勇者だった男
(ああ、俺はどうしてしまったのだろう)
星がキラキラと輝いている。
雲一つ無い夜空を見上げ、かつて勇者だった男は一人考える。
思考はモヤがかかったようにハッキリしなくて、記憶も一秒ごとにさらさらと両手で掬った砂のようにこぼれていく。
自分という存在が分からない。
すでに己の名すら忘れてしまったのだ。
――― 心配しなくて良いんだよ。今君は人から脱却しようとしている。進化とは痛みを伴うものだ。
身体の内側から声が聞こえる。
それは少年のようでもあり、女性の声のようにも聞こえ、もしかすると自分自身の声なのかもしれなかった。
(人からの脱却? 俺は魔物にでもなろうとしているのか?)
自分自身と問答するという奇妙さに、勇者だった男は全く気がついていないようだった。
――― それは進化してみないとわからない。でも魔物では無いだろうね、きっとソレはもっと高尚な存在だ。
(高尚な存在? 神にでもなるというのかい?)
――― それもいいかもしれないね。
――― でもボクとしてはもっと刺激的な存在が望ましいかな。
(刺激的?)
――― そう、たとえば・・・・・・・・・
――― 悪魔とか
「お取り込み中の所悪いデスが、ここで死んで貰いマス」
突如背後から聞こえた聞き覚えの無い声と供に灼熱の炎で背中を炙られる。
肉の焦げる嫌な音を聞きながら地面に転げて背中の炎を消して勇者だった男は襲撃者に向き合った。
目を引くのは身に付けた派手な道化服。白と黒でペイントされた仮面をつけ、表情はわからない不気味な男が仰々しく一礼をした。
「私、魔王ジェミニと申しマス。いきなりですが貴方様は我が主の計画の邪魔となりますのでここで始末させて頂きマス」
わからない。
何故自分が命を狙われるのか。目の前の男は何者なのか。
魔王という言葉には少し引っかかりを覚えるが、今確かなことはここで反撃しなくては目の前の道化に命を狙われるという事だけだった。
――― ああ、そうだね。まずはコイツを殺そうか。
身体の内から聞こえる声に呼応するかのように心臓がドクンと大きく脈打った。身体がメキメキと音を立てて軋み、戦闘に適した構造に細胞が組み変わる。
「おオ! 何とも凄まじイ!」
そう言いながら道化は両手を大きく広げ、左右の手にそれぞれ巨大な火の玉を纏った。
勇者だった男の背中の肉がメリメリと裂け、中からぬるりと一対の翼が姿を表す。
――― さあ、行くよ。




