ゴブリンと女騎士の幸福論
俗に言う「忌み子」という言葉はおそらく私のような者の為にあるのだろう。少なくとも私自身はそう信じている。
昔々、ゴブリンの群れに挑んだある女騎士がいたそうだ。しかし討伐の命に従い攻め込んだはものの、彼女はあえなく敗れ、囚われの身になった。
意地汚く、汚らわしい下劣な魔物の手の内に墜ちた女の末路など簡単に想像がつくだろう。ゴブリンはその習性に従い、彼女を慰み者にしたのだ。徹底的に犯し、尊厳を踏みにじり、凌辱の限りを尽くした。数か月の時が過ぎ、もう嫌だ、許して、そんな情けない泣き言を吐く余裕すらない程にその身を嬲られた頃、駆け付けた援軍に助け出される形で彼女の地獄も終わった。そして、悪逆の限りを尽くしたゴブリン達は皆討ち取られたそうだ。
その女騎士こそが私の母だ。群れのゴブリンに代わる代わる犯され、孕ませられた末に胎内に宿った醜い生命、それこそがこの私なのだ。
母が助け出された頃には既に妊娠から幾ばくかの時が経っており、泣く泣く彼女は出産という運命を受け入れたそうだ。望まぬ妊娠であろうと愛しい我が子であることに違いはないではないか、そう割り切れるほど人の心は簡単ではない。
想像できるか?己が内に得体のしれない化け物の命が宿っているという恐怖を、不安を、絶望を。おそらく凡人ではとても耐えられないはずだ。そして、彼女もまた平凡な一人の人間だ。憎きゴブリンの血を色濃く受け継いだ子に愛情を注げるはずもなく、私は生まれ落ちたその日の内に厄介払いされた。たらい回しに人づてで流れ着いたのは見世物小屋であり、私自身の記憶も全てはそこでの生活から始まる。
物心ついた頃、私の身の回りには冷たい鉄格子と日に一度きりの残飯、そしてあざけるような人々の視線だけが用意されていた。人より知能の劣るゴブリンの、さらに言えば幼児でしかない当時の私にその屈辱が分かるはずもなく、ただ私には漠然とした自由への渇望だけが燻ぶるのみであった。
五年の歳月を狭い地下で過ごし、私にもはっきり自我と呼べるであろう物が芽生え始めていた。そして、それは私が人間という存在に明確な敵意を抱いた頃とも合致する。訪れる客の嘲笑に檻の向こうから吠え立てる私を見世物小屋の管理者は容赦なく折檻し、その痛みにある日の私は初めて怒りという感情を抱いたのだ。
なぜ、どうして自分はいつも彼らに従っていなければならないのだろう?脳を駆け巡る疑問は一度よぎりだせばもう止まらない。気付けば私は彼の喉笛に食らい付き、その分厚い脂肪に覆われた肉を抉り取っていた。やせ衰えた身体から湧く飢えを横たわる屍で満たし、私は初めて陽光降り注ぐ外界へと這い出ることができた。
あぁ、それからの人生こそが私にとってはむしろ地獄であったのだ。ここに至って私は初めて死という恐怖に直面する日々に踏み込んだのだから。
いかに人間が魔物より優れた社会を築こうと、当然あぶれ者と呼ばれる者は現れる。路地裏の物乞い、貧民街の浮浪児などが良い例だ。そんな世界の底辺のさらにその下に私は位置していた。少なくともこの街では。
せめて人の子であれば命まではとられなかっただろう。惨めな境遇な者同士助け合い生き抜くことも出来たであろう。しかし私は醜いゴブリンの子なのだ。周りの全ては敵であり、彼らに見つかりでもすれば私は即座に駆除対象と認識される。日常が常に命懸けであり、毎日が生きることで精一杯だった。街の自警団に一昼夜追われた恐怖は忘れえない。腐臭に包まれながらありあわせの死肉を貪った体験も深く記憶に残っている。兵士から隠れ、ガタガタ震えながら過ごした夜などは今でも鮮明に思い出せるものだ。
ともかく街での生活は私の生涯で最も苦しく、おぞましい日々の具現だった。
転機が訪れたのはそれから数年後、魔王軍と王国が戦争を始めたときのことだ。
辺境に位置し、ある意味最前線に晒されるこの街にも魔王軍は雪崩れ込み、瞬く間に占領してしまったのだ。私は感じた。彼らは敵ではない、人間とは違うのだ、と。結果としてその予想は見事的中することとなり、私はやっと腰を据えて落ち着ける居場所に巡り会えたのだ。
私が街で生きてきて良かったこととして、身近に人間がいたからこそ、彼らの知識も多く吸収出来た点が挙げられる。魔王軍に籍を置いてからの私はその経験と見聞を活かし、どうにか出世の道を駆け登っていった。戦いを重ね、多くの敵を屠って回り、時には生死の間を彷徨う程の傷すら負った。しかしそれでも、無様に人間の影に怯えていたあの頃と比べればまだマシと感じれたのだ。
やがてその戦功が認められ、私は魔王陛下直々にゴブリン達の長へと任命された。
陛下は私におっしゃった。この戦いは全ての魔物の未来が懸かっている、日々人間に狩られる側だった我々だけの国家を建て、安住の地を創造するのだ、と。そうだ、その通りだ。この世界の隅々まで広がる人間の支配、その元では私たちは決して幸福になれない。彼らの領域内では我々は害獣としてのみ扱われるのだ。だからこそ陛下は人間の領域の一部を奪い返し、魔物だけの理想郷を作り出す結論に至ったのだろう。
なぜ戦いで解決しようとする、話し合えばわかり合えるはずだ、と声を荒げる者にも何度か会ったことはある。だが世の争いとはそんな簡単なものなのだろうか。事実母は血の繋がった我が子であろうと私を愛せなかった、つまりはそういうことだ。種族という隔たりはそれ程に深い溝を生む。
親の愛を知らず、さしたる信念もなかった私に陛下は新たな希望を与えて下さった。私の呪われた出自は変えられないのだろう、しかしこの後に続く代の子供たちにはそんな悲しい思いをさせたくはない。ならばこそ私はこの愚かな生涯を賭して魔物たちの独立を勝ち取らんと誓ったのだ。
あなたに出会ったのもちょうどその頃だっただろうか。たしか私は西方支部の指揮官として、あなたは敗軍の捕虜としての対面だったはずだ。囚われの女騎士とその前に構えるゴブリン、奇しくも私の両親とほぼ同じ状況に立たされ感慨にふけっていたのを覚えている。一つ異なるのは魔王軍は捕虜を丁重に扱ったことだろう。それは陛下ご自身の方針でもあるし、私の生い立ちから来る主義にも反するからだ。
最低限の衣食住は保証され、拷問もないと教えたときのあなたの反応には随分笑わされたものだ。鳩が豆鉄砲を食ったような顔で、なぜゴブリンの癖に女を襲わないんだ?と言われ思わず吹き出してしまったのも今ではいい思い出だろう。
そしてあなたは私が考えていた以上に優秀な人材だった。いつのまにやら他の魔物たちとも打ち解け、気付けばあなたは魔王軍の大切な一員になっていたのだから。時には背を預け共に戦場を駆けまわり、またある時には王国側との交渉で大いに助力してくれた。思うに、魔王軍がここまで強大になれたのもひとえにあなたという存在がいたことによるものが大きいのだと感じる。
だからこそ悔しい、余りにも悔しすぎる。あと少し、この戦いを制せば陛下の望む楽園に辿り着けるというのに、私の命ではそこに辿り着けないというのだ。この胸に深々と刺さった刃が、とうとうと流れ落ちる血潮が、この肉体の終わりを告げようとしているのだ。口惜しい、口惜しい。混戦のどさくさに雑兵に不覚をとるなど、誠に自分の運命を呪うばかりだ。こうして己の半生を振り返るのも走馬灯によるものか、否、口を開くたびに吹き出る血反吐は確かに私が言葉を紡いでいる証拠だろう。
あぁ、そんな悲しい顔をしないで欲しい。なんのことはない、生まれては母に迷惑をかけ、生きては多くの命を奪い、死しては陛下に忠義を示し切れない半端者が一人消えていくだけなのだ。私自身が多くの悔恨を抱えていようと世界には何ら大きな損失などない。だから泣かないで欲しい。やはりあなたのような美しい女性には涙ではなく、笑顔の方がよく似合う。
そういえばあなたはよく私と行動を共にしていたものだ。望めばもっと好待遇の陣地にでも行けたというのに、転戦の打診を受けるたび断っていたあなたの心中は終ぞ察せぬままだ。
今わの際の戯言だと思って聞いてくれ。私はあさましくもそんなあなたに心を寄せていた。その明るい笑顔に、優雅に戦場を舞う様に、そしてなによりも誰からも嫌悪されてきた私たち魔物に心を開いてくれたことに心惹かれたのだ。それが忌まわしき強姦を経て生まれた私にはおこがましすぎる恋慕であると、何よりあなた自身を傷付けかねない劣情だということも分かっている。分かってはいるのだが打ち明けずにはいられないのだ。自分の死が迫れば私とて我欲が前に出てしまうのだろう。
そうだなぁ、回りくどい語りはよそう。単刀直入に言うならそっと抱きしめて欲しいんだ。せめて死ぬ前くらい誰かの温もりに包まれていたいのだ。
おそらく私はずっと寂しかったのだと思う。母に愛されたかったのだろうし、他者に罵声を浴びせられたくもなかったのだろう。この無様で惨めで下らない生涯に一度でいいから誰かの愛を受け取りたかった、ただそれだけだ。
忘れてくれ。穢らわしいゴブリンの断末魔と思って聞き流してくれ。
どうしたんだ、まさか本当に抱き着いて来るなんて。よせよせ、きれいな顔に薄汚い血糊がついてしまうだろう。こんな化け物の願いなんか無視していいんだ。……なぜ、どうしてそこまで私に優しく接してくれるんだ?
「私もあなたを愛しいと感じているのです。」
ははは、そうか、そうなのか。ああ、本当に喜ばしい限りだ。今日は最高の一日だ。しっかりと感じられる、人肌の温もりが、あなたの優しさが。それがどれほど心に響くものなのか、とても言葉では表せない程だ。ありがとう。あなたのおかげで良い人生になったよ。これほどの贅沢な幕引き、ゴブリンには過ぎたる栄光だ。
おかしいな、目頭が妙に熱く感じる。あなたの顔すらぼやけて見えなくなっているんだ。変な話だろう、魔物の癖に私まで涙を流すなんて、あり得ないのになぁ。
母と父の関係性はお世辞にも幸せとは言い難い。しかし、少なくとも私自身は今この瞬間を幸福だと感じられている。嬉しいのだ、こんなろくでもない出自の怪物が誰かとの愛を叶えられたという事実が。あぁ、この時間が永遠に続けばいいものを。
冷え切ったこの身体に彼女の温もりを感じながら私はあと数刻ばかりの生を噛み締めたのだった。
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