番外編 02_眼鏡魔術師の、切なる願い
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──囲うように腕に抱きこんだ狼が、もぞ、と軽く身じろぎした。
瞼の裏がうっすら明るい。朝になったらしい。
腕のなかには、丸くなって穏やかに寝息を立てているファルがいた。スヤァ……とよく寝ている。
夢ならば覚めないでほしい……
切実に祈りながら、僕はあえて寝たふりを続けた。卑怯な自分が嫌になるが、モフリたい誘惑に勝てなかったのだ。
あと少しだけ。それだけを願っていた。
モフモフしたファルの温もりは、バウエルを失った僕の心の欠損を、ありあまる幸福感で満たしてくれた。こんな風に朝を迎える事ができるなんて、昨日まで想像もしていなかった。
今は、ひどく幸福な気分だった。泣きたいくらいに。
こんな自分を同僚に見られたら、「鬼の目にも涙かよ……」と引かれそうな気もするが、そんなのは些末な事である。
しかし、幸福な時間はついに終わりを迎えた。寝ぼけたファルが、パチリと目を覚ましたのだ。
彼女は驚いて、ガバッと顔を上げた。そりゃ寝る前の体勢とはずいぶん違うからな……
でも、そんなに焦らなくても……と切なく思っていると、ファルは前足を突き出し、懸命に僕との距離を取ろうとした。
肉球がぐいぐい当たる。
感触もかわいい……
一転、ほのぼのしていると、彼女は不意に前足を突っ張るのをやめた。僕のにおいをかいで、額をすりすりと擦りつける。
僕の理性は、危うく爆散するところだった。
(っ……いや、落ち着け!これは本物の狼ではない、"人狼"の女性だ。繰り返す、女性だからな。相手の許可なくモフり倒したら、完全に変質者に成り下がってしまうぞ……!)
自分に言い聞かせ、そっと目を見開く。いかにも「今起きた」という顔で。
しかし、このままだと自我崩壊しかねない。僕は理性を総動員して、彼女に「離れろ」と告げた。すると彼女は、ためらうことなくあっさり離れていった。
……血の涙が出そうだった。
僕はどうしようもなく自覚してしまった。"獣型"と"人型"、二つの美しい姿を持つファルに、完全に恋に落ちてしまったのだ、ということを。
それから、"獣型"の彼女は素晴らしい嗅覚で出口を見つけ出し、僕が体当たりで壁を壊した瞬間────、一目散にその場から逃げ出した。
それはもう華麗な逃走で、僕は惚れ直し……てる場合じゃなかった。
ファルは盗賊として指名手配中だ。放っておけば、騎士団や警備隊に追いまわされ、捕まって処罰される可能性が高い。
しかし彼女の逃亡を手伝えば、自分を雇ってくれた国や同僚を裏切ることになる……
苦悩する僕の脳裏に、バウエルや、今まで出会った友の顔が次々とよぎった。そして最後に思い浮かんだのは、お人好しの盗賊の娘と、美しい漆黒の狼。
……やはり、自分を欺くことはできない。ここでファルを助けなければ、一生後悔する。
決意を固めた時、ふとローブにくっついた黒い獣毛に気づいたのだった。
…………それからも、紆余曲折はあった。彼女の獣毛を使って、徹夜で新しい魔方陣を開発したり、遺跡を巡ってそれを大量に設置したり。
たとえ変態とそしられようと、彼女を助けたい一心だった。
僕の家から逃走したファルを追う過程で、"裏通りの骨董屋"を発見し、騎士団に引き渡す一幕もあった。
とにかく、ファルは有名になりすぎたんだよな。彼女がいくら平穏な暮らしを望もうとも、この国ではもはや叶うことはないだろう。
面目を潰された騎士団も、躍起になって彼女を探していた。だからこそ。
何としてもファルをどこかに逃がしてやらねば、と僕は誓った。
どうにかファルと再会し、"星神の誓い"で安心させ、僕は彼女を食事に誘うことに成功した。そして、向かい合って話して、遠い国への移住をすすめる。
ファルも同じことを考えていたようで、こちらの提案をすんなり受け入れてくれた。僕はここぞとばかりに全力で支援して、ファルの移住を手助けしたのだった。
────こうして僕は、彼女の友人という立場を手に入れた。それからはいろんな口実で、月に二回ほど会いに行った。
友人以上の関係を望まなかったのは、ファルが希少な若い"人狼"であり、血を繋ぐために、同族を伴侶に選ぶのだろう、と強く思いこんでいたからだ。
その誤解は溶けた。
彼女は伴侶に同族は求めてない。なんだ。それなら僕でもいいじゃないか。
そう思った。
僕はさっさと宮廷魔術師を辞め、光速でファルの住むサリエラ王国魔術学院の講師に転職し、彼女のアパートの隣に転がりこんだ。
存在しないファルの"人狼"の恋人や、カフェで彼女に微笑まれる男客に嫉妬するのは、もうたくさんだ。あとは持てる力を尽くして、ファルを射止めるだけだった。
「……すごいなぁ。犬の方もエドアルドの愛情がわかるんだね」
「彼らは感覚が鋭いからな」
ファルをバイト先まで迎えにいった帰り道。
老人と散歩中の犬が、ダッシュで僕に寄ってきて、頭をすり寄せてきた。灰色の毛並みがきれいな中型犬である。かわいい。
僕にとってファルは一等特別だが、どの子もみんな愛しい。ひとしきり撫で回して、飼い主に挨拶して再び歩き出す。
横を見ると、ファルが微妙な顔をしている。「どうした、腹でも痛いのか?」と声をかけると、
「……どうせ"人狼"じゃなかったら、エドアルドはあたしなんか相手にしてなかったんでしょ」
ぼそりと呟くのを聞いて、僕は片眉を上げた。
心外だ。
足を止めて、彼女に向き直る。
「それは違う。……実を言うと、僕には人の令嬢がみんな同じに見えたんだ。違いが分からないから全然惹かれなかったし、そんな相手と恋愛や結婚なんて絶対無理だな、とずっと思ってた。でもファルは違った」
「えっ」
驚いた彼女は、金色の瞳をパチパチと瞬かせる。
「……でも、エドアルドって、生まれたての模様のない子犬でも、全然見分けついてたよね?
ヒヨコのオスメスも分かりそうな観察力だなって思ってたのに!」
「それは買いかぶりすぎだ」
つとめて冷静に返す。ファルは、この間近所で生まれた子犬を見に行った時のことを言ってるんだろう。
「僕にとって犬は特別だ。令嬢を見分けられないのは、興味がないからだろうな」
「じゃあ、同僚とか、学院の生徒さんとかは?」
「仕事で必要に迫られたら、何とか」
「……意味がわからないわ」
半ば呆れた彼女に、僕は誤解されてはいけないと力をこめた。
「ファルだけは、"人型"で初めて会った時から全然違って見えた。世界にそこだけ色がついたみたいに」
「…………あの、それって」
「一目惚れだ」
きっぱり言ったあと、無性に照れて、思わず目を泳がせる。ここまで言う必要はなかったかもしれん……
見ると、ファルも頬を赤くして俯いている。
二人して甘い雰囲気を醸し出していると、ふと周りの視線が気になった。
……そうだった。
ここは僕たちの住むアパートの近所。顔見知りを含む野次馬が足を止めて、ニヤニヤしながら僕たちを見守っている。
誰かが、ヒューと口笛をふいた。そこで僕は完全に我に返った。
「行こう、ファル」
眼鏡を指で押し上げながら、ファルの手を取って、その場からそそくさと逃げ出す。たぶん誤魔化しきれてないが、逃げるが勝ちだろう。
───アパートについて、バタンと扉を閉める。
「……もちろん狼のファルも好きだぞ」
「もういい。わかったから!」
言い忘れてた事をぼそっと呟くと、ファルはまた赤くなった。かわいい。
仕方ないひとだなぁ、と彼女が僕を見上げて苦笑する。でも、どこか嬉しそうだ。
自分が今とてつもなく幸せなように、彼女も幸せだったらいい。僕は心からそう願った。
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