* Nightmare
この五日間、新居に帰るたび、ベラは毎回同じことを考えていた。そして今日、六日めも、やはり同じことを考えた。
“新居”と呼ぶには、夢も希望もなさすぎる。
エントランスのドアを開け、リビングに入った。照明のスイッチをひとつだけ入れる。ちゃんとは片づいていない、物がほとんどない──自分の現状を具現化したようなその光景に、思わず溜め息が出た。右手に持っていたハンドバッグとキャリーバッグを置き、窓際にある、日曜に買ったばかりの赤い三人掛けソファに寝転んだ。
先週金曜、中学に入学する前の春休みから三年間一緒に暮らした祖母が、亡くなった。突然のことだった。
三年間顔を見せないどころか、連絡すらよこさなかった母親が、急に電話をかけてきて、それを知らせた。
ベラが病院に行くと、祖母はすでに亡くなっていた。さよならも言わせてくれなかった。ただ“ごめんなさい”と“愛してる”を伝えるよう、母親に頼んだだけで。
その二日後の日曜、この部屋を手に入れた。ベラ本人が母親に頭を下げて頼んでのことだった。地元であるウェスト・キャッスルにはもういたくないからという理由からだ。
あの場所で、彼女は最初の“家族”を失った。愛していた両親の離婚。それは突然ではなかった──真夜中に怒鳴り合う声が聞こえるようになり、幼かったベラはとても怯えた。しばらくのあいだ、両親は彼女の前では仲のいい夫婦を演じていたが、じきにそれもなくなった。それどころかベラですら、両親と会話を交わすことがなくなっていった。そして彼女が小学校を卒業すると同時に両親は正式に離婚、住んでいたコンドミニアムを出た。
ベラは母方の祖母の家へと引き取られた。同じウェスト・キャッスルの、ニュー・キャッスル地区ではなくオールド・キャッスル地区で暮らしていた祖母の家だ。ベラは子供らしさをすっかり失くしてしまっていたが、その家を追い出されれば、あとはもう施設に行くしかないと知っていたので、祖母の前では“いい子”を演じていた。けれど数ヶ月経った頃には、彼女は祖母とどんどん打ち解けていた。
オールド・キャッスルに引っ越してすぐ、年上の友人ができた。祖母の紹介だったが、話しているうちにそんなことは関係なく、一緒に遊ぶようになった。そこで、ひとりの男と知り合った。
アゼル・ルシファー。子供ながらに、彼女が唯一愛した男。
だか彼は、去年──ベラが中学三年生になる前の一月、突然姿を消した。もともと敵の多い問題児だったアゼルは、よりによってベラの祖母の家で彼女と一緒にいる時に、突然消えたのだ。真夜中に、おそらく電話で呼び出され、喧嘩をしに行った。相手は複数人で、状況的には正当防衛。けれど彼は、相手に相当な傷を負わせたという。結果、刑事事件には発展しなかったものの、更生施設に送られた。予定では一年ということだったのに、一年と四ヶ月が経った今でも、彼は戻ってきていない。
不安定になっていたベラの精神にさらに追い討ちをかけたのが、アゼルを失ってから二ヵ月後に起きた事件だった。
ひとつ年上の、同じ中学に通っていたある男が、ベラに恋をしていた。それに気づかず、ベラのいちばん大切にしていた女友達、アニタが、その男に恋をしていた。男は数ヶ月に渡り、ベラに近づくため、アニタを利用していた。彼女は利用されているだけとも知らず、どんどんその男に夢中になった。彼女は数ヶ月の片想いの後、告白しようとしたところで、男に好きな女がいることを、さらにその相手がベラであることを知った。混乱したアニタは、当然のようにベラに八つ当たりした。知らず知らずのうちに彼女を傷つけていたと知ったベラは、男に復讐を遂げた。
その後謹慎を言い渡されるも、アニタとの仲はどうにか戻ったものの、ベラの精神状態はより不安定なものになっていた。それにも関わらず、さらに事件が起きた。
三年生になる前の春休み、年上の友達四人が、かつてアゼルと一緒によく遊んでいた友達四人が、アゼルのための復讐なのか、彼とモメた相手を襲って、更生施設に送られることになった。ふたつ年上のマスティとブル。ひとつ年上のリーズとニコラ。彼ら四人は、大人たちの話し合いにより、簡単には会いにいけない距離にあるプレフェクチュールの更生施設に入れられた。しかもベネフィット・アイランドを三年間追放という処置をとられているので、その更生施設に備わっているという学校を卒業するまでは、彼らは一切地元には戻ってこられず、会えないことになる。
ベラは絶望の中にいた。それでもどうにか現実を受け入れ、どうにか立ち直った。時々寂しさでどうにかなりそうなことはあったものの、意地や怒り、後悔や憎しみ等、様々な感情に押しつぶされそうになりながらも、彼女はどうにか立ち直った。
今年の、受験が終わってすぐの三月、ひとつ年下のケイの兄であるマルコに、告白めいたことをされた。不良という点ではアゼルに似た人物で、それも理由のひとつなのか、ベラと彼との仲は悪かったが、それでも時々一緒に出かける仲だった。だがその告白も、ベラには嬉しいものではなかった。彼は無理やりそうなろうとしたが、彼女はできなかった。意味がないからとずっと否定し続けた気持ちを、アゼルへの愛を、認めることになった。そして曲がりなりにも“友達”だった彼を、絶交というほど悪い意味ではないが、失った。
自分が自覚している以上の鈍感さに、彼女は嫌気がさしていた。そしてその後、それ以上の形で、それを思い知らされることになった。
最初の出会いはナンパだったが、なんだかんだで友人関係を続けるうち、大事な存在になっていた、ふたつ年上のルキアノス。彼に告白された。彼は最初から、その恋を諦めていたという。諦めからはじまったから、今さら傷つきはしないと、彼はそう言った。それでも、今までのように友達でいることは、どちらもできなかった。そのうち彼がまた別の誰かに恋をして、ベラへの恋心を完全に吹っ切れたら、その時はまた友達からはじめようと約束し、別れた。よくルキアノスと一緒に遊んでいた共通の友人、アドニスやナイル、ゼインとも、結果的には少し、距離ができたことになるのだろう。
そしてそのあと、祖母の突然の死がベラを襲った。
彼女は、これ以上ないくらいに絶望した。
そして、アニタに告げた。
“もうやめる。必要以上に誰かと仲良くするのは、やめる”
ベラは、彼女を遠ざけた。
この部屋は、絶望を繰り返し味わった果てに辿り着いた場所だ。
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彼女はベッドの上に座っていた。曲げた膝の先に、たくさんのクッションがある。
彼女は腕を振り上げた。手にはナイフが握られている──ダマスカス鋼のブレードを持つフォールディングナイフだ。
目を大きく見開いた彼女は、クッションに向かって腕を振り下ろした。
赤い鮮血が彼女の顔に飛び散る。頭上から白い羽根が舞い降りてくる。
かまわず、彼女はまた腕を振り上げ、そして振り下ろした。
間違った握りかた。
間違った使いかた。
赤い鮮血。
白い羽根。
間違った握りかた。
間違った使いかた。
彼女の口元が、ゆるんだ。
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はっとして飛び起きた。
数秒経ち、ベラはやっと状況を理解した。自分の──引っ越したばかりの部屋にいた。今日はブラック・スターのオープン日だった。帰ってきてソファに寝転び、いつのまにか眠っていたのだ。
彼女は溜め息をついた。祖母が亡くなってからずっと、そんな夢をみる。これまで何度も夜中に飛び起きた。悪夢なら慣れている。昔はずっと、そうだった。
あの映像を、なにかを刺し、返り血を浴びる映像を、しばらくは忘れていたその映像を、真夜中の怒鳴り声に悩まされていた頃は、夢にみるどころか、自分で意図して脳内で再生していた。いつからかそれをやめたが、祖母が死んで、また蘇った。
なにより恐ろしいのは、昔は幼い子供だったその映像の中の少女が、今は完全に、等身大の自分になっているということだ。しかも最後にはいつも、その映像の中の自分は、口元をゆるめている。
自分の中にある“誰かの血”が、“最悪なもの”であると告げているような気がしてならない。