* If
ベラは目を開けた。それはつまり、誰かを相手に使ったということなのか。
「──私が買ったのに、誰かに使ったの?」
「置いてくのが悪いんだろ。半端に持っていきやがって」
怒る資格はない。アゼルと自分は今、つきあっていない。彼がいつ施設から戻ってきたのかすら知らず、その時間差のあいだに誰となにをしていようと、文句を言う権利などない。この一年半という期間で、彼がどういうつもりだったかはわからないが、別れたと公言していたのはおそらく、自分が先だ。ベラはそう自分に言い聞かせた。
さっきよりも少し強く、また目を閉じる。
「──会いたい」
「──明日、仕事。無理」
「私も明日、学校」
「さっさと寝ろ」
今ごろになって、マブの存在の大きさを思い知る。
「水曜くらい、仕事終わったら、会えない?」
「さあ」
「拒否するならCDコンポ持って、エントランスホールでずーっと待ち続ける。無駄にインターホン鳴らしながら」
「ストーカー扱いで通報する」
「捕まったら身元引受人になって迎えに来てね」
「普通に考えて無理だろ。車持ってようが年が十七なことに変わりはねえ」
当然の答えを彼女は無視した。「そんで今度、ドライブ連れてって」
「んな暇がどこにある」
確かに暇はない。彼が休みだろう週末は、自分が忙しい。「平日がだめならミッド・オーガストまで待つ」
「車持ってる人間ならいくらでも知ってんだろ」
間違いではない。「車の中でできるかな」
ほんの少し間があった。
「──もう、外ではヤらねえ」
「車の中も“外”に入るの?」
「後部座席。お前が上。動けると思うか? 確実に天井に頭ぶつける」
彼女は想像した。アゼルの車の天井の高さがどのくらいかはよく覚えていないが、ワゴン車ではなく乗用車だ。天井は低い。
「──ぶつける気がする」
「それに狭いとこでヤったら脚がつる。無理」
背が低ければどうにかなるかもしれないのに、よりによってふたりして背が高い。脚が長い。「なら諦める。でもドライブは行く」
「もう寝ろよ。つーか俺が寝る」
今さらだが、もしかするとアゼルは、ひとりで家にいる。「失敗した」
「なにが」
「住むの、そっちのほうにすればよかった」
「監視する気かよ」
監視など意味がない。つきあっていても家が近くても、その気になれば、彼はいくらでも他の女を相手にする。なんなら隣の部屋に住んでいても、彼はそれをするだろう。そう思ったので、彼女はまた話を変えた。
「おじいちゃんのお墓、どこ?」
「リバー・アモング」
「近いの?」
「いや」
「今度行く」
「勝手に行け」
「名乗ってくれなかったのが不満でしょうがない」
「知るかよ。文句言うなら墓に言え。クソ親父も一緒の区画に入ってるから、俺は行かねえ」
彼は父親を嫌っている。それは父親が亡くなった今でも変わらないらしい。
「一度も行ってないの?」
「ぜんぜん」
その気持ちは、ベラも理解できないわけではなかった。もし祖母の墓と同じ区画に父親や母親の墓があれば、自分も行きたくはないだろう。
「なら今度、場所教えて。ひとりで行って、文句言ってくる。両方に」
「五時間くらいかけろよ」
「朝になるわ」
「なんなら墓ぶっ壊せ。クソ親父のほうだけでいいから」
「さすがの私でもそこまではできない。──でも、なんか復讐する方法、考える。法に触れない程度に」
「墓標ぶっ壊す他になにがあんだよ。ナイフ突き立てる程度じゃ復讐とは言えねえぞ」
彼女にはもう、方法そのものがひらめいていた。「だいじょうぶ。私的且つあんた流にやる。っていうか、墓標壊しても意味ないじゃない、棺を壊したり遺体をどうこうするわけじゃないんだから。やったら犯罪だし。免許取り消しになる」
「だからお前がやりゃ俺は捕まらねえ」
彼女は思わず納得した、が。「やらないっつの。それでね、おばあちゃんのお墓にも行く」
「どこ」
「ローア・ゲート」
「半端に遠いな」
「山、のぼらなきゃいけないしね。なんでそんなところなのかは私もわからない。でもね、隣に、おじいちゃんなんだろうなってヒトのお墓もある。覚えてないだけかもだけど、おばあちゃんがお墓に入って、はじめて見た。四月は一応花持ってったんだけど、なんか、会ったこともないヒトに花あげるのもな、みたいな」
「まあ──デボラとのあいだに置けばいいんじゃね」
「あ、そうすればよかったのね。なんかよくわかんないから、けっきょく五月は、おばあちゃんの花束から一本だけ花抜いて置いたんだけど」
「飛ぶだろそれ」
「そう言われたから、土をちょっと掘って軽く埋めてきた」
「マルコにか」
「は? 違うし。店のボスが連れてってくれる。同じ霊園に、彼の身内のお墓もあるから」
「あっそ。道わかんの?」
「よくわかんないから、調べて地図印刷しとく。それで私はまた、おじいちゃんらしきヒトに花を持っていくかを悩むっていう」
「けど写真は見たんだろ? 昔」
ベラは三年前、祖母の家に引っ越したあと、掃除という名目で、“疑問”の“ヒント”を探した。その時に、祖母が写っている写真を数枚見つけた。
「顔なんて覚えてない──欲しいのは、そんなのじゃなかったし」
「──もしかしなくてもお前、デボラのもん、なんも持ってってねえのか」
彼女は苦笑った。「なんにも。写真だけはちょっと、あるけどね。時間がなかったのよ。遊びに行ってる時、いきなり連絡が入って──その時にはもう、おばあちゃんは死んでた。“もう長くない”とか、“今夜がヤマだ”とか、そういう連絡じゃなかった。“あなたのおばあちゃんが死んだ”。それだけ」
“母親”は、祖母と話をしたと言っていた。ベラには、祖母と話す時間は少しも与えられなかった。
「で、病院に行って、死んだおばあちゃんの顔を見た。病室を出て、“母親”と話をした。私は頭をさげた。“車を持ってる友達がいる。手伝ってもらうから、引っ越し業者はいらない。できるだけ自分でするから、ひとり暮らしをさせてください”って。あっさり了承された」
“母親”は、言った。“そのほうがいいかもしれない──あの町は、呪われてるから”、と。
「私はすぐにおばあちゃんの家に戻って、荷物をまとめた。自分がどんな生活してたか、あのヒトには知られたくなかったから、自分専用の食器や、おばあちゃんが自分の部屋に飾ってた私との写真なんかは、わかる範囲でだけど、持ってきた。あとビールも。自分の“痕跡”を消すので精一杯だった。次の日簡単な密葬を終えて、日曜に今の部屋に移った」
アゼルは黙って彼女の話を聞いていた。彼女はかまわず続けた。
「そのあたりの数日間のこと、よく覚えてないのよ。なにも考えないようにしてたから、なにかもらうとか、形見とか、そんなの考えてなかった。CDコンポとかノートPCとかプリンターとか、香水とか。プレゼントにもらったのが、形見ってことになるかな。ちょっと違う気もするけど──あ、料理のレシピ。形見って意味なら、それがいちばん近いかも」
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長く沈黙していたアゼルがやっと口を開く。
「ほんと、ありえねえくらいあっさり話すよな」
胸が苦しいと、ベラは感じていた。「おかしいとは、自分でも思う──今でもわからない。心配かけたくなかったからだろって、ゲルトは言ってたけど──三年間、一緒に暮らした。仕事だって嘘ついて、病院に行ってたとか──薬で耐えてたとか──限界、だったとか──私、なにも知らなかった」
閉じたまぶたの裏で、涙が浮かぶ。
「おばあちゃんは、徹底的に隠してた。私はちっとも気づかなかった──朝、いつもどおりに見送った。ハグして、キスしてくれて──なのに、いきなり死んだ。三年一緒にいたのに、そうなった時、先に連絡が入ったのはあのヒトのところよ。おばあちゃんが最後に話す相手に選んだのは、あのヒトだった」
涙はもう、彼女のまぶたの裏には留まっていられなかった。
「“言えなくてごめんなさい。がんばれなくてごめんなさい。大好きよ。愛してる”──。私は、おばあちゃんの口からじゃなくて、あのヒトの口から、そんな言葉を聞くはめになった。愛してるなんて言われたことなかったのに、最後の最後で、直接じゃなくて、よりによってあのヒトに言わせた。それならなにも言われないほうがよかった──いつか、訊こうと思ってた。昔なにがあったのか──でもそれする前に、おばあちゃんは死んだ。
私には、また疑問ができた。なんでなにも言ってくれなかったのか。なんで気づかなかったのか。なんで連絡する相手が私じゃなかったのか。なんで愛してるなんて言葉を、最後だってわかっててあのヒトに言わせたのか──他にも疑問は、いっぱいある。答えてもらえないと、それが答えの出ない疑問だと、私の中では憎しみになっちゃう。でも憎みたくない。だから恋しがったりもしない──もう、なにも考えたくない」
泣いているのを知られないようにと、ベラは強く目を閉じ、静かに気持ちを落ち着かせようとした。
「──昔から、よくわかんなかったことがある」と、アゼルが言う。
「うん」
「お前、あの家のこと、高確率で“ばーちゃんの家”っつってた。“自分の家”って表現使うこと、あんまなかった気がする。最初だけかと思ってたけど、デボラになついたあとでもそうだった。今もそう」
意識していたことではないが、彼の言っている意味はベラにもわかった。「だって、“おばあちゃんの家”だし──」
「俺だってマブを自分の家だっつってたのに、お前はそうならなかった。何年か暮らしたら、慣れる気がすんのに」
その感覚も、わからないわけではない。「“住まわせてもらってる”って感覚は、完全には消えなかった──それにやっぱり、疑いはあったんだと思う。おばあちゃんと血の繋がりがあるのか──可愛がってくれたことを疑うわけじゃないけど、それとは別に、どこかで血が繋がってないって考えてたのかも。知るのが怖くて訊けなくて、繋がってないって思い知るのが怖くて、期待しないようにしてたのかもしれない。考えたくないから、もう考えないけど」
「──知りたいか?」アゼルが訊いた。「誰と血が繋がってるとか、繋がってないとか」
彼女は少し悩んだ。「それは、繋がってるのと繋がってないのがいるっていう前提?」
「──まあ」
「それならまだマシかもしれないよね。両方と繋がってなくて、どこの馬の骨だかわからないって言われるよりは──ああ、でも、“父親”が別のヒトだっていう可能性が、高くなってる気がする」
「考えようによっては、な」
「でももう、馬の骨でいい気もしてきた」
「そしたらデボラとも血の繋がりがないってことになる」
「いいよ、べつに。重要なのはそこじゃない。もともと三年前までは、いるって実感も特になかったし。一時“家族”をもらったって、そう思っとく」
「──デボラが聞いたら、泣くな」
「それはないわよ。おばあちゃんを好きな気持ちは変わらないし、おばあちゃんだって、どっちにしても、私に対する愛情は変わらないと思う」
「──んじゃ──片方か、もしくは両方か。一目見てお前の本物の親だってわかるようなのがいるとしたら──会いたいか?」
考えたこともない質問だった。「会いたいっていうか、見てみたい気はする。この髪とこの瞳がどこからきたのか、どんな人間がこれを持ってたのか。それが私のいちばんの疑問。あと、この冷酷非情でイカれた血がどこからきたのかも。でも写真とか遠目から見るとかじゃなくて、どんな人間なのかは知りたいかもしれない。私みたいにイカれてるのかどうかってのは、知りたい気がする」
また少し沈黙があった。アゼルが再び口を開く。
「今日のぶん、薬飲んだか?」
「飲んでない。電話してるし」
「とりあえず飲め。しばらくはナマでヤる。そのうちまた避妊具にする」
どこから薬を仕入れているのか、訊いても無駄な気がしたので、ベラは質問しないことにした。
「また会う気はあるのね」
「ヤるためだけにな」
「ぶっ殺されたいの?」
「ヤりてえのはお前も一緒だろ」
「そこまで猿じゃないです」
「どうだか」
「触るのやめてくれたらしなくていい」
「触んなかったらお前、自分からくるじゃねえか」
「気のせいです」
「んで、一年半のブランクの果てがあれ」
彼女は恥ずかしさにむっとする。「一年半もブランクがあるなんて誰が言ったの」
「へー。んじゃ何人だ」
「五人」正確にはこれは、一年半のあいだにキスをした人数だ。
「そりゃすげえな。満足したか?」
「教えない」
「してたら昨日みたいなことにはなんねえよな」
こういうことに関しては、言い合っても勝てる気がしなかった。なにを言っても彼はきっと、嘘だとわかっている。
「もう黙ってようるさいな」
「だったらさっさと電話切れよ。明日仕事だっつーのに」
「私も学校だって言ってるじゃん」
「お前みたいに寝れねっつの」
「ヒトをいつも寝てるみたいに言わないでくれます?」
「寝てるだろ実際」
「寝てるけど」
「さっさと薬飲んで寝ろ」
「けっきょく水曜はどうなの? 会えるの?」
「お前と約束すんのはキライ」
彼女はまたむっとした。「約束破ったのはそっち」
「誰もお前が破るからとは言ってねえ」
意味がわからない。「守る気ないの? 水曜に会うっていう約束すら?」
「あるとかないとかの問題じゃねえ。お前といるとロクなことにならねえ」
今度は呆気にとられた。が、すぐに土曜の彼の言葉を思い出した。マスティたちは、自分のせいでいなくなった。
「ごめんなさい」素直にあやまった。
「あやまるまえに薬飲めっつの」
ベラは従った。冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを出し、薬を飲んだ。
なんだかんだで電話を切らず、アゼルは相手をしてくれていた。ベラはベッドルームへと移動してベッドに寝転ぶ。
「約束はしねえ」と彼が言う。「けど夕方、電話しろ。気が向いたら出る」
中途半端だ。「うん。とりあえずコンポね」
「それはいらねえ」
「買われるのがイヤなら黙って買いなさい」




