○ Truth
キャリーバッグを後部座席に、などということは、考える余裕がなかった。ずぶ濡れの状態なのにいいのかと思いながら、ベラも助手席に乗り込む。
ドアを閉めた彼女に、アゼルはミネラルウォーターのペットボトルと、PTP包装された錠剤をひとつ、飲めと言って渡した。
「なんの薬?」
「黙って飲めよ」
アゼルが車を発進させる──以前予想したとおり、彼の車はオートマチック・トランスミッションタイプだった。右ハンドルの大きなクラシックカーだ。
ベラは素直に薬を飲んだ。支配がキライな彼は、間違ってもドラッグの類には手を出さないはずだ。その確信の裏で、毒の可能性はあった。だがそれでもよかった。彼になら殺されてもいいと──殺されるなら彼でなければイヤだと、今も昔も、彼女は本気で思っている。
ついさっき、アゼルが戻ってきたと実感したばかりなのに、またその実感が薄れていた。まだ恐怖が──一年と半年前に味わった、あの絶望への恐怖が自分を襲う。彼が戻ってきたということは、また裏切られ、傷つき、失う可能性が戻ってきたということだ。
走る車内にこれといった会話はなかった。アパートメントの住所を伝え、必要なところだけ進路を口添えしたが、あとは沈黙が流れるだけだった。
あっというまに彼女のアパートメントの駐車場に着くと、ベラの部屋専用のパーキングスペースに、彼は車を停めた。
ドアノブに手をかけようとして、ベラは彼のほうを見た。車のエンジンを停止する気配がない。それどころか、アゼルは煙草に火をつけた。
「来ないの?」
「行かねえ」
つまり自分だけが部屋に行き、ここに戻って、彼にナイフを返すということなのか。
だが部屋から戻った時、彼は本当にここにいるのか? また消えている可能性は? 絶対にないとは言いきれない。そんな恐怖がまた、彼女を襲う。
「──じゃあ、キスして」
「無理」
ベラはまた泣きそうになった。どうしていいかわからない。リアルすぎる夢のようなこの現実では、彼がいつ消えてもおかしくない。それどころか、キスすることを拒否された。さっきのあのキスですら、夢だったのではないかと思ってしまう。
もしもナイフを返したら、それで終わりなのか? 携帯電話の番号など、いくらでも変えてしまえる──彼の心が見えない。だからといってわめいたところで、彼が相手にするはずなどなかった。
「なら──着替え、持ってきていい?」
いくらか開けた窓の外に向かって、アゼルは煙を吐き出した。
「──十分だけ、待ってやる。さっさと行け」
ドアを開けて車を降り、ベラはアパートメントの入口へと走った。
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アゼルが返せと言っているのは、ダマスカス鋼と呼ばれる木目調のブレードを持つフォールディングナイフのことだ。元は彼の父親のコレクションのひとつで、その父親から身を守るために彼が所持し、父親を脅すために使ったものであり、父親の腕を傷つけたものでもあり──彼とつきあってはじめてのクリスマスに、そしてその次のクリスマスに、お互いの血を分け合うのに使ったものでもある。
去年の一月、彼が施設に入れられる時、祖父とブルたちを介して、アゼルがベラに預けていた。
車に戻ったベラは彼にタオルを渡したが、これといった反応はなかった。
再びの重い沈黙の中を、アゼルの運転で、リバー・アモングという町へ向かっていた。広い田舎町で、東側は海に面している。そのリバー・アモング・ビーチは、南京錠を彼に渡した時、彼と一緒に来た場所でもあった。忘れたくても忘れられなかった、思い出の残る場所だ。
辿り着いたのは、海に近い場所というわけではなかった。ベネフィット・アイランドを南北に走るバイパスから道を一本入ったところに建つ、十階建ての大きなコンドミニアムだ。
ここに住んでるのかと訊くことすら、できないような雰囲気だった。アゼルはまるで、彼女がそこにいないかのうように行動する。エントランスホールを抜けるのも、エレベーターに乗るのも、彼とどんな距離を保てばいいのかがわからない彼女はぎりぎりだった。
エレベーターは七階で停まった。ベラは着替えやナイフを詰め込んだボストンバッグ片手に、彼のあとをついていく。
廊下のつきあたりにある部屋──アゼルに続いて、彼女もそこに入った。
ドアの鍵を閉めた彼女のほうを見向きもせず、彼が言う。「シャワー浴びてくる」
「ねえ」ベラは彼を引きとめた。「──なんで、あの日──」
言葉を最後まで口にすることは、できなかった。
なぜあの日、一年と半年前のあの日、彼は自分を置いて、わざわざ喧嘩になるとわかっている呼び出しに応じたのか──ずっと考えないようにしてきたが、今はどうしても、その答えが知りたかった。
ゆっくりと振り返り、アゼルは彼女に冷たい視線を返す。
「お前がそれ訊くなら、俺はお前と別れたかったからって答える」
また、ベラは泣きそうになった。別れたければ別れればいいと、ずっと思っていた。お互いに中毒のようになっていた過去のふたりの関係に、彼が危機感を覚えていたことは知っている。実際、別れたければ別れればいいと、アゼルにも言ったこともある。
けれどそれにしても、もう少し他に、やりかたがあったはずだ。なぜよりによって、祖母の家で自分とふたりきりでいた時に、自分を置き去りにして、なにも言わず、捕まるのを承知で、更生施設に入れられることを承知で、真夜中の呼び出しに応じたのか──ふたりの喧嘩や浮気が原因で別れるなら、あれほど苦しまずにすんだかもしれない。なぜ突然消えるようなことをしなければなからなかったのか──彼の言う答えが真実なのだとしたら、アゼルはやはり、自分をこれ以上ないくらいに愛していたのに、その反面、自分のことをこれ以上ないくらいに嫌って、憎んでいたということになる。
確かに存在したはずの彼の愛ですら、嘘だったのかもしれないと思ってしまう。
ドアを背にうつむき、ベラは必至に涙をこらえようとした。アゼルが彼女の前に立つ。
「お前のそういうとこは、ほんと変わんねえな」
涙目のまま顔を上げ、彼女は弱々しくも彼を睨んだ。
「意味わかんない」
彼は答えない。「別れたきゃ別れろって、お前言ったよな」
言ったことは覚えている。中学二年の修学旅行中、夜中に彼に電話した時、確かにそう言った。
「他にもやりかた、あった」精一杯の反論だった。
「ねえよ」
そんなわけがないと言おうとして、やめた。その代わりに彼女は、おそらく意味がないだろう嘘を口にした。
「──今、つきあってる男がいる」
「だからなに」
あっさりだった。想像以上にあっさりだ。嘘だと見抜くことすらしないらしい。本当にどうでもいいのだ。
「帰りたきゃ帰れよ。勝手についてきたのはお前だろ」
そう言うと彼女の手からタオルとボストンバッグをとって床に置き、アゼルはベラにキスをした。彼の首に手をまわし、彼女も泣きながらそれに応える。
そのとおりだ。来いなどとは一言も言われていない。
応えたり応えなかったり、してくれたりしてくれなかったり──そんな彼の行動ですら、彼女には理解できなかった。
キスをしながら、アゼルが彼女を抱え上げる。それでもふたりはキスをやめなかった。彼は手探りでリビングダイニングの間接照明のスイッチを入れてまた歩き、薄暗い部屋のキッチンカウンターにベラを座らせた。
頬から首へ、首から腕へ、腰へ、脚へ──彼の手が濡れた服越しに、彼女の身体を撫でる──これもまた、彼女には懐かしい感覚だった。マルコにされるのとは違う──素直に受け入れられる。アゼルにならいくらされても、なにも不快ではない。それどころか、もっと彼が欲しくなる。
そう思った瞬間、キスがとまった。アゼルが、ベラの眼をまっすぐに見る。
「──お前、あいつらが施設に入った原因、本気で俺だと思ってんの?」
質問の意味がわからなかった。誰のことを言っているのかはわかる。ブルやマスティたちのことだ。
「相手は、あんたの喧嘩相手だったって──」
「んなこと知ってる。原因が俺だと思ってんのかって訊いてんだよ」
「だから、復讐に──」
「どこまで鈍感なんだよ」
言葉の意味が、まったく理解できない。「私のためだって言いたいの? そんなことしても私が喜ばないの、みんなわかってたはずじゃない。だいいち私は、傷ついてるなんて一言も言ってない。気を遣われるのに嫌気がさして、不機嫌になってただけで──それに、あれは三月だった。なにもかも今さらだった。もしかしたらその喧嘩相手が、施設から出てきたからかもしれないけど──」
「お前が」と、アゼルが彼女の言葉を遮る。「中学で拡声器使ってふざけたことした日の夜中、非通知で電話があっただろ」
ベラは唖然とした。確かにあった。相手はなにも喋らず、アゼルだと思い込んだ。けれど数ヶ月後、マルコにその話をして、アマウント・ウィズダムの施設にいるはずのアゼルがそんな電話をかけるのは不可能だとわかり、ただの悪戯電話だったのだと結論づけた。
「──なんで、知ってるの?」
「あれかけたの、マスティだ」
マスティ。電話の相手が、マスティだった。アゼルだと思い込んだせいで、アゼルの名前を呼んで、会いたいと泣いた。そして、電話は切れた。
唖然とし続ける彼女に向かってアゼルが続ける。
「お前が全然気にしてないみたいな態度とりまくったあげく、実は傷ついてるみたいなことしたから、あいつらはバカな行動に走った。俺のためなわけねえだろ。お前とつるむようになってからそれがなかっただけで、もともと俺がそういう人間だってのは、あいつらのほうがよく知ってる。ブルとマスティが俺との約束破ってまで暴走したのは、お前が傷ついてるってわかったからだ」
意味を理解したとたん、大きな落胆がベラを襲った。
自分は、ミスを犯していた。あの時電話に出なければ──アゼルだと思い込み、彼にすがるような言葉を口にしなければ──マスティもブルも、リーズもニコラも、復讐などという行動には出なかった。もしかすると、今もウェスト・キャッスルにいたかもしれない。昔と同じように、あの場所で、アゼルのことを待っていたかもしれない。彼は、そう言っている。
ずっと強がって、平気だと思い込もうとして、そう振る舞っていたが、アニタが自分のせいで傷ついたというのがわかり、自分の中でなにかが切れた。
限界を感じていた時に電話が鳴って、無視すればよかったものを、なぜか電話に出てしまい、非通知なうえに相手が無言だったものだから、アゼルだと思い込んだ。彼の名前を呼び、泣きながら会いたいと口にした。
電話の相手はマスティで、結果的に、寂しいのだと彼に知らせることになってしまった。
自分のためを想い、彼らはあんなことをした。
彼らが復讐に走ったのは、自分のせいだ。




