○ Touch
本人ですら流れていることに気づかなかったベラの涙を、アゼルは静かに拭った。
「──お前ひとりのせいだとは言わねえ。お前の言うとおり、もともと俺が施設に入ったりしなきゃ、あいつらだってバカなことはしなかった。けど俺からすりゃ、きっかけはお前だ。お前が俺を赦さねえように、俺もお前を赦さねえ」
そう言ってまた、彼は彼女にキスをする。
それに応えながら、ベラはもう、どうしていいのかわからなくなっていた。今までずっと、彼ひとりを責めるしかなかったのに、そうしてきたのに、けっきょく、どちらも悪かったのだ。それどころか、トリガーをひいたのは自分だった。
そんな彼女の心中とは裏腹に、アゼルの唇が、彼女の頬へ、首へ、鎖骨へとキスをする。そして濡れた服の上から、胸へ、おなかへ移動した。さらに黒のフィッシュネット・ストッキング越しに右のふとももへ、膝へ──脚へとキスをすると、床に膝をついた彼は、彼女の黒いブーツのファスナーをさげ、それを脱がした。
ベラには、彼がなにをしているのかがわからなかった。
彼の手が、ストッキングの足先部分を破る。あらわになったベラの素足に、アゼルはキスをした。キスだけではない──指を口に含み、舐めた。
ありえない光景だった。なによりも支配されることを嫌う彼が、こんなことをするはずがなかった。昔なら絶対にしなかったことだ。だが現実に──絶望に近い落胆を思い知らされたその現実に、それは起きている。
しかも、そこには快感があった。くすぐったさなどはない──何度か繰り返したキスの影響もあるだろうが、彼女のカラダは一年半ぶりに、“女”になっていた。
アゼルの手は止まらなかった。左の足にキスをしながら、彼女の左のブーツも脱がせ、ストッキングを破って、やはり同じように指を舐めた。小さな快感と興奮に、ベラが声を漏らす。
彼の唇はストッキング越し、左脚にキスをしながらまた、彼女の首筋にまで戻ってきた。耳元で言う。
「──シャワー浴びてくる」
ベラの息だけが、静かに乱れていた。
「──一緒に、行っちゃだめなの?」
「無理。左のドアもバスルームだ。入るんならそっちで入れ。けど奥の部屋には入んな」
そう言うと、彼は右にある白いドアへと向かった。
今も昔も、アゼルは矛盾だらけだ。
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ひとり取り残されたベラは、自分の身に起きていることを、どうにか理解しようとした。
なにが現実なのか、なにが夢なのか、境界線が曖昧に思える。受け入れては突き放し、愛しては傷つける──それを、かなり短いスパンで繰り返されているようだ。
カウンターからおりて玄関へと向かう。ボストンバッグの中で携帯電話のバイブレーションが震えていることに気づき、中からそれを取りだした。ディックから電話だ。
「お前、帰ったのか?」彼が訊いた。
今現在家にいるわけではないが、そういうことになる。「うん、ごめん」リビングへと戻りながら答えた。「急に友達が来て、慌てて出たの」
「ならいい。いると思ってたのがいなかったから、みんなあちこち捜したけどな」
誰かが送ってくれるはずだった。「ごめん。急用だったから──明日、ちょっと遅くなるかも。昼までには行くつもりだけど」
「ああ。昼に来なきゃ、一部の雑用は誰かにやらせる。けど棚の中がめちゃくちゃになっても怒るなよ」
「わかってる。おやすみ」
「おやすみ」
電話を切ると、言われたとおり、彼女は左側のバスルームへと向かった。
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昔はときどき、アゼルと一緒にシャワーを浴びていた。どちらもバスタブにつかるのが苦手で、いつもシャワーだった。冬に一緒に入った時は、温かいバスルームから出るのがイヤで、どうも時間がかかってしかたがなかった。夏は冷水を出してふざけていたので、けっきょく長時間の入浴になっていた。
使ってもいいのかと疑問に思いながらも、ベラは黒いバスタオルとバスローブを借りた。知らない部屋のバスルームで鏡の前に立ち、自分のマダーレッドの髪を拭きながら、さっきのアゼルのあれは、なんだったのだろうと考えた。
服従などする男ではない。脚ならともかく、足先にキスをするのは、自分の知っているアゼルがとる行動とは思えなかった。普通なら服従や、そうでなくとも気持ちの表れという考え方ができるだろうが、彼相手だと、それをどこまで信じていいのかもわからない。
アゼルの気持ちが変わっていないという保証は、どこにもなかった。あの支離滅裂な言動を思えば、あれにだって、意味はないかもしれない。期待させて裏切る──誰よりも、彼が得意とする行動だ。少なくともマスティたちのことで、彼が自分に怒っているということはわかった。アゼルが自分のことを、昔のように愛しているとは限らない。彼ははぐらかす。彼のなにが本音でなにが嘘なのか、見極めることなどできはしない。
シャワーを終えてリビングダイニングに戻る。明かりは完全に落とされていた。窓の外から雨音だけが聞こえる──そこで突然、言いようのない恐怖がベラを襲った。
昔の感覚が蘇る。いるはずの人間がいないのだ。
両親がいない。
アゼルがいない。
マスティたちがいない。
祖母がいない。
ドアを開けても、そこには誰にもいない。
「──アゼル?」震える唇でつぶやき、今度は声をあげた。「アゼル!」
ベラの目には涙が溢れていた。
捨てられた絶望は、取り残された絶望は、平気だと思っていても突然、本当に突然、自分の中に蘇る。夢の中でも、現実でもだ。
大切な人間にはいつも、自分の知らないところでなにかが起きていて、彼らはいつも、なにも言わずに突然、自分のもとから去っていく。いつだって誰もが、自分にはなにも告げないことを選ぶ。巻き込みたくないとか、心配をかけたくないとか、そんな理由からなのだろうけれど、そんなものは、なにも嬉しくない。連れていってくれるなら、そのほうがよかった。置き去りにされるよりは、警察に捕まったり、施設に入れられたりするほうが、精神的にもよっぽどラクだ。自分が消えるほうが、よっぽどラクだ。
立ち尽くしたまま、彼女は頭を抱えて泣いた。その後方で静かに、彼が部屋から出てくる。アゼルは背後から彼女を包みこんだ。彼女の髪に、耳にキスをする。
「──なに」
去った人間は、二度と戻ってこないと思っていた。
だけど、アゼルは戻ってきた。
泣きながら彼の腕の中で向きを変える。彼はジャージを履いているが、シャツは着ていなかった。するべきではないとわかっていたはずなのに、ベラは彼にすがった。
「もう、どこにも行かないで──」
どちらともなくキスが繰り返される。彼女の中で、現実なのだという実感が強くなっていった。
「──どっか行ったのは、お前も同じだろ」
その言葉に、彼女は涙目のまま彼と視線を合わせた。
「──捜したの?」
「んなことするかよ。ボダルトのとこに行って、デボラのこと聞いた。そっからマルコと連絡とって、あいつに会った。ウェ・キャスを出たってのは、ケイからあいつに話が伝わってた。センター街でひとり暮らししてるって」
アゼルが、マルコに会った。
マルコは、なにを話したのだろう。アゼルは、どこまで聞いたのだろう。
「じゃあ、なんで──」戸惑いを隠すようにベラが質問を続ける。「あの店、わかったの?」
「マルコが、最近ちょっとした噂を聞いたって。ファイブ・クラウドにオープンした地下の店で、高校生くらいの赤い髪の女がうたってるって。性悪だけど歌はうまいらしいつって。確かめてはないけど可能性はあるっつーから、行った」
マルコはセンター街で酒を飲む場合、ファイブ・クラウドではなくナイト・タウンを選ぶ。静かなバーよりも、うるさいクラブやパブを選ぶ。ベラの知る限り、彼がブラック・スターを訪れたことは一度もない。
また涙が彼女の頬を流れる。最悪なことをしたのに、マルコは、自分とアゼルを会わせようとしてくれた。
そしてアゼルは、自分を見つけてくれた。
「──知られたくないから、店に関係ない人間には、誰にも言ってない──あんたがいなくなってから知り合った店長が、ずっと誘ってくれてて──」
説明しようとしたが、彼はキスでそれを遮った。
「そういう話はあとで聞く。とりあえず、今はヤらせろ」
アゼルの両手がベラの身体を撫でまわす。唇は、いろいろな場所にキスをした。どちらも互いを求め合っていたのでその反動で、ふたりは同じ場所に留まってはいられなかった。
さっきまで彼がいた部屋で、彼の携帯電話が鳴った。ベラはそれを指摘したがアゼルは無視して、彼女の身体へのもったいぶるような刺激を続けた。
すると今度はふたりの真横で、壁に取りつけられた玄関のモニターつきインターフォンが鳴った。
「あんま声出すなよ」
彼はそう言って、壁に背をあずけたベラの身体の、いちばん敏感な部分に触れた。彼女が快感に吐息を漏らす。一方で、アゼルはインターフォンの受話器をとった。
一年半ぶりのそれに、ベラはどうにかなってしまいそうな感覚に陥っていた。一年半ぶりだからか、キスや身体の表面への愛撫だけで、どうしようもないほど興奮している。そのうえ、中にこそ入ってこないが──彼を欲しがる部分に触れられ、声を出すなと言われても、耐える自信などあるはずがなかった。
「またお前かよ」と、アゼルはインターフォン越しに誰かに言った。「無理。今忙しい。──知るかよ。勝手に言え。さっさと帰らねえと、ストーカー扱いでポリ呼ぶぞ」
冷たく返すと、彼は受話器を戻した。どうにか声を抑えて身をよじるベラの首筋にキスをする。
「もっと叫ばせてやる」
再び彼女を抱え上げ、アゼルはベッドルームへと歩きだした。




