死後の世界
どうやら私は死んでしまったらしい。
闇の中に私は浮かんでいた。何も見えず、何も聞こえない。だが奇妙なことに、視覚と聴覚は機能していると直感的に分かる。とっさに自分の体に触れてみようと試みたが、私の手は動かなかった。いや、動かせなかった。おそらく腕はそこに存在していないのだろう、まるで糸の切れた操り人形を動かそうとしているかのように私の意識はむなしく空を切った。意識を次第に全身へと広げてみるが、反応はどこからも戻ってはこない。暑さも、寒さも、重ささえ感じない。全身が麻痺をしているという可能性も考えたが、最終的に肉体を失ってしまったのだという結論に落ち着いた。器から剥き出しになった魂の開放感を覚え始めてきたからだ。呼吸をしていないことに気がつき、不思議な心地になった。
信心というものに縁がなかった私は、神も仏も信じず、とうぜん天国や地獄の存在も信じてはいなかった。人は死ねば“無”になると考えていた。電源を抜かれたテレビの画面のように、ぷつっと何も存在しなくなるものだと思っていた。だが、こうして実際に死後の世界を訪れてみると、私の予想は半分正解で、半分は間違っていたのだと分かった。無の世界というのは当たっていたが、まさか自我と意識が残っているとは思ってもみなかった。
肉体を失い、ほとんどの感覚を無くしてしまったからか、感情は希薄になっていた。恐れも、不安も、驚きも、あまり感じてはいなかった。全く感じなくなってしまったというわけでもなかったが、それらは、ニュースで見た、どこか遠くの国で起こった事件のように感じられた。ホテルのロビーに置かれた大きな陶器の壺のように、関心を引くこともなくただそこにあった。
それにしても、見聞きしていた臨死体験者の話とはずいぶんと異なっているではないか。私はぼんやりとした意識のなかで考えていた。話によれば、死後の世界とはトンネルを潜り抜けた先で暖かな光に包まれ、安らぎに満ちた幸福なひとときが待っていると聞いていた。だが、ここには暖かいどころか光そのものが存在せず、安らぎもない。ただただ空虚な時間が流れているだけではないか。もっとも、時間さえ流れているのか知る術もないが。
そのとき私は、意識が段々と薄れつつあることに気がついた。煮え立つ湯の中に投げ込まれたコンソメキューブのように、このままでは周囲から溶け始め、やがて形を失ってしまうだろう。実際のところ、この虚無の空間にまんべんなく広がり一体となって、意識を失い、自我を消滅させた方が楽であり、それが自然な成り行きなのかもしれない。だが私は抵抗した。拡散を始めていた意識をかき集め、まとめて縛りつけた。それは、生物としてあったときの生存本能の残滓が行わせたのかもしれない。
私は意識の糸を撚って編み続けるために、考え続けた。だが、思い出を呼び起こしてみても心を揺さぶることはなく、ほどけていこうとする意識を止められそうにない。考えはまとまらず、あちらこちらへふわふわと漂うばかり。そこで私は刺激を欲した。なにか刺激が与えられれば、そこを中心にして意識をまとめられるのではないかと期待したのだ。
私は光を望んだ。すべての意識を集中させて、光り輝く太陽を思い描いた。望みが叶う確証などまったくなかったが、それでも魂だけの存在になった私は、文字通りすべての魂を込めて光を願った。
すると突然、まばゆい輝きが私を包んだ。瞼を持たない私は目を閉じることが出来ず、視覚の意識をそらせた。闇に覆われていた空間は今、光に満ち、さんさんと周囲に光を放っている太陽が浮かんでいた。魂に直接光を受けた私は、暖かな心地に満たされていた。思考が光と影を得て、はっきりと実体を持ちつつあるのを感じる。
今、太いロープのように編み上げられた意識を私はしっかりとつかんだ。続いて大地を望む。緑が豊かな草原を想像した。すると、思い描いたとおりに、緑の草に覆われた大地が現れた。輝く太陽の下、草原はどこまでも続き遥か彼方に地平線が生まれた。
続いて私は、海を望み、山を望み、そして山と海をつなぐ河を望んだ。河のほとりには深淵なる森を配置し、太陽が輝く空には雲を浮かばせた。美しい世界が出来上がった。私はある一点から世界を眺めているようでもあり、また、世界と完全に一体化し、世界が私そのものであるようにも思えた。
創造のこつをつかんだ私は、今度は世界の住人の配置に取りかかった。空には鳥を、海や河には魚を、山や草原には獣を置いていった。世界は活気を帯び、美しさを増した。日は山から登り、海へと沈む。海上で大きな雲が生まれ、大地に雨を降らせ消えていく。風が草木を大きく揺らす。住人たちは産まれ、子を産み、死んでいく。早送りのようにものすごい勢いで時が流れていく世界を、私は満足気に眺めていた。
そのうちに、獣のある種が文明を持ち、田畑を作ったかと思うと、住居を建て始めた。文明を得た民は、大きな建物を造り、そこに集うと私に呼びかけてきた。私はその声に耳を傾け、民に対しての愛おしい気持ちを膨らませていた。
「あなたっ! ねえ、起きてあなたっ!」
ただならぬ声で呼ばれ、私は目を覚ました。はうっと大きく息を吸い込み、全身がびくっと跳ね上がる。朦朧とする意識のなかで重い瞼をようやく開けると、覗き込むように妻の顔がそこにあった。涙に濡れた顔は酷い有り様だ。背中に冷たく硬い床の感触がある。どうやら仰向けで横になっているようだ。
胸の辺りを触ってみると、シャツは大きくはだけられ、露わになった胸には、なにかプラスチックの板状のものが肌に貼りつけられてあった。
「いったい……どうしたんだ?」
「どうしたじゃないわよ。突然倒れて、心臓が止まっちゃって……よかった、無事でよかった」
妻は首筋にしがみついて、大声で泣き出した。頭を動かし辺りを見てみると、大勢の人たちが私たちを囲み心配そうな、ほっとしたような表情で見つめていた。
男性が私の胸からパッドを外しながらいった。
「すぐに救急車が来ますから。蘇生がうまくいってよかった」
「ありがとうございます」妻が泣きながら礼をいう。
私は発作を起こして倒れていたようだ。すると先ほどの経験、あれは臨死体験というものだったのだろうか、それともただの夢だったのだろうか。何千年とも何万年とも思えた、長くリアルな感覚と光景を私は反芻していた。
救急車のサイレンが遠くから聞こえた。創造した世界とその住民たちは何処へいってしまったのだろうか、私が去ると共に消え失せてしまったのだろうか。私は混濁する意識のなかで考えていた。




