫人、長男、長女、次女。すべて遺体で発見されました」
副団長がそう告げた途端、フローラの大きな瞳がさらに大きく見開かれた。瞳以外は微動だにしなかった。
次に眉間に皺がより、一度、二度と長い睫毛を揺らしてまばたきをした。
「……え? いたい?」
可憐な唇が開くと震える声が重ねて問うた。
「えぇ……あなた以外のジベティヌス公爵家、全員、還らぬ人となりました」
「……な、にを仰っているのか、わかりません。みなさま、昨夜まで普通に生活していらっしゃいましたよ?」
対話するのは副団長に任せ、王太子はフローラの反応を観察することにした。
ジャン・ロベール副団長は、フローラの様子を慎重に伺いながら話を進める。
「昨夜、夜会があったのですよね。そこで、その……ヴィクトリア嬢たちと、諍いがあったと、聞き及んでおります。そのあと公爵と共に会場をあとにした、とも。……帰宅してから、なにか公爵と話しませんでしたか? ヴィクトリア嬢たちと会話はありましたか?」
「え? ゆうべ、ですか? 昨夜は、おとう……いえ、ジベティヌス公爵閣下に促されてお義姉さまたちと共に帰宅しました。みなさまは同じ馬車に。わたくしだけ、違う馬車で帰宅しましたので、皆さまとは王城の馬車乗り場で別れて、それきりです。……わたくしは、みなさまと同じ邸での生活を許されておりませんから……」
「いつも違う馬車を使っていた?」
「はい。わたくしと同乗することを、お義姉さまたちは……嫌がられますし……昨夜は、わたくしだけ遅れて登城いたしましたから」
「馬車に乗るまで、みな無言でしたか? 特に話すことはなかったと?」
「……閣下が不機嫌なご様子でしたので、お義姉さまたちも無言でした。馬車に乗る前に、『おやすみなさいませ、閣下』とご挨拶申し上げましたが、あちらからは……特に何も言われませんでした」
それだな、と王太子は思った。
愛した女性の忘れ形見、愛した女性そっくりに成長した娘から終始『閣下』と呼ばれ、父親としての自分を拒絶されたことが、公爵を絶望の淵に叩き落としたのだ。
だが、それも自業自得だ。
八年間も娘を放置していたのだ。父親として認定されなくても当たり前ではないか。
「フローラお嬢様……その、旦那さま達は、何者かに殺されたのです……」
「ころ、された?」
「はい……犯人は捕まっておりませんが……」
ヒュー・アボットがそう告げた途端、フローラは操り人形の糸が切れたようにくたりと背を丸め、ソファの手摺りに凭れかかった。口元を押さえ、小刻みに震えている。みるみるうちに、顔色が真っ青に変化した。
「お嬢様! お気を確かに!」
「殺された……なぜ……全員? そんな……」
青い顔をしたままぶつぶつと呟いていたフローラは、そこでハッとした様子で顔をあげた。
悲壮な表情を浮かべ震えながら、王太子と副団長を交互に見つめた。
「わたくし……犯人だと疑われているのですね……ですから、ここに連れてこられたのですね」
その悲壮な表情のままでの推測に、この美少女はなかなか聡明なのだと王太子は思った。
「そう、ですよね。皆さまに対して一番恨みを持っているのは……わたくしだと、そう疑われても致し方ありませんわね……だから、拘束されているのですね……」
「いいえ。疑ってなどおりませんよ」
思わず、といった調子で副団長が否定する。実際彼女は容疑者ではない。
「わたくし、お城からまっすぐわたくしの離れに戻りました。それは、わたくしの馬車を扱った御者が証明してくれるはずです。今朝、執事が離れに来るまで誰とも会っていませんし、母屋に足を踏み入れておりません」
副団長の否定のことばも聞こえないのか、青い顔をしながら自身の潔白を証明しようとするさまは、年頃の少女のそれだ。
「あなたは『離れ』とやらに、ひとりで寝起きしているのですか?」
質問する副団長の声も些か甘い、気遣っているような雰囲気だ。
「――はい。使用人は昼間しかいませんし、ゆうべは寝るだけでしたから誰も、呼ばなかったし……」
そうね。誰もわたくしの潔白を証明してくれないのだわと、フローラは青い顔で震えながら呟いた。
6.フローラと王太子
「フローラ嬢。そなたは重要参考人だが、容疑者ではない。そもそもそなたに殺害は無理だ」
テオドール王太子が話しだすと、フローラの視線が彼に寄越された。
その藍色の瞳いっぱいに自分が映し出されていると思うと、彼はなんとも言えぬ不思議な高揚感を覚えた。
「む、り?」
「あぁ。家族を襲ったのは刃物。それも鋭利で長大な。そうだな、ちょうどこの私の側近が帯刀しているが、これくらいの剣でなされた犯行だ。これで一刀のもとに絶命させる技をそなたはお持ちかな?」
王太子は彼の背後に控えるジャン・ロベール副団長の腰に下げた長剣を指差す。
「まさか! わたくし、刃物なんて……食事用のカトラリーくらいしか……」
否定するためか頭を左右に振るさまが愛らしい。艶やかな髪も一緒に揺れて陽の光を弾く。
「そうであろう、その細腕では、どだい無理な話なのだよ」
安心させたくて笑顔を見せてみれば、少しだけ肩の力を抜いたようだ。あからさまにホッとした様子になった。
「では、わたくしはなぜここにいるのでしょう? 疑われているからではないのですか?」
フローラの疑問に答えたのはヒュー・アボットだった。
「フローラお嬢様。閣下たちがあのような仕儀に相成りましたので、ジベティヌス公爵家の親戚のみなさまが乗り込んでくると執事が予想したのです。そうなったらお嬢様の御身が危ういと……王宮で保護されているのなら、どなたさまも御身に手出しできないと」
「え? わたくしの身が危うい? ……のですか?」
「フローラ嬢。そなたはジベティヌス公爵家の生き残りだ。その身に公爵家のすべてが相続される。親戚筋に強欲な者はいないか? そなたを殺めて権利を得ようとする者は? あるいはそなたを手籠めにし夫という立場と爵位すべてを手に入れようとする者は?」
王太子の解説に、フローラは青い顔をしたまま徐々に頭を抱えた。
「……あぁ、そういう……だから保護……」
「不満かもしれぬが、大人しくしているが身のためぞ?」
「いえ、よろしくおねがいします……」
困惑の表情のまま、呆然と返事をする彼女にヒュー・アボットが勢い込んで問いかける。
「それでですね、お嬢様! 公爵家の資産を一時凍結したいのです。その為の手続きに特別な印璽が必要なのです。金庫の鍵、ご存じではありませんか?」
「あぁ……最初に、そう言ってましたね……かぎ? 金庫の鍵? わたくしの身の回りに、そんなものあったかしら」
人差し指でその細い顎を突きながら考えるさまは、どこかあどけない幼子のようで微笑ましかった。
「なにか、閣下から……いいえ! お母君から伺ってはいませんか? 託された物などは、ありませんか?」
「かあさまから?……あ……かあさまの形見のペンダント……あれに、鍵の形のちいさなチャームがついていました……もしかしてあれのことかしら」
「いまそれをお持ちですか?」
「……いいえ」
「どこにありますか?」
ヒュー・アボットの問いに、フローラは少しの逡巡をみせた。
「ずいぶん、昔に……グロリアお義姉さまに取り上げられてしまいました。……かあさまの形見だからずっと首から下げていたのですが、装飾品なんて生意気だと言われて」
「グロリア……次女ですね。緊急事態です。家族全員の個室を捜索しましょう。私が陣頭指揮を執ります。フローラ嬢、よろしいですね?」
「え? は、はい。お願いします……?」
ジャン・ロベール副団長の申し出にフローラはキョトンとした顔で返事をした。
ではアボット卿、ともに参りましょう。そう言って副団長はヒュー・アボットと共に退出した。
こっそり王太子の背を叩くのを忘れず。
恐らく、フローラを口説くなら今だとか、狼にはなるなとか、そういった意味合いであろう。
面映ゆい思いを抱えながら、その場に残された王太子は侍従に自分の分のお茶の支度を命じた。
「なぜ、あの騎士さまはわたくしに捜索の了解を求めたのでしょうか」
副団長の去った扉を見守っていたフローラがぽつりと呟くように質問した。
「そなたを公爵家の……いや、女公爵として敬意を表した。家宅捜索するのに家主の了解を得ないなんて無礼な真似はできない。ま、そういうことだ」
なるほど。そういう意図でしたかと呟いたきり、フローラは沈黙した。視線を膝の上においた両手に据えたまま。
その握り締めた両手が微かに震えているのに気がついた王太子は、フローラに話しかけた。
「フローラ嬢……そなた、母君の形見まで取り上げられていたのか」
フローラは複雑な表情のまま何も答えなかったが、その沈黙が答えだった。
「ひとり、離れとやらで生活させられて……母屋に足を踏み入れなかったと言っていたな。いつもそうだったのか?」
「……いいえ。お義姉さまのお仕事のお手伝いをするときには、お義姉さまのお部屋を訪れる許可が下りました」
「仕事の手伝い?」
「はい、お義姉さまは王太子妃となられるお方なので、それはもう膨大な量のお手紙がありました。その仕分けとか、お返事の代筆とか……その他にもお屋敷の管理監督のお仕事をお義母さまから任されていましたから……いえ、わたくしのしていた事は雑用ですが」
本来なら侍女の仕事だが、それらを異母妹に手伝わせていたのか。筆頭公爵家に人員が足りないなどあり得ない。異母妹に対する嫌がらせの一環だろう。
まったく、あの女は……と内心苦々しく思いながら、それよりも目の前の少女を労うのが先だろうと意識を彼女へ向けた。
「つらくは、なかったのか?」
出来るだけ優しく話しかけたつもりだったが、そう訊かれたフローラは一瞬瞳を揺らせた。
視線を下げると長い睫毛が頬に影を作る。どこか懐かしい過去を回想するような表情を浮かべ、淡い微笑みを見せると小首を傾げて王太子に視線を寄越す。
「幼い頃は、庭のいばらの植え込みの陰に隠れて泣きました。バラ園は季節になるとそれは見事な花を咲かせるのですが、花の季節以外は誰も近寄らなくて……誰も来ないので、絶好の隠れ場所でした……もしかしたら、庭師にはわたくしが隠れていることなど、知られていたのかもしれません……いつも、こどもが隠れやすいような場所があったから……あれはわたくしの為だったのかも……」
その淡い微笑みは、彼女の諦めの心境を物語っているかに見えた。
痛ましいと、王太子は感じた。たった十五歳の少女がこんな貌をするなんて。
「優しくしてくれる人間も、いたのか?」
「執事補佐のトマスと厨房のエイダは父娘で……いつも気遣ってくれました。庭師のラウノ爺と……わたくしの馬車の御者も親切でした」
「そうか」
少しだけ笑みの種類が柔らかく変化したのは、彼女に対して親切に振る舞った者を思い出したからか。
だがこれからは。
「そなた、これからも王宮で暮らさないか?」
そのちいさな肩に大きな命運を背負うことになった少女の助けになれないだろうか。
「公爵家に戻り、こうるさい親戚連中と戦う覚悟はあるのか? だが私の妃となり王宮で暮らせば、ジベティヌス公爵家の些末な家門の者など、私が蹴散らしてくれようぞ。考えておけ」
フローラはその大きな瞳をさらに大きく見開いたまま、王太子の瞳を見かえした。まるでそこに真意が書かれているのを読み取ろうとするが如く。
そんな様でさえ愛らしいと、王太子は微笑む。
彼は言うだけ言うと、呆然とするフローラをその場に残し退出した。
王太子は消え、ドアは静かに閉まった。
部屋の中に静寂が満ちると
「……ま?」
戸惑うフローラの声がぽつりと零れた。
7.公爵令嬢グロリアの私室捜索
夜の帳が下りるころ。
王宮の王太子執務室で日常業務を(隣国に位置するビイロ帝国が戦の準備をしているらしいなど、なんともキナ臭い報告書に眩暈を感じつつ)熟しながら、テオドール王太子は昼間会ったフローラ・ジベティヌス嬢の面影が脳裏から離れずに困惑していた。
今、彼女は何をしているのだろうか。
きちんと食事はとっているのだろうか。
暇を持て余してはいないだろうか。
騎士団のガサツな連中が彼女を煩わせてはいないだろうか。
ここまでひとりの少女の面影がちらつくとは思わなかった。彼女は母親に生き写しだという。彼女の母親も相当の美女だったのだ。ジベティヌス公爵が惑わされても当然だろう。
あれからフローラの身辺にいた者に対する調査報告を受けた。
彼女が心を許していたであろう、執事親子と庭師、そして専用の御者。
みな八年前、公爵が踊り子と住んでいた別邸に勤めていた者だった。三女フローラを引き取る際、別邸を引き払うと同時に彼らも雇い入れたのだ。
執事補佐のトマスと庭師のラウノは老齢。
厨房女中のエイダは長剣を扱うには身体が小さすぎる。
御者のヤンは若い男だが、痩身で小柄。とても長剣を振るって一刀のもとに他者を屠れるような人物には見えないらしい。
(誰も彼もフローラの為にと言って、犯行に及びそうではあるが……とてもそれを成し遂げそうな人物像ではないな)
そして何より、彼らには第三者のアリバイがあった。
昨夜は公爵自身の命令で使用人はすべて早々に本館を追い出され、使用人専用の別館にいたらしい。ジベティヌス騎士団の人間からも同様の報告が上がっている。
(やはり、公爵が使用人をすべて追い払い自身の手で憎い人間を屠った……と見るのが妥当だろう)
それにしても。
昼間会ったフローラの姿は。
その美しさを損なわれることはないとはいえ、『公爵令嬢』という身分に相応しい装いではなかった。
質素で、古ぼけた印象のデザインのワンピースを着て、身を飾る装飾品は一切なかった。
たしかに、衣食住に不足は無かっただろう。だが粗末な衣装を与えるのも苛めの一環だと言える。
贅を尽くした長女ヴィクトリアの装いを知っているからこそ、そう思う。
そういえば、昨夜の白いドレスも質は良いモノだったが、型落ちした流行遅れのドレスだった。
(やれやれ。つくづくあの女が死んでせいせいしたと思ってしまうな)
公爵令嬢ヴィクトリアとは、彼女の兄も含め旧知の仲ではあったがそれだけだ。
彼女が婚約者に選ばれたのは、独自軍事力を誇るジベティヌス公爵家の力を王家の傘下に収めたい、ただそれだけに等しい。
王太子は溜息を吐きながら考える。
冷遇されていたフローラを着飾り、公爵令嬢の身分に相応しい装いにさせたい。彼女を甘やかし、喜ぶさまが見たい。
知らず、そんな妄想をしていると。
「殿下、ただいま戻りました――」
そう言いながらジャン・ロベール副団長が入室する。
王太子は妄想に邪魔が入り、ムッとした表情で彼の部下を睥睨した。
「金庫の鍵とやらは、見つかったのか?」
「それは見つかりました。が、同時に最後の疑問が解明されました」
「最後の疑問?」
「刺殺された遺体の中で、なぜ長男のアレクサンダーだけ遺体の損傷が激しかったのか、です」
そういえば、そのような報告を受けていた。
「公爵が今回の殺害犯ならば、アレクを一番憎んでいた、ということになるな……そういえば、アレクは昨夜の夜会にも、王太子である私と自身の妹の婚約式にも不参加だった。どうした事かと思っていたのだが」
「使用人たちへの聞き込み調査によると、アレクサンダーは昨日、体調不良で寝込んでいたそうです。夫人も婚約式だけ出て、彼の看病のために早々に退出したと。どちらも夜会には不参加でした」
「なるほど――で? なぜアレクは公爵に憎まれていたのだ?」
「それより前に殿下。あんた、フローラ嬢に求婚とかしていないでしょうね」
「え」
急に口調を変えたジャン・ロベールの態度に驚く。
「あんたの考えなんざ、大抵お見通しだから言わせて貰うが、フローラ嬢は止めておけ。ヴィクトリア嬢の後釜にしたいんだろうが、彼女に『王太子妃』はできない」
「口調! 落ち着けジャン。崩れてるぞ」
「失礼。……んんっ。私はヒュー・アボットと共に、ジベティヌス公爵邸を訪れ、次女グロリアの私室の捜索にあたりました――」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ジャン・ロベールは公爵令嬢次女グロリアの私室捜索にあたった。
私室と言ってもグロリアは公爵令嬢である。
彼女専用の部屋は寝室、更衣室、勉強部屋、遊戯室、応接室、図書室とあり、それぞれが広い。しかも広大な衣装室、靴専用収納部屋、装身具専用室、帽子専用室、バッグ専用室などなど……ここからネックレスひとつを捜索しようというのだから、なかなか途方に暮れる案件である。
とはいえ。
彼の側には悲壮な顔をしたヒュー・アボットがいる。部下にも命じ、人海戦術での捜索が始まった。当然、公爵令嬢の持ち物なので国宝級のジュエリーもある。それらが破損しないよう取り扱いには注意喚起を促した。
「とりあえず装身具専用の収納部屋から、かな」
木の葉を隠すには森の中。ネックレスを隠すならそれらが多くある場所であろう。
フローラが肌身離さず持っていたというネックレスの詳細な形を訊けば、執事補佐であるトマスが「オーロラさまが、旦那さまから頂いたネックレスですね」と覚えていた。花のチャームがついた金のネックレスだとか。チャームの形を簡単な絵にして、部下にも共通認識として覚えさせ捜索する。
「チャームは一つではなく、鍵の形をしたものも付いていたとフローラ嬢が言っていたのだが」
副団長がそう問えば、執事補佐トマスはあっさりと同意した。
「えぇ。付いてました……ですが、まさかグロリアさまに取り上げられていたとは……フローラさまは、ご自分が辛い目にあってもわたくしどもに愚痴をこぼしたりなさらないので……」
そう言って項垂れるトマスにも捜索に加わるよう指示を与え、ジャン・ロベール自身も煌びやかなジュエリーの山に向き合った。
すべてのジュエリーを検分しても見つからず、捜索範囲は衣装部屋へ、そして靴専用部屋にも拡大された。
「ありませんね」
途方に暮れかけたジャン・ロベール副団長に、部下のひとりが進言した。
「副団長。考え方が違うのでは」
「と、いうと?」
「普段令嬢が入らない衣裳部屋ではなく、自分の目の届く範囲に置いたのでは?」
なるほどの意見だった。衣裳部屋は侍女やメイドたちが出入りする場所だ。
グロリア嬢の普段の行動範囲を彼女付きの侍女に問いただし、寝室のベッド周りや勉強部屋の机の引き出しを探したらそこが『あたり』だった。机の引き出しに鍵付きのものがあり、そこを開けさせたらグロリアお気に入りの物を仕舞うジュエリーボックスがあった。
その中に問題にしていたネックレスが入っていた。
「あぁ! これです! ちゃんと鍵がついています!」
小躍りして喜ぶヒュー・アボットに鍵を渡し、ネックレスは執事に預けようとした。
ネックレスはフローラ嬢に……と告げようとした時、執事が青い顔をしてジャン・ロベールを見上げた。彼はグロリアの引き出しに入っていた日記帳を読んでいたようだった。
「トマス? 顔色が悪い……それに、なにか都合の悪い事が書かれているのか?」
「えっ、あっ……これはっ」
「どうした。見せなさい」
トマスの持っていたページをそのままに、ジャン・ロベールは中身を読んだ――。
8.グロリアの日記
「それは? グロリア嬢の日記なのか?」
ジャン・ロベール副団長がテオドール王太子に手渡したのは青い表紙の日記帳だった。
「はい。使用人にも確認を取りました。グロリア嬢自筆の日記です……しおりの挟んであるページをご覧ください」
しばらく日記に目をとおしていたテオドールは、そこに書かれていた内容に愕然とした。
それは、グロリアの兄アレクサンダーによる異母妹フローラへの性的虐待の記録だった。
フローラは母屋から離れた場所で寝起きしていた。
夜、人目を忍んでフローラのいる別邸に忍び込むアレクサンダー。兄のそんな行動に不信感を抱き、彼を尾行して真実を知ってしまったグロリア。日記には兄に対する侮蔑と、異母妹フローラが踊り子の娘だから悪いのだと悪口雑言が記されていた。
「これは、真実なのか?」
テオドール王太子は自分の顔色が悪くなっているだろうと自覚しながら、副団長に確認の言葉を投げた。
「使用人たちにも確認を取りましたが、真偽のほどは分かりませんでした。だれもがアレクサンダー卿がそんなことするとは思えない、と。
ただ、フローラ嬢にヒドイ言葉を投げつける彼は、皆認知していました。そして……」
「そして? なんだ、もったいぶらないで全部話せ」
申し訳なさそうな表情でジャン・ロベール副団長は口を開いた。
「我々が聞き取りをしたせいで、真実であるかのように噂が広まってしまいました」
「おぉ……」
アレクサンダー・ジベティヌスとは幼い頃に知り合った。公爵家の長男で、王太子の婚約者となったヴィクトリアの双子の兄。彼の為人はよく知っていると思っていたが、まさか異母妹に欲情するような下種な人間だとは思ってもいなかった。
「ですが、これでアレクサンダーだけ遺体損壊が激しい理由の説明がつきます。公爵は知ってしまったのです。愛娘がよりにもよって自分の息子に汚されたという事を。だからこそ、あのように、まるで恨みを晴らすかのように滅多刺しされていたのでしょう」
「なんということだ……この件、箝口令を布くことは可能か?」
「可能ですが……効果のほど、確約はできません」
ジベティヌス公爵家の使用人たちとはいえ、下々の者が手にしたスキャンダラスな情報。
幾ら箝口令を布いたとて、逆に『ここだけの話だ』という触れ込みで広まるなど目に見えている。
しかも、騎士団の人間も知ってしまった。人の口に戸は立てられぬ。下々の者だけに留まる噂話などない。噂されればされるほど、貴族たちの耳に入るのもあっという間だろう。
未来の王太子妃にそんなスキャンダルはご法度だ。
事実か否かなど問題ではない。
そんな噂があったということが問題なのだ。なぜなら王太子妃とは次代の国母となる立場だ。王以外の男と通じていたなど、あってはならないのだ。
「これを読む限り……フローラ嬢は毎回抵抗しているが、アレクの暴力の前に言うことをきかざるを得ない状況だったようだな」
日記帳を引き裂きたいような心境で、それを開く。少しクセのある尖った文字が執筆者の性格を表しているようだった。
「グロリア嬢の視点では『最初にもう来るなと拒否するのは彼女の作戦だ』とか、『泣いて許しを請うような媚びる真似をしてあざとい』と悪し様に罵っていますがね」
副団長も苦虫を嚙み潰したような表情だった。
「アレクも最低だが、あの姉妹は、本当にどうしようもないな! 姉が姉なら妹も妹だ! 同じ女性だというのに、相手を慮ることもしないのか!」
「……そんな調子だったからこそ、公爵の怒りに触れ、あのような目に……」
なるほど。結果、公爵閣下の一刀のもとに物言わぬ姿に成り果てたのだ。部下の呑み込んだことばの続きが『自業自得だ』と言っているような気がした。
副団長が沈痛な面持ちのままことばを繋ぐ。
「とはいえ。さきほど自分が申し上げた『フローラ嬢を王太子妃にできない』という件は、ご理解頂けたでしょう?」
副団長のそのことばに、王太子は眉根を寄せた。
彼の言い分は正しい。未来の王太子妃に性的スキャンダルなどあってはならない。
部下の言い分は理解した。だが素直に頷く気にはなれなかった。
「……ならば、愛妾という手がある」
「え?」
「フローラ嬢にはジベティヌス公爵位を継がせよう。そして適当な男を見繕って結婚させる。誰かの夫人という立場になれば相談役とでもなんでも適当な役職を与え、私の宮殿に置けばいい」
王太子のとんでもない発言に副団長は眉を吊り上げて非難した。
「……あんた、自分が何をいっているのか理解しているのか?」
「口調!」
「まだ十五歳の少女に! 十も年下の! そんな子に、婚姻ならともかく妾になれと? あんた、サイテーだっ! 見損なった!」
ジャン・ロベール副団長はもともと王太子と幼馴染みで兄弟のように気安い間柄だった。だからこそ、カッとなって昔のようにことばを崩した捨て台詞を残し、激しく扉を叩きつけるような勢いで退室した。
静かになった執務室で、王太子はひとりごちる。
「……私はいずれ王になる身だ。それが許される身だ……」
瞼の裏で、フローラの眩い金髪が跳ねた。
「どうしても……彼女が欲しい……」
不安げに瞳を揺らし、王太子を一心に見つめたあの藍の瞳が忘れられない。
質素なワンピースに包まれた細い身体に似合わぬ豊満な胸。
陽の光を弾く金の髪。
彼女を構成するすべてが王太子のために用意されたもののように感じた。だがその身はすでに汚されている。
「アレク……奴とも昔馴染みだが、死んでよかった。公爵は罪を犯したが、奴を葬ったことだけは褒めてやってもいい」
ほの暗い表情のまま書類仕事に戻る王太子の横顔を、空の細い月だけが見ていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
翌日。
ジベティヌス公爵家の執事がフローラ嬢を訪ね登城した。彼女の着替えなどを持って来たという。荷物だけ預かり、彼女との面会は許さなかった。
王太子は今回のジベティヌス公爵一家殺害事件を、公爵本人が容疑者だと断定、容疑者死亡として始末をつけた。
途端に、ジベティヌス公爵の弟カペー伯爵がフローラの身柄を渡すよう申請してきた。それを断るとせめて遺産相続について話し合いたいからと彼女との面会を要求してきた。
カペー伯爵だけでなく、前公爵の弟の息子と名乗る男や、遠い親戚たちがこぞってフローラとの面会を望んだ。
すべて王太子の一存で却下した。
その間、日に一度はフローラの様子見と称し、お茶の時間を設けた。フローラは日に日に花が萎れるように元気を無くしていった。
「もう、帰ってもよろしいのでしょうか」
王太子の贈ったドレスには袖を通さず、あいかわらず質素なワンピース姿のフローラが王太子の対面に座り、不安そうに尋ねた。
「だめだ。まだ強欲な親戚どもがそなたとの面会を求めている」
「殿下。わたくしがここにいては、騎士団みなさまのご迷惑にはなりませんか?」
「構わない。か弱い貴族令嬢を守護するのも騎士団の務めだ」
フローラは何度か口を開いては躊躇い視線を落とし、また意を決して話そうとするという動作を繰り返した。
「ですが、殿下……わたくしは、その……先日殿下から有り難いお誘いをいただきましたが……その、妃になどなれません……その資格が、ないのです……実は、わたくしは」
「みなまで言うな」
思い切って話そうとしたフローラの発言を、王太子は強い口調で止めた。
「言わなくていい。すべて、承知している」
「え?」
「そなたがアレクに無体を強いられていたこと。ぜんぶ承知している」
王太子がそう告げた途端、フローラは思わず、といった調子で立ち上がった。
そして王太子に背を向け壁の隅にまで移動した。それは小動物が捕獲者から逃げる行動のように見えた。
「もうしわけ、ありません……わたくしのことは、お捨て置き、くださいませ……」
涙に滲み途切れ途切れになった声は痛々しかった。
「フローラ!」
王太子は彼女の側に駆け寄ろうとしたが、
「来ないでくださいませっ」
悲鳴のようなフローラの声に、立ち止まらざるを得なかった。
9.貴賓室では
フローラの頼りなく薄い背中が、全力でテオドール王太子に対して拒否を示していた。
「わたくしを、憐れと思召しなら……わたくしなど、どうか、お捨ておき、くださいませ……どうか」
細い肩を震わせ、途切れ途切れに訴えるさまは憐れを誘った。
このように泣かせたくはなかった。
フローラには笑顔でいて欲しい。
この薄幸の美少女には。
「フローラ……私はそなたにジベティヌス公爵位を継いで貰おうと思っている」
「――え?」
思わぬことを聞いた、という表情で王太子を見上げるフローラ。あどけないその藍色の瞳に長く映っていたかった。
「ジベティヌス女公爵となり、婿をとれ。勿論、白い結婚だ。そうしてそなたは私の宮殿に上がりなさい。私がそなたをすべての物から守ろう。何人たりともそなたに近寄らせないと誓おう。そなたを悩ませる事象は私がすべて片付けよう」
「……」
「だから、私の手をとれ」
フローラは困惑した表情で王太子を見つめた。目の縁が赤く、まだ涙がそこに残っているのが愛らしかった。
こんな怯えた状態のフローラにこれ以上答えを強要するのは悪手だと思い直し、王太子は退室した。
去り際に強烈なことばを残して。
「そなたの次の公爵位は……そなたの生む私の子が、継ぐことになるだろう」
静かに扉が閉まり、ひとりになったフローラは壁に寄り掛かって大きなため息を吐いた。
「えっとぉ……おキレイな言い方してたけど、つまり愛人になれって、言われたんだよね……そいでもって、公爵家は事実上王家が乗っとるぞと宣言した……ってこと、でいいのかな」
先程までの、楚々とした令嬢と同一人物とは思えないぞんざいな口調での呟きに応える声があった。
『そう言ってたな。どうする? お嬢』
天井裏から聞きなれない男の声が落ちて来た。
「あの日記トラップが日の目を浴びたみたいだったから、穏便にお断りしたつもりだったんだけど」
『余計に火が着いたって感じだったぞ』
フローラは天井から落ちて来る声に平然と返答した。その言葉遣いは、どちらかというと市井のどこにでもいる下町娘のそれであった。
「ははは、やっぱそう思うよねぇ……失敗したなぁ」
『お嬢は悪くねぇよ。悪いのは余計なスケベ心だした殿下の方だ……で? どうするよ』
「どうするって決まってるよ……いつもみたいに上手い方法を考えてよ、ヤン」
『承知』
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
翌日、フローラの部屋を訪れたのは王立騎士団副団長のジャン・ロベールだった。彼はジベティヌス公爵家のトマス執事補佐とその娘エイダを伴って訪問した。
「まったく、あの人は……」
そう言いながら、副団長はフローラに謝罪した。
主に軟禁状態で誰との面会も許さない現状について。公爵家内の捜索をしたときに知り合ったトマスから副団長に現状に対する陳情があがったのだ。せめてフローラお嬢様の無事なお顔を見せて欲しいと。
ジャン・ロベールにしても、フローラが元気を無くしているという報告が上がっているので、彼女の様子を確かめたかった。彼女を慰めるため、よく見知った人間を伴ったのだ。
「トマス、まだお屋敷の方へ親戚の方たちは押し寄せてきているの? みなさん、わたくしをどうしようというのかしら」
少々窶れたようにも見えたフローラの様子だったが、顔なじみのトマス親子と笑顔で話すさまに副団長はホッと胸をなで下ろした。
「公爵の弟カペー伯は、フローラお嬢様に相続放棄して貰いたいようです。公爵の甥のバイロン卿はお嬢様と結婚したいと。あと公爵の叔父の嫁の兄の息子が、やはりお嬢様と結婚したい旨申し出てます。あと……」
「父さん、もうそんな事はいいから! お嬢様、不自由なことはありませんか? 大丈夫ですか? これ、あたしが焼いたクッキーです。どうぞ召し上がってください」
「わぁ! いつものエイダのクッキー? ありがとう!」
食べなれたクッキーの差し入れにはしゃぐ、年相応の顔を見せるフローラの様子に目を細めていた副団長だったが、従僕が近寄って彼に耳打ちをしたせいで機嫌が急下降した。
「申し訳ない、急な呼び出しがありましたので席を外します。トマス、面会時間はあと五分だが、了承してくれ」
「はい。ありがとうございました」
副団長はその場に執事親子とフローラを残して退出した。扉前で警戒任務につく衛兵に五分後の面会人退出を命じたあと、彼を呼び出した上司の元へ向かった。
彼を呼び出したのは勿論、テオドール王太子である。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「なぜフローラへの面会を許可した?」
開口一番、不満を漏らした王太子に負けず、同じような不満顔で副団長も応戦した。
「あんた鬼か。言っただろ? たった十五歳の少女に何を背負わせようとしてんだって。そのくせ、彼女の心の面倒はみない気か? 軟禁状態にして散歩すらさせないなんて! せめて彼女のよく見知った人間くらい側に置いてやれよ」
幼馴染みのまっとうな意見に二の句が継げず、黙り込んでしまった王太子だったが、観念して彼に白旗をあげた。最初から口調を崩し、プライベートな会話として話していたからこそ素直に謝れたともいえる。
「すまん。急ぎ過ぎた……だが、老齢の執事とはいえ、彼女の側に男が近寄るのが許せんのだよ」
王太子の返答に、副団長はしばし沈黙で応えた。
「……今度は俺の開いた口がふさがらないよ、テオ。色ボケにもほどがあるだろうに……。今王宮内で即急に解決しなきゃならん事案はなんだ?」
昔から呼ばれ慣れたテオという愛称のお陰で、ふたりのあいだにあった剣呑な空気が少し柔らかくなった。
「……ビイロ帝国がキナ臭くなっているから、その外交と、……俺の新しい婚約者の選出と……」
「先日の大雨による穀物被害の対策! ……ったくしっかりしろよ! 大丈夫だよ、あの子は宮殿に居るのが一番安全なんだし、お前がそうしたいってんなら、部下もその意向を汲んで行動するし」
「ジャン、お前反対していたんじゃ……!」
「反対だ。だが王太子の意向がそうなら仕方ないだろう? ただし! 相手は今十五歳だって、忘れるなよ? お前より十も年下なんだからな、無体な真似は絶対するな! お前がその顔で誠実に対応するなら、落ちない女なんかいないからな!」
「ジャン・ロベール副団長。たったいまキミの給与を倍額にするよう手配しよう」
「よせやめろ。余計な事務仕事を増やすな!」
王太子と彼の側近の騎士団副団長がそんな会話を交わした三日後。
フローラ・ジベティヌス公爵令嬢は忽然とその姿を消した。
10.フローラ・ジベティヌス公爵令嬢の失踪
それが発覚したのは、いつものとおり、テオドール王太子がフローラとのお茶の時間を楽しむため、彼女の部屋にお茶道具一式を用意させた時であった。
お茶の準備をする為パーラーメイドが公爵令嬢の部屋に入室したが、昼過ぎになってもベッドで寝ているらしいフローラに気がつき寝台の天幕越しに彼女に声をかけた。
だが返事がなく、フローラが体調でも崩して倒れているのではと訝しんだメイドが天幕を寄せて中を確認すれば、そこには誰かが寝たような形跡はあったが、美しく編まれた金髪が覗く寝台だけで、公爵令嬢の姿はどこにもなかった。
当然、大騒ぎとなり、すぐさま捜索隊が組まれた。
最初は誘拐かと思われたが、彼女が使っていた部屋は不審人物の出入りを確認されていない。常に衛兵がその扉前にいたから、それは確かだ。
それ以上に謎なのが、いつ、彼女が部屋を出たのかすら誰も知らないということだ。
部屋は騎士団の使用する棟の三階の角に位置し、ベランダなどない。
窓はあるが開閉できない嵌め殺しの窓ガラス。空気の入れ替えをする為の小さな開口部分はあるが、人の出入りはとても不可能な大きさだ。
しかもこの部屋には暖炉の設備がなく、煙突等人の通れる大きさの侵入経路はない。
この部屋を監視するための隠し部屋は存在するが、今回隠し部屋はしっかり施錠されており、人が立ち入った形跡はなかった。
フローラ・ジベティヌス公爵令嬢は煙のように忽然とその姿を消してしまったのだ。
彼女が使っていた寝台を前に、王太子は頭を抱えた。
衣服等、彼女が使用していたものがそのまま残された部屋は、あるじだけが不在でまるで王太子の心の中を表すように空っぽで物悲しかった。
騎士団によりすぐさま現場検証が行われた。
ベッドはクッションなどを使い人が寝ているような形で盛り上げられ、明らかに彼女の不在を胡麻化すような工作がなされていた。
ベッドの上には綺麗に編み込まれリボンで結ばれた長い金髪(その色合いからフローラの物だと推測された)と、彼女の母親の形見だったという花の形のチャームがついたネックレス。
そして彼女の自筆であろうメモが残されていた。
王太子はそこに残されたメモを読み上げる。
『諍いのもとになるわたくしは、ここに居る訳にはまいりません。お世話になりました。わたくしのことは、どうか捨て置いてくださいませ。ひらに、ご容赦を』
達筆であった。筆跡がその主の性格を表すとするのなら、彼女の残した文字から伺える彼女の性格は、優雅で繊細。そして心映えの美しい女性なのだろう。フローラ・ジベティヌス公爵令嬢という人は、姿形ばかりでなくその中身でさえ完璧に美しいのだ。
「髪を切って……失踪したのか? そんなに、私から逃げたかったのか? 私を……厭うたか」
王太子は呆然とし、また酷く落胆した。
あの長い見事な金髪を切ったのだ。失踪するために、もしかしたら少年のような姿に擬態しているのかもしれない。あるいは、髪を隠す修道女のような恰好か。フードで身体をすべて隠している者も怪しい。
王太子の命によりフローラ・ジベティヌス嬢の捜索は行われたが、彼女の行方は杳として知れないままとなった。
失踪翌日。
ジベティヌス公爵家にフローラの直筆(残されたメモと同じ筆跡)で、すべての相続権を放棄し叔父のカペー伯に一任する旨の手紙が届いた。
そのことからも、誘拐ではなく、誰かに強要された訳でもなく、フローラ自身の考えで失踪したのだと結論づけられた。
しかしその後、フローラ嬢の完璧な失踪は異母姉の呪いのせいだと、上流貴族のあいだに面白可笑しく噂されるようになった。
異母姉であるヴィクトリアがフローラ嬢を虐げていたのは、あの婚約発表の夜会のときに単なる噂ではなく本当のことだと周知されていた。
ヴィクトリアが王太子の婚約者という地位に固執していたことと、彼女の死後すみやかにフローラを大切に保護していた王太子の態度も。
自分の死後、すぐさま王太子を誑かした悪女だから呪われ魔界に召喚されたに違いない。
そう宮廷スズメどもがまことしやかに噂を流した。
公爵令嬢であったヴィクトリア・ジベティヌス嬢は正式に王太子の婚約者として貴族院に登録されたあと亡くなった為、彼女は准王族として葬られた。当然服喪期間は三年と長い。(一般貴族は一年)
彼女の伴侶になるはずだったテオドール王太子にもその服喪期間は義務付けられた。
その喪が明ける迄は、ヴィクトリア嬢の呪いを恐れた令嬢たちがこぞって辞退したため、王太子の次の婚約者の決定にはかなりの時間を要したのだった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「ほんとっ、ふざけているわよね! あの父親は! なんていうか極端! 融通が利かない。ほどほどが出来ない。思い込んだら一直線のイノシシ野郎よ!」
「お嬢。口調が戻ってるぞ。苦労して身に付けた公爵令嬢っていうネコが」
「もう脱いだのよ。いらないわよ、お嬢様の体裁なんて」
旅芸人一座の長いキャラバンの列がごとごとと草原を進む。
その隊列の幌馬車のひとつに、フローラと彼女の御者を務めていたヤンがいた。
すっかり異国の装束に着替えた彼らは公爵家の令嬢とその御者だった面影など微塵もない。
「こっちもさぁ、小さい頃の記憶があるじゃない? あの人、あれでも昔は優しいお父様だったのよ? それが、かあさまが亡くなったらコロっと手の平返しよ。私のことなんてお義母さまに預けたっきりで顔も見に来ないのよ? 憎まれ口の一つや二つや三つや四つ、言いたくもなるってものよ! まさかそれがヴィクトリア義姉さまの婚約お披露目の場になるとは思わなかったけどさ。
義姉さまたちもね、会えば胃の痛くなるような嫌みばっかりだったからさ、一度くらい反撃して愚痴を本人に言ってやりたかっただけなのよ。あの場に私を呼んだのも義姉さまたちの仕業に違いないしね! まさかその現場に公爵閣下が居合わせて、あんなに怒るなんて思わなかったわよ」
ゆったりしたパンツ姿で胡坐をかくフローラの姿は、公爵家に居た頃叩き込まれた淑女としての作法など忘れたかのようだ。後頭部で一つに結び、三つ編みにされた長い髪がゆらゆらと揺れる。
彼女は十日間も王宮の騎士団棟に軟禁されており、日中ほとんど誰との接触も許されていなかった。
それから解放された今、おしゃべりが止まらない。
それに付き合うヤンは、幼い頃から彼女の従者として仕えていた気安さから彼女をお嬢と呼ぶ。
女顔で痩身の上に小柄なヤン。長い前髪で顔の半分を隠して陰気な印象を与えるが、彼の心根が優しいことをフローラはよく知っている。彼女にとっては生まれた時からの付き合いだ。本物の兄のようにヤンを慕っていた。
「娘の婚約発表の席なんだから、公爵が顔出すなんて当然じゃねぇの?」
同じ幌馬車の中に積まれた荷物の中からリンゴを取り出して皮のまま齧りつくヤン。フローラも彼を真似て同じようにリンゴを取り出し服の袖でぞんざいに拭う。公爵家にいたころなら出来ない行動だ。
「公爵は領地経営と軍務省のオシゴトのことしか頭にない朴念仁の仕事人間だと思ってたから、来るとは思わなかったわ。あぁ、違うか。仕事人間だから上司の息子のお祝いの席に来た、が正解なのかな」
皮が付いたまま丸ごとのリンゴに齧りつく。ほどよい酸味がきいた歯ごたえ抜群のリンゴをしゃくしゃくと咀嚼しながらフローラは首を傾げた。
「あの夜、城から公爵邸に戻ったあとの公爵、殺気に溢れておっそろしかったもんなぁ……わざわざお嬢の離れまで様子を見に来たし。初めて離れに来て、ショックを受けた顔してたな……。いやぁ、確かにお嬢に言われてあとをつけて監視していたよ? そしたら公爵自ら夫人や娘を次々と刺していくから、あれには恐れ入ったよ。
……で、お嬢はなんであんなことしたんだ?」
「あんなことって?」
「わざわざ公爵閣下の憎しみをアレクサンダー坊ちゃまに集中させたこと」
「あぁ。だってあのとき私がアレクサンダー義兄さまの名前を出さなかったら、無罪放免になっちゃうかなぁって。義兄さま、夜会に出てなかったし。どうせ怒られるならみんなまとめて怒られればいいのよ! って思っただけ。まさか刃物持ちだすなんて想定外よ!」
「確かにあの兄妹にはいろいろ嫌みを言われていたけど、それだけだったよな? 本当に襲われたわけじゃないよな?」
「当たり前よ! アレクサンダー義兄さまはお綺麗な顔のヤンのことがお好みだったんだもん。あんたが私を大切に扱う度に嫌みが激しくなって、もう、女の嫉妬か? って辟易としたわよ。そんな義兄さまが女の私に手を出す訳ないでしょ」
「え? 俺のことを? お坊ちゃまが?」
「そうよ。やっぱり本人は気がつかないものなのね。あんなに熱い視線を送られていたのに」
「……知らなかった」
呆然としながらもリンゴを食べる手は止めない。フローラも見習うようにリンゴを齧る。
「ご本人は隠しているみたいだったから、仕方ないかもね。それにアレクサンダー義兄さまの大本命は王太子殿下だったし」
「まじ?」
ヤンはその大きな目が落ちるのでは? と心配になるほど目を見開いてフローラの顔を見つめた。
「そうよ。だから婚約発表の日、アレクサンダー義兄さまは寝込んでいたのよ。失恋決定日ですもの」
フローラはあっさり頷いた。ヤンに嘘はつきたくないし、そもそも嘘など通じない。
彼は不思議なくらいフローラの気持ちを察してくれる。
それこそ、いばらの木陰で泣いていた少女の頃――いや、それ以前の別邸にいた幼少期の頃から。
長い前髪で顔を半分隠しているが、その顔立ちが驚くほど秀麗なことはフローラだけが知っていればいいことだったのに。
「あー。なるほどー、そっちの人だったのか。じゃあお嬢に不埒な真似はしないわな」
やっと納得したようだったが、自分がアレクサンダー義兄に襲われたらどうする気だったのかしら、などとフローラはこっそり考えた。見かけは痩身で小柄で美少女めいたヤンだ。簡単に押し倒せそう、などと思われなくて良かった。
相手が。
ヤンは力も強いし剣の腕もそこそこある。この旅芸人一座の軽業師として一流の腕をもつラウノ爺(公爵家では庭師に化けていた)の一番弟子なのだ。反撃し庭に埋めていたかもしれない。
「そうそう。よっぽどジベティヌス騎士団の団長の方が身の危険を感じたわよ。なんとか躱していたけど」
「あぁ、あの団長サン。よくお嬢に夜這いかけようとして、俺やラウノ爺さんが庭に仕掛けたトラップに見事に引っかかってくれる愉快なお人だったなぁ。……今回の騒動の責任を取らされるらしいぞ。強制労働だって聞いた」
「治安維持できなかった責任ってやつね。誰かが取らなきゃ、だもんね。ま、私としてはいい気味だわ」
「俺もいい気味って思うぞ。あいつ、俺が女顔だからってバカにしやがって、ムカつく……って、あれ? 坊ちゃんが俺のこと好きだったからって言ったよな? それを知っていたってことはつまり、お嬢がやきもち焼いたってことになる? ……お嬢?」
「……しらないっ!」
フローラは頬を赤く染めそっぽを向いた。芯だけになったリンゴは馬車の外へ投げ捨てた。
11.あの夜の真相
あの夜。
ジベティヌス公爵は一度本邸宅に長女と次女を戻した後、妻ともども談話室にいるようにと言いつけ人払いをし、フローラの離れに初めて足を踏み入れた。
その離れの小屋は、生まれ育ったのが『城』だという公爵閣下の理解の範疇では確かに『小屋』で、とても公爵令嬢が住む邸ではなかった。
だが、生まれてから親子三人で慎ましく暮らした記憶のあるフローラにとっては、なんだか居心地のよい空間だった。実際、裕福な平民が優雅に暮らせる一軒家という外観の建物だったから。
その『小屋』に初めて足を踏み入れた公爵は絶望した。
フローラが虐げられていることを実感した。
八年前に正妻に預けた時は幼女だったフローラ。
だが十五歳になった彼女は、まさに彼が愛したオーロラに生き写しで、オーロラ本人が虐げられているような錯覚を受けた。
こんな事、あってはならない。ジベティヌス公爵閣下の愛した人間が蔑まれるなど!
彼はフローラに尋ねた。お前をイジメた人間は誰だ。名を言え。おとうさまが成敗してくれる。
フローラは、しばし考えて答えた。
『お義母さまと、お義姉さまたち……そして、お義兄さま、も……わたくしに、その、嫌なことを、します……』
『イヤな、こと?』
『わたくしは、半分でも血が繋がっているからって言ってるのに、嫌だって言っても、聞いてくださらなくて……むりやり、わたくしを……』
そう言ってウソ泣きをしてみせた。
母から演技のすべてを教えられていたフローラにとって、涙など自由自在に見せることができる。
そしてこの日の為に、次女グロリアの部屋に証拠となる彼女の日記を捏造して隠しておいた。
異母姉の筆跡は彼女たちに手紙の代筆を強制されているうちに覚えた。
母オーロラの形見を持っていないことに気がついた父が日記帳を見つけ、彼女らを折檻すればいい。そんな思いで仕掛けた罠だった。
当然、グロリアに取り上げられたと証言したネックレスなどない。フローラが自分で外し、グロリアの机の引き出しに仕込んでいたのだ。
まさか、あれについていたチャームが大事なものを入れた金庫の鍵だなんてフローラは考えてもいなかった。
だが、公爵はフローラがネックレスをしていないことなど気がつかなかった。そしてそんな些細な証拠など必要としなかった。
目の前でオーロラに生き写しの愛娘が泣いている。
その事実だけで彼の逆鱗に触れてしまったらしい。
公爵は激怒した。
本邸宅の西翼は、公爵の家族だけが住まう場所だが、その夜は公爵本人によって人払いされ水を打ったように静まり返っていた。
その静まり返った館内を、愛刀を手にした公爵が進み、ヤンが恐る恐る公爵の後をつけた。激怒した公爵の様子に恐れおののいたフローラが、ヤン(小柄で身の軽い彼は尾行術や潜入に長けている)に尾行を命じたのだ。
公爵は談話室にいた妻と娘を無言のまま次々に屠った。
彼に謝罪しようと待ち構えていた夫人と娘二人は、突然の凶刃に為すすべなく倒れた。
次に、体調不良で自室で寝込んでいた長男を襲った。
息子は特に念入りに刺していた。愛娘を汚した憎い輩を始末する行為だった。
そこに息子への愛情など一切感じられなかった。
ヤンは公爵の行いを目撃したあと、慌てて自分が目撃したすべてをフローラに伝えた。
自分の妻子を平然と屠った公爵閣下。彼はこのあとどう出る?
恐らくは平然と証拠となる死体の処理を部下に命じ、惨劇となった部屋を整えさせ、愛するオーロラ生き写しに成長したフローラと暮らそうとするだろう。
……もしかしたらそれ以上を、妻の役目までもを、彼女に望むかもしれない。
おぞましい予想だが、絶対無いとは言い切れない。相手は妻子を皆殺しに出来る、愛する女のことしか頭にない狂人だ。あんな、自分の意に添わなければ簡単に『始末』するような男、生かして置いたらいつかフローラ自身の身体も命さえも危うくなるのではないか。
「どうする? あの狂ったおやじにいつまで付き合う気だ?」
ヤンを始めとする、オーロラの時代から付き従った人間は昔からフローラに逃亡を勧めていた。
こんな虐げられる生活など捨て、もとの旅芸人の一座に、自由な生活へ戻ろうと。
本命の仕事もほぼ終えた今なら、楽に抜け出せると。
彼らの進言を聞き入れなかったのはフローラ自身。
彼女はひとめ父親に会って文句を言いたかった。その機会を伺っていた。
踏ん切りがつかずグズグズしていたら大変な事態になってしまったのだ。
フローラは考えた。
公爵は愛する人間を監禁するタイプの男だ。(それ以外には無関心で放置する)
母オーロラは彼と生活し、彼に囚われて幸せだと言った。
そこに嘘はないと思う。母と父と三人で暮らした日々は、確かに穏やかで愛に満ち溢れた日々だったとフローラも記憶している。
だが自分は母ではないのだ。
母と同じ立場で父の側にいることは出来ない。
母が父に愛された八年と同じ期間、フローラは親族に虐められる日々を耐えた。
その八年間のどこかで父親が会いに来る日を夢見ていた。
が、そんな日は来なかった。
あの夜会のとき、公爵は踊っている自分が母に見えたのだ。
踊り子だった母に。
今でも彼が求めているのは、あくまでもオーロラなのだ。その証拠に彼が発した第一声は母の名だった。
娘として愛して欲しかったが、彼が求めていたのは愛する女ただひとりだった。
娘など、ただの付属物。愛情を注ぐ対象ではなかったのだ。
父に対する幻想が粉々に打ち砕かれた瞬間だった。あれは『父』ではない。ただの『男』なのだ。
じっと耐えた八年間と彼の心情を理解したことで、『父』への愛も希望もついに擦り切れた。
フローラは、あのどうしようもない父だと思っていた男に、自分の現在の状況を伝えたかっただけなのだ。お前のせいで、お前の愛した女の娘は不幸になっていると訴えたかっただけ。
あの夜会のとき、言いたかった言葉は言い切った。言い切った以上、彼に望むものはもう何もない。
もういらない。父だと思った男にまつわるもの、全て。自分のこの身があればいい。
もう自分の未来の為に、自分の足で立ち上がろう。
「ヤンのいうとおりだわ。もうあんな糞親父に未練も無いし、この地に用はない。撤収しましょう」
だが彼はすんなりと娘を解放しないだろう。特にオーロラと瓜二つになった現在を知ってしまった今となっては。
公爵に見出される前の母は旅芸人一座の舞姫だった。
定住の地を持たず、あちこちを彷徨う流浪の一族。
その実、舞姫を隠れ蓑に、金さえ積まれれば各地、各王国に潜入し情報を売り買いする諜報工作員の集団だった。
もともと彼らがこの国を訪れたのも、他国の皇族からの依頼があったからだ。
その為にオーロラはこの国の軍務省のトップを務めるジベティヌス公爵に近づいた。そのまま恋に落ちてしまったのはオーロラにとって大誤算であったが。
だがそのお陰でジベティヌス公爵家内部に潜り込むことに成功した。
計十六年かけた壮大な諜報活動であった。
今ではジベティヌス騎士団内部にも一座の人間が紛れ込んでいるくらいだ。
「わたしたちの自由を勝ち取るために、邪魔者を排除するわ。――ヤン、手伝って」
「承知」
幸いダンスや舞、発声、演技、その他諸々母の手により一から教わっている。
そして父母の馴れ初めやさまざまなエピソードも。
12.月夜のフローラ
ジベティヌス公爵は、自室で血に塗れた愛刀を丁寧に拭いた。
血糊がついたまま納刀すれば、そのまま錆び付いて使い物にならなくなる。その拭き取った血は、彼の妻と彼の血を分けた子どもの物であったがなんの感慨もなかった。
彼はただ彼の意に添わぬ者を始末しただけだ。
彼が愛した女を虐げた者など、この世に生きている価値などないのだから。
愛刀を鞘に納め、いつもあるように壁の定位置に戻した。
朝には使用人とジベティヌス騎士団に命じ、不埒者の死体を片付けさせようと思ったとき。
「……リオ……わたしの愛しいドゥリオは、どこ……?」
そのか細い声は、耳に懐かしく響いた。
慌てて窓を開け、ベランダから階下を見下ろす。そこには、愛しい女がいた。
月明りの下、異国の衣装を着たなつかしい姿。
旅芸人一座の舞姫。
金の髪の踊り子。
彼の唯一愛したオーロラが、そこには、いた。オローラが彼を探していた。
「……オーロラ……」
階下の庭にいた彼女は、公爵の呟きに反応した。
振り仰ぎ、二階のベランダにいる公爵を見つける。彼女が動くたびに、手首や足首に巻いた鈴から可憐な音がしゃらりと鳴った。
「ドゥリオ! わたしのリオ! そこにいたのね……探したのよ……」
そう言って花が綻ぶような満面の笑みを浮かべた。
彼に向かい細い両腕をのばした。手首に捲かれた鈴がまた音を立てた。
そこにいたのはオーロラではなく、彼女に生き写しの娘フローラ。
フローラが母の遺品である昔の衣装を身に纏い、父の愛称を呼んだ。
「来て……会いたかったの、いますぐ、来てっ……リオ……!」
「……オーロラ! いま行く!」
公爵は愛する女がそこにいる事実に歓喜し、彼女が自分を呼ぶ声に応えてベランダの欄干を越えた。
何もなければ。
軍部に所属し身体を鍛えている彼にとって、二階のベランダから飛び降りるなど造作もない行為だった。実際、過去オーロラに会うために塀を乗り越え、何度も同じようなことをしてきた。
フローラは、そういった父母の一連の出会いを寝物語によく聞いていた。
だが今回は。
ベランダの隅には気配を殺したヤンがいた。
彼は飛び降りる直前の公爵の背後をとり、彼の首にロープをかけた。ロープの先は欄干に括りつけられており、当然のことながら公爵は地に足を下ろす前に首にかけられたロープのせいで、宙に吊られた。
フローラは目の前で起こった一連の事象、すべてをその目に焼き付けた。彼女の父親だった人間が苦しみ、絶命するまでを、全部。
表情を無くし月明りに照らされた彼女の美貌は、まるで秀麗な人形がそこにいるかのような錯覚を他者に与えた。
「今ロープを切れば、まだ助かるぞ」
身の軽いヤンが、さきほど公爵がやろうとしたようにベランダからひょいと降りてきて、フローラの耳元で囁いた。
「邪魔者は排除する。そう言ったのは私よ」
抑揚のない感情を抑えた声でフローラは応えた。
「無理して見なくても」
「最後の肉親だもの。――せめて、見届けるわ」
公爵自身が彼女の姿を見て、オーロラと認識したのだ。
きっと母が彼を迎えに来たのだ。
冥府の底から迎えに来たのだから、当然彼の行き先もそこだろう。
もし。
もし万が一、庭にいたのが彼の娘だとしっかり認識したのなら起きなかった悲劇だ。
フローラはそう思い、見届けて――黙って瞳を閉じた。
「よし。じゃあ撤収……と言いたいところだが。このままズラかる訳にはいかないだろうなぁ」
ヤンは自分の頭を軽く掻いた。
「え? どうして?」
フローラが尋ねると、ヤンはやれやれといった様子で肩をすくめる。
「明日の朝、スチュアートあたりがこれを発見したら、どうなると思う? その時俺らがいなかったら?」
彼が「これ」と言って指し示した背後には当主の首つり死体。そして邸宅内には刺殺遺体。三女は御者と共に行方不明、なんてことになったら。
……普通に考えて一大事だ。
スチュアートとはジベティヌス公爵家に代々仕える筆頭執事である。彼は四角四面で融通が利かない。
「なるほど。今はダメね。今私とヤンがいなくなったらすべての罪をヤンが負う可能性があるわ」
「そ。俺がお嬢をイジメた奴らを始末して、お嬢を攫った誘拐犯になるかんじ?」
そうなったら筆頭公爵家の名にかけて犯人と目された者に捜索の手が伸ばされるだろう。
『お家だいじ』の筆頭執事スチュアートならそれくらいやる。
「それはマズイわ。ヤンだけでなく、屋敷の使用人に容疑がかかるのは避けたいもの。どうしたらいい? 考えて、ヤン」
フローラのいつもの決まり文句でのお願いに、ヤンは後ろ頭を掻きながら怠そうに応えた。
「承知。――お嬢は離れに戻って普通に寝て。そのキラキラ衣装はちゃんと仕舞って置いて。――あとは、俺らに任せろ」
かくして。
翌朝、ジベティヌス公爵家で起こった惨事の第一発見者はトマス執事補佐(もともとはオーロラに仕える形でジベティヌス公爵家に潜入した旅芸人一座の人間)だった。
彼はいち早く騒いで王宮の騎士団に捜査権を渡した。これはジベティヌス公爵が起こした騒動だと王家に、この国の最高権力者に認識させたのだ。
第一発見者が、代々ジベティヌス公爵家に仕えお家だいじのスチュアート筆頭執事だったら、分家に連絡して内々に事件をもみ消そうとしただろう。
それではフローラが逃げる隙を奪われる。
もうフローラが公爵家に、この国に留まる理由はないのだ。
トマスはヤンから指示を受け、フローラの身を王宮に保護させた。
王立騎士団という外部を介入させ、この惨劇は当主による暴走だとお墨付きをもらったら、王宮から下がるその足でこの国を脱出させようと考えていた。フローラがジベティヌス公爵家の相続権を放棄する旨の書類を作ったら、もう柵はなくなる。
「あ。一つの嫌な可能性がでてきた」
「可能性?」
ヤンの呟きにトマスが問い返す。
「王太子がお嬢の美貌に目をつける可能性。あの人、婚約者を亡くしたばかりってことになるじゃん」
「あぁ……」
ヤンの言葉を聞いたトマスも、同じ可能性に思い至り苦い顔をした。
「そうなったら、お役御免だからって正面玄関から帰るのは不可能になりそうじゃね?」
「ふむ……こっそり抜け出すしかない、か」
「だな。その算段もつけておくか」
ヤンの懸念は当たった。
フローラは王立騎士団に保護される身となり丁重に扱われたが、王太子に目をつけられた。妃にならないかと持ち掛けられ、フローラ自身「まじサイテー! キモい信じらんないっ」と怒り心頭となった。
「あの人、夜会でわたしがオネーサマたちに虐げられていた現場に居合わせた人よ? あの場を見ていた人なのよ? あれを見ていながら! その場で最も高貴な身分で発言力がありながら、オネーサマたちの悪行を一切止めなかった人なのよ?! しかもわたしが公爵家の推定相続人だと思ったからこそ声を掛けたのよ? その上あの日記トラップを知ったら諦めるかと思ったら、愛人になれと言った欲深ジジイよ? わたしの胸ばっかり見てるのよ? ただの面白がった傍観者でわたしを庇おうともしない、下半身に意識を乗っ取られた男に靡く理由なんてないわよっ! いくら顔が良くてもお断りよっ! キモっ」
着替えと差し入れを持って面会に(ついでに撤収日を連絡するため)来たトマスとエイダ親子がフローラに、『王太子殿下の求婚に対してはどうしますか』ときいた時の答えである。
彼らももっともな意見だと頷いた。
13.自由を手にした踊り子
トマス親子が面会に来た日、脱出の決行日を決めた。
その日からヤンは女装し、騎士団棟の下級メイドとして潜入した。
三日後の決行日には小柄なヤンがハウスメイド姿に扮し、日中堂々とフローラの部屋のベッドメイキングの為と称し入室した。
彼女の部屋の前で警護していた衛兵は、毎日必ず入る清掃のハウスメイドのことは、いつものことだと認識していた為、怪しい人物だという判定を下さなかった。
小柄で痩身な上、女顔のヤンが女装慣れし過ぎていて、なんの違和感も与えなかったせいもある。
ベッドにはフローラ自筆のメモとオーロラの遺髪を置き、まだそこに人が寝ているような形に細工した。
シーツでその身を覆い隠し、膝を抱え丸くなったフローラは、一見リネンの山でしかなかった。ヤンはそのリネンの山を抱え、堂々と部屋を出た。
痩身で小柄なヤンだが実は力持ちだ。
フローラを抱え上げるくらい朝飯前にできる。
傍目には小柄なハウスメイドがリネンの山を抱えて移動している姿にしか見えなかっただろう。
リネンルームに立ち寄り、フローラを貴族令嬢の姿から、ランドリーメイドの衣装に着替えさせた。フローラ自身が着ていた衣装は洗濯物として自ら抱え込み洗濯場に持ち込んだ。
もともと下級メイドと呼ばれる立場の人間は貴族たちの目に触れる事を許されない。
舞台裏をヒトサマの目に晒すのはご法度なのだ。
だから人目を避けこそこそと行動したところで、それは普通の姿だった。
持ち込んだシーツや衣装を洗濯場に置き、その場に洗濯するために置いてあった庭師が着る泥だらけのツナギに衣装チェンジした。
大きな帽子を被ることで顔に影を作り、フローラの長い髪はふたつのおさげの三つ編みしてわざと身体の前に垂らした。
その姿でヤンと共に(当然彼も庭師の女装をしている)外に出て、今度は城の残飯や廃棄処分物の入った籠を背負って焼却炉へ向かった。
そこは城からだいぶ離れた場所にある為、警備をしている兵士たちと何人もすれ違った。
彼らは既に王太子の命をうけフローラ・ジベティヌス嬢の捜索に当たっていたが、彼らが捜索対象にしたのは『髪を隠している貴族女性』だったため、長い髪を三つ編みにし堂々と晒していた庭師姿の女性には職務質問などしなかった。公爵令嬢が泥だらけになっている姿など想像しなかったせいもある。
かくして城のはずれまで移動した彼らは、旅芸人一座の人間が手配した馬に乗り、城から脱出し一座のキャラバンに合流したのである。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「ラウノ爺たちは置いて来ちゃったけど、大丈夫なの?」
キャラバンはのんびりゴトゴトと草原を進む。
既にエイーア国の国境は超えた。追手も来ない。
「ラウノ爺とトマスとエイダは、もうちょっと時間が経ってからくるよ。堂々と『退職届け』を書いてね。『王太子の想い人』になっちまったお嬢があの国を抜ける方がよっぽど大変だから優先しただけさ」
ヤンはのんびりと寝転んでフローラの問いに応えた。
ただの従業員だったトマスたちは暫くは公爵家の使用人としてそのまま勤務する。
だが、いずれ公爵家の実権を握るはずのカペー伯に追い出されるだろう。そうでなくとも、『お仕えしたお嬢様がいらっしゃらない今、ここで働くのは思い出が辛すぎます』とでも言って辞めるのは簡単だ。使用人が辞めるときの定番、次の仕事場への紹介状なんてものも要らないし。
とりあえず合流場所は決めてある。
「それならいいわ。ジベティヌス騎士団に潜入していた者も同じ? そう、それならいいの。ところでこのキャラバンはどこに行くの?」
「さーてね。東の方へでも行こうかって聞いたぞ。エイーア国はビイロ帝国と戦争になりそうだし、そうなるとビイロ帝国へも行かん方がいいし……って」
「そのビイロ帝国にエイーア国の情報を流していたのは誰でしょう?」
「はて? どこかの旅芸人一座のお仕事でしたかな?」
幌付きの荷馬車の中で、フローラはヤンと顔を合わせて無邪気な笑い声をあげた。
フローラは公爵令嬢としての自分を捨てた。もともと、そんな自分は似合っていないと思っていたし、公爵家の誰からも否定されてきた。
だがあの邸で一番公平だったのはジベティヌス公爵夫人だったなと、今になってフローラは思う。
夫人はフローラを見るのも嫌がったが、彼女に危害を加えようともしなかった。
彼女に教育を施し、衣食住の保証をした。
ただ、無関心だっただけだ。夫人は娘たち誰にも公平に無関心だった。
長男にはそれなりに気を遣っていたようだが、それは彼が次期公爵だから。それ以上の愛情をかけているようには見えなかった。あくまでもフローラが感じたことであって実情は違うかもしれないが。
衣装が異母姉たちのお下がりになったのは、異母姉たちの画策だ。
夫人はちゃんとフローラの分も予算を割いていたが、彼女の分のそれを使い込んだのは異母姉だ。
あの婚約発表の日、夜会へフローラを出席させたのも異母姉のどちらかだろう。フローラにと白いドレスを持って来たのはヴィクトリアの侍女だったし、夜会の場で踊り子らしく踊れ、これは奥様からの伝言ですと言ったのはグロリアの侍女だった。
本当にあの姉妹は仲良くフローラをいじめてくれた。
だれからも否定された姿など、一時の仮装となにも変わらない。
だからそんな姿などに、なんの未練もない。
今のフローラは旅芸人一座の舞姫。ただの踊り子になったのだ。
それは、彼女の母親が心の底で渇望していた姿であった。
母オーロラはジベティヌス公爵を愛していた。
それ以上に日々不安定な旅芸人としての生活から、定住の地を与えゆっくり子どもを生む機会をくれた公爵に感謝していた。
自分自身を一番好きだったはずのオーロラは、熱烈に彼女に愛を注ぐ公爵をいつの間にか好きになった。
毎日同じベッドで目覚め、愛する人と共に生活し、自分そっくりの娘を育てられる日々を愛した。
だが、心の奥底で自由に振る舞った日々を渇望していた。
そうでなければ娘に歌や踊りを伝授しなかっただろう。
いつか、流浪の民に戻る。そう思っていたからこそ、娘にもそのような教育を施した。歌や踊り、演技、自分が一番可愛く見える仕草、そして自由自在に涙を流すさま。すべて実母が伝授した。
フローラから見て、ふたりの『母親』はあまりにも対照的な人生を送った。
ジベティヌス公爵夫人は政略結婚で愛情のない相手と結ばれ、彼の子どもを生み、彼が外で作った娘を受け入れた。
すべての人間に無関心だった彼女は、その夫でさえどうでも良かった。
愛など二の次で、貴族としての自分が一番大切だったような人。
仕事として父と出会い、愛に生き、けれど自由を渇望した実母。
貴族としての矜持だけを胸に、プライドを重視した義母。
フローラはこれからどんな人間と出会い、どんな選択をし、どんな人生を歩むのだろう。
自分の膝に重みを感じたので何ごとかと見れば、ヤンがフローラの膝を枕に寝始めたところだった。
彼の鬱陶しくかかっていた長い前髪を撫であげれば、はっきりした美しい瞳がフローラを見上げる。
虐げられ続けた日々も彼がいたから乗り越えられたのだと思い至った。
泣きながら逃げ込んだいばらの植え込みの向こう側には、いつもヤンがいて慰めてくれた。
もうこっそり隠れて会わなくてもいい。
なんだか嬉しくなったフローラは、形のいい額にそっと唇を落とした。
「‼‼……お嬢っ‼……いまっ」
彼は真っ赤になったかと思うと瞬きひとつの間に荷馬車の隅に逃げるから可笑しかった。もうちょっと膝の上にいてくれてもいいのに。
フローラの見上げた空は快晴。
風は心地良く、彼女の前途を祝っているかのようだった。
【完】
ご高覧ありがとうございました。