* Mid August Brothers
翌日、八月十二日の昼間。
ベラはひとり、コンドミニアムのアゼルの家を夢中で掃除していた。シーツやカバーの洗濯をしてはバルコニーに干しながら、溜まった埃を拭きとり、窓を磨いて、床にはモップをかけた。あたりまえのようにここに来るようになってから、時間があれば少しはするものの、ここまで本格的に掃除をしたのははじめてだ。調理器具を買いに行った時、ついでにと買っておいたものたちがやっと役立った。
普段は入らないもうひとつの部屋も、鍵を開けておくようアゼルに頼んだので、そこも掃除の対象だった。なにが入っているかわからないクローゼットは開けていない──彼は言わなかったし、彼女が訊くわけもない。その部屋のドアに鍵をかけている理由はひとつしかなかった。
マブと違い、彼はこの家に時々、ヒトを招き入れる。だがベッドのあるそこを見せてしまうと、誰かがそこで眠ると言いだすかもしれない。それを避けるためだ。
かつてマブに置かれていたその家具たちは、ベラにとってはもちろん、アゼルにとっては特に、どれも思い入れの強いものだ。捨てたつもりはないけれど置き去りにしてしまい、失ってしまった過去そのものといってもいいだろう──自分たちと、そしてマスティ、ブル、リーズとニコラ以外の人間は、誰も入れたくない。彼は他の人間たちには、その部屋をただの物置だと言っているようだ。
そんなアゼルはといえば、一度はベラが作った朝食を食べに起きたものの、今はベッドルームのベッドですやすやと眠っている。シーツやクッションは洗濯のためにすべて取り払われているが、どうやら関係ないらしい。かまわずその部屋の掃除も静かに済ませたものの、わざと起こす気はないので、けっきょくCDコンポは移動しないまま、ベラは自分のCDプレイヤーで音楽を聴きながら行動していた。
眠くないといえば嘘になる。睡眠が足りていないのは彼女も同じだった。けれどその睡魔が行動力に繋がることもある。彼との睡眠時間にズレが出ると面倒なことになるのはわかっていたが、それでもベラは、眠るよりも掃除することを選んだ。ほとんどは、したいと思えばやらないと気がすまない性質なのだ。
数時間に及ぶ掃除を終えた頃、時刻はすでに午後二時になろうとしていた。シャワーを浴びようと再びベッドルームに戻ると、ちょうどアゼルも起き、ふたりは一緒にシャワーを浴びた。くたくたになったベラは当然、このあとのランチを終えたら眠ると言ったが、わかりきったことではあったものの、そんなことは許可されるはずがなかった。
ベラは洗濯を終えた最後のシーツを持ってバルコニーに出た。南向きのリビングから行けるバルコニーは、マブを再現した物置部屋とも、そしてマスターベッドルームとも繋がっている。リビングに面した南側は少し広めで、テーブルとチェアのセットを置いても余裕だといえる幅がある。おかげで思う存分シーツを広げられた。
近くに高層の建物はないので、そこからはフィールド・リバーを含むベネフィット・アイランドの田舎景色が見渡せる。ふと、ベラは順番を間違ったような気がした。外は快晴で、今は陽射しがいちばん強くなる時間帯だ。洗濯には向いているのだろうが──シャワーのあとにすることではない気がする。
などと思っていると、風が少し強く吹きはじめた。数枚のシーツがバタバタと音を立てて風になびく。早めに洗ったクッションはもう乾いていた。この陽射しと風があれば、クッションカバーやシーツもすぐに乾くだろう。
「そういう手があったか」
上半身裸、下はジャージという格好のアゼルがリビングの開け放った窓から言い、黒いミニワンピース姿のベラは振り返った。
「はい?」
バルコニーに出て彼女の手を掴むと、部屋側の壁に彼女の背中をあずけさせた。彼が顔を近づけて微笑む。
「“外”があった」
「ねえ。暑いよ。おなかすいたし。シャワー浴びたばっかだし。また汗かく」
「夕方またシャワー浴びりゃいいんじゃね」
「いっぱい寝て元気いっぱいですか?」
「暑さにやられそうではあるけどな」
「私はこのままここにいたら、暑さと眠気にやられそうよ」
アゼルは無視した。両手で彼女の脚を下から上へと撫でる。「お前、高所恐怖症とかじゃねーよな」
「まさか」
「ここで突っ込んでも、誰も気づかねーと思うか?」
「ねえ、外でしようとする時、なにがなんでも止めろって言ったよね」
「隣とは離れてるから見えるわけない。下はいるけど、声我慢してりゃ平気なはず」彼女の下着をおろしていく。「うしろから突っ込んで、当然外向いたりもする。突っ込んでるとこは誰にも見えねえ。誰も気づかねえだろうけど、もし気づいたら、なにしてんのかくらいはわかるかも」
「殴ってでも止めるって約束は、どうしたらいい?」
また無視して、彼はベラにキスをした。
「──あちこち窓全開にしてるから、部屋と同じだと思っていいんじゃね」
笑って、彼の首に手をまわす。
「暑さに耐えられなくなったら中に逃げるからね」
「わかってるっつの」
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「俺もサンダルでサッカーしたことある。小学校の時だけど」
窓を開け放ったリビングのソファの上、チョコレート味のソフトクリーム片手にアゼルが言った。彼の左腕に背をあずけ、ベラも同じものを食べている。ソフトクリームといってもコンビニで売られているものなので、彼女たちが好きなやわらかさは微塵もないうえ、ワッフルコーンではなくソフトコーンだ。
「ほんと? サンダル、キーパーに顔面シュートした?」
「いや。ゴール決めて、けどサンダルはゴールネットの上に乗っかった。キーパーはどっち見りゃいいかわかんなかったらしいな。呆然と立ち尽くしてた」
ベラは笑った。「私も学校の来賓用スリッパ履いたまま、体育館でバドミントンしたことあるけど。スニーカーじゃないと滑らない?」
「滑るけど慣れたら平気じゃね。脚の筋肉すげー使うけど」
「使う使う。無駄に足腰鍛えられてる気がする」
「んでそのあと、サンダル回収するためにブルやマスティと、あと何人かがゴールポストで格闘しだして。下からボール当てても跳ねるだけで一向に落ちてこねーから、五人くらいがゴールポストの枠にぶらさがってそれ倒して。放置して逃げたんだけど、俺らが遊んでたのがどっかからバレて、あとからめっちゃキレられたっていう」
「あんたにもそんな時代があったのね」
「俺はやってねーよ。サンダルないから見てただけ」
「でも私が知ってるあんたたちは、好きなこと以外、基本的に無気力だった。たいてい三人でいたし」
「五、六年の頃から誰が喧嘩強いかとか、中学入ってからは上下関係がどうのこうのってのがはじまったからな。上の奴らにぺこぺこしてる同期の奴ら見てると、マジでうざくなった。それしてなくても、そのヘタレ共とフツーにツレやってる奴らのことがイヤになったり。まあいろいろ」
「入学した時、やっぱりボス猿決めるのとかもあったの?」
「そのまえから、ちょこちょこ上相手にモメてたし──けど、この話はしたくねえ」
めずらしいと思った。「負けたの?」
「んなわけあるか」
自分のぶんを食べ終えたアゼルは、残り少なくなったソフトクリームをベラの手から取った。彼女が怒るのもかまわず、彼はそれを食べた。
ベラが顔をしかめる。「足りないなら新しいの出せばいいじゃない」
「最後の二口、食うか?」
「私のよ」
「金は俺が出した」
「選んだのは私!」
「んじゃこっち来い」
従って、ベラはアゼルの脚の上、彼のほうを向いて座った。
「ソフトコーンはもういらねえよな」と、彼が言う。
「もともとソフトコーンに興味はない」
「あとで捨てろよ」
そう言うと、アゼルはソフトクリームを一口、口に含んで、そのままベラにキスをした。外側の溶けたそれが、口から口へと移される。甘く、冷たさはほとんどなかった。
唇を離して彼女が笑う。「おいしい」
「もう一口できる」
「じゃあ今度は私がする」
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数時間後。
ベラとアゼルは、タクシーでコンドミニアムに来たモンタルド兄弟──ケイとマルコに会い、アゼルの車で夕食を食べに行った。マルコはやはりベラをからかったし、彼女はやはり不機嫌に返していた。そんな関係は今にはじまったことではないので、ケイはまったく気にしていなかったが。
その後四人はアゼルのコンドミニアムへと向かった。
「すっげ! 広い!」リビングに入ったケイが興奮気味に言った。「ベラの部屋、ふたつくらい入るんじゃねーの?」
「んなわけあるか」と、キッチンからアゼルが答える。彼は冷蔵庫を開けた。
「あ、けどベラが昔住んでたコンドミニアムよりは──」彼女に訊く。「狭い?」小学校を卒業するまで彼女が両親と住んでた家のことを言っている。
「さあね」ベラは答えた。「よく覚えてないから。でもあそこ、部屋みっつかよっつあったんじゃなかったっけ」
「あ、そーだそーだ。それこそ今のベラの部屋がふたつ入りそうなくらい」
「お、アイス発見」冷凍庫を開けたマルコが言った。「買いすぎだろ」
「アイス!?」ケイがカウンターに駆け寄る。「食いたい! 食っていい?」
ビール瓶を開けながらアゼルが答える。「ベラに訊けよ。好き勝手食ったらキレられるぞ」
マルコもビールをとる。「お前が飲むなら俺も飲む」
「最初から飲む気で来てるだろお前。なんでタクシーだよ。送らねーぞ」
「めんどくさかっただけだから気にすんな」
ケイもキッチンへと入った。食べていいものをベラに確認、彼女の了承を得ると、すぐにアイスクリームを食べはじめた。
四人はリビングのソファに座り、ベラもマルコから受け取ったビールを開けた。
「今までぜんぜん考えてなかったけど」と、ベラの隣でケイがマルコに言う。「オレらの家って、将来的にどっちのもんになんの?」
彼は二人の向かいに座っている。「当然俺だろ。長男だし」
「やっぱそうなんの!?」
「似合わない気がする」ベラはつぶやいた。「こんな暴力団崩れが、あの大理石使いまくりのシャンデリアつきの家って、なんか」
ケイも同意する。「だよな。結婚なんかしなさそーだし。してもすぐ別れそーだし」
彼らの家に行ったことのないアゼルも便乗する。「離婚の原因は絶対マルコで、裁判沙汰になって慰謝料代わりに家取られそーな気が」
マルコは怒った。「お前ら、揃ってぶっとばされてーのか」
「今からシモーナたちに頼んでおきなよ」ベラはケイに言った。「家だけは絶対あんたのになるようにしてくれって」
彼が笑う。「言っとく」
「んじゃ他の金はぜんぶ俺のもんな。お前には一銭もやらねー」
「はあ!?」
ビール瓶片手に、アゼルは呆れた顔を見せた。「兄弟いるとこうなんだな。めんどくさ」
「っていうか、歳の離れた兄貴なんだから、そこはぜんぶ譲ってやるって言えばいいだけのような気が」と、ベラ。
「それは無理だろ。こいつはもともと、遊んで食ってきたい人間だぞ。そもそもこいつのこの性格で一年も屋内仕事続いてるっつーのが、ほんと不思議でしょうがない」
アゼルの言葉に、マルコは顔をひきつらせた。「屋内っつっても俺は印刷のほうにいんだよ。おとなしく事務仕事してるわけじゃねーんだよ」
「あ、それでまた謎が」ベラが切りだした。「そもそも会社は誰が継ぐの?」
「それも俺だろ。長男だし会社で仕事してる」
「え、社長すんの? あんたが?」
「むしろそっちのほうが性に合ってる。コキ使われんのよりは絶対」
「でも社長って、社員まとめる立場なわけでしょ? コキ使うって意味なら間違ってはないかもしれないけど、まとめるってタイプでもないじゃん」
ケイが割り込む。「それに、オレが高校出てから会社で働きだしたら? しかも印刷の部署とか微妙な立場のところじゃなくて、もっと親父に近いとこで。オレのほうが出世早くね?」
彼女が笑う。「ケイはヒトまとめるのも得意だもんね。面倒だって言いながら、けっきょく中学の文化祭や球技大会でもまとめ役、やってるし」
「それはお前のおかげ。お前とのやりとりでけっきょく、今もリーダー的なの続いてる」
マルコは鼻で笑った。
「これだからヤなんだよ、群れるタイプの奴らは」
これにはアゼルも同意する。「リーダーってなんだよってな。いちいちあれこれ命令してくる奴がいたら、それだけで殴りたくなる」
ケイが反論する。「べつに命令してるわけじゃねーもん。来るんだからしょーがないじゃん」
ひとまず、ベラは彼の弁護にまわることにした。「気にすることないわよ。ロクにヒトまとめられない奴らの言うことなんて」
「っつーかお前がいちばん意味わかんねえんだよ」マルコが言った。「お前はどっちなんだよ。一匹狼がいいとか言いながら、けっきょくヒト仕切ってるだろ」
「私は仕切ってるんじゃないわよ。やりたいことをやってるだけ。勝手についてくるだけ」
「それを仕切ってるって言うんだろうが」
「自己中貫いてるだけだもん」
ケイが口をはさむ。「いや、自己中って言うけど、けっきょく仕切る立場に立ってるって、お前」
「ねえ、私さっき、あんたの味方したよね。なんであんたまでそういうこと言うの」
「だってホントだし」
「仕事じゃ雇われてるのよ」
マルコが割り込む。「お前自己中節全開じゃねえか。けっきょく群れを仕切ってるっつーかリーダー的なこと、やってんじゃねーか」
「ちょっと待ってよ。店はスタッフも客も、みんな年上ばっかりよ? 十六の小娘が年上連中を、しかも二十歳やそこらじゃなくて三十に近い連中を、好き勝手に仕切れると思ってるの?」
彼らは黙った。
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途中誰かが抜けたり交替したりしながら、ケイが持ち込んだテレビゲームをしていると、時間はあっというまに過ぎた。
「疲れた」と、ケイは這い上がるようにしてベラのいるソファに寝転んだ。「眠くなってきた」
「あんた、夏休みなのに夜更かししてないの?」彼女が訊いた。
「たまにしてるけど、エアコンは強制タイマーだし、朝は暑くて寝てらんない。昼間は文化祭の準備があるしダチと遊ぶし。たまに昼寝するけど、生活狂ってるって気づいたら睡眠時間削って元に戻そうとするから、わりといつも寝不足な感じ」
「去年の春休みなら、私はそんなの気にしなかったけどね。私も今日は眠い」
彼は仰向けになって彼女を見上げた。
「お前、ミッド・オーガストのあいだずっとここにいんの?」
「仕事も行くよ」さらりと嘘をついた。「アゼルがね、一日中私の顔見てたらムカついてくるんだって」
「んなアホな」
アゼルはマルコと一緒にゲーム機の片づけを終えた。ビール瓶片手にソファへと戻る。
「うるせーんだよこいつ。どっか連れてけだのあれするこれするって」
ケイは笑った。「オレと一緒だ。オレも休みの日とか、昼間に兄貴がいる時、いつもそんなこと言ってる」
ソファに腰をおろしたマルコはテーブルの上にある煙草を手にとった。
「お前ら二人でどっか行きゃいいんじゃね」
ケイが顔をしかめる。「車ないんだから、ドライブになんないじゃん」
「このクソ暑い中外に出ようとする意味がわかんね」と、アゼル。「っつーか俺ももう眠い」こちらもさらりと嘘をついた。「そろそろ帰れ」
マルコが彼に言う。「んなこと言って、どうせ俺らが帰った瞬間ヤりまくりだろ」
ベラは耳を塞ぎたくなった。アゼルは動じない。
「さあ。この暑さだしな。ヤるのも暑い」
「ヤらねーならベラはいなくてもいいわけだよな。ついでに乗せてってやろーか、どうせ帰り道だし」
「好きにすればいいんじゃね。そしたら俺はゆっくり寝れる」
「んじゃケイ置いてってやる。俺はベラ連れてタクシーでどっかしけこむわ」
「いやいやいや」ケイは勢いよく身体を起こした。「ベラとどっか行くとかマジでやめて。兄貴とベラがどうにかなるとか、マジでやめて」
「どうにかってなんだ」
「いやもう、ヤるとかやめて。ベラがほんとに姉貴だったらって思ったことは何回もあるけど、そういう意味じゃ絶対イヤ」
「いつ誰がこいつと結婚するとか言ったんだアホ」
タクシーで走り去るモンタルド兄弟を見送ったあと。部屋に戻ると、アゼルはリビングのカウンターチェアに腰かけた。
「あいつ、やっぱお前とヤりたがってんだな。ケイの考えも謎だけど。なんだあの兄弟」
苦笑ったベラは彼の脚のあいだに割り込み、彼の首に手をまわした。
「でもケイの考えはわかる。弟だけど、私がマルコとどうにかなってっていう、そんな方法で身内になったりするのはイヤ」
「誰も結婚とは言ってねーよ。単にヤるって話」
「だから、そんなことしたらね。結婚じゃなくても、なんか変な繋がりができちゃうじゃない。そんなのはいらないの」
「よくわかんね」
「気にしなくていい。なにがなんでも、どうにもならないから」彼に抱きつく。「もう一回シャワー浴びて、寝てもいい?」
「無理」




