○ Rainy Night Reunion
外は雨が降っていた。小雨だと聞いていたが、霧雨だった。雫の一粒ひとつぶが柔らかく、量が多い──それでもベラは走った。ひと目も気にせず、キャリーバッグが邪魔だと思いながら──着替えることすら忘れていた。季節はもう夏のはじまりで、雨にうたれても寒くはないが。
わけがわからないまま走り続け、言われたとおりの場所に着いた。ブラック・スターよりもゼスト・エヴァンスから近い、ファイブ・クラウド・エリアの裏手にあるコインパーキングだ。
あたりを見まわしながら歩いていく。いくつかある外灯を頼りに、停車された十数台の車の中や外を──順番に注意深く──見まわしながら、相手を捜した。誰もいないように思える。エンジンがついた車もない──車に乗っている人間もいない気がした。
パーキング内を半分まで進んだところで、やっと我に返った。また新しい考えが浮かぶ。
彼が誰かに話した可能性もある。自分の写真など持っているはずはないが──マスティやブルが、施設に入る前に口外した可能性も、絶対にないとは言いきれない。
そんな可能性を考えながら、諦めろと自分に言い聞かせようとしかけた時、パーキングエリアの一番奥──外灯の当たらない場所に、人影を見つけた。黒い乗用車の後部に、車体に腰をあずけ、雨に濡れながらうつむく男がいる。背が高く、おそらくライトブロンドで、坊主とまではいかないが短髪だ。
思わず立ち止まっていた彼女は再び、キャリーバッグを引いてゆっくりと歩きだした。もういつぶりかわからないが、心臓が、これ以上ないくらいに激しく鼓動している。雨の音よりも大きく、彼に聞こえるのではないかと思うほどの音だ。
彼まであとほんの二、三メートルというところでベラが立ち止まる。全身が──自分のすべてが、今目の前にいるのはアゼルだと感じていた。叫んでいた。
「──アゼル?」
彼女が言うと、彼は少しだけ彼女のほうへと顔を向けた。だが完全には振り返らず、また視線をそらした。
それでもベラには、それが彼だとわかった。あの冷たい眼を知っている。成長して、もしかしたら顔つきは少し、変わっているかもしれないが──それでもあの、怒りと憎しみのこもった眼は、昔のままだった。
アゼルが戻ってきた。アゼルが、帰ってきた。
彼女がなにも言えず、動けずにいると、今度は彼が口を開いた。
「ナイフ返せよ」
雨と一緒に、ベラの頬を涙が流れる。会いたかった。同時に、最初に言う言葉がそれかとも思った。心の中を、様々な感情が交錯している。
「──みんな、いなくなった」ベラは言った。「マスティもブルも、リーズもニコラも──施設に、入れられて──」
「知ってる」
彼女の手に力がこもる。
「──おばあちゃんが、死んだ」
「──知ってる」
涙を止めようなどとは、顔を濡らす雨を拭おうとは、思いつきもしなかった。キャリーバッグをその場に残し、彼女はゆっくりと彼に近づいた。
「──ミュニシパル、受かった」
「それも知ってる」
なぜ知っているのかなど、考える余裕がない。訊いたとしても、彼が答えるとは思えない。とにかく今は、まだうつむいたままの彼の顔を、ちゃんと見たかった。
正面に立っても、彼は顔を上げない。ベラは声を振り絞る。
「──会いたかった」
彼は鼻で笑った。
「うそつけ」
こうやって、彼は自分を傷つける。悪態をつくのが得意なところすら、変わっていないらしい。そして自分の本音など、絶対に教えてはくれない。
ベラは両手で、うつむいたままの彼の頬に触れた。顔を上げるよう促して、目が合い、やっと彼の顔がちゃんと見えた。
アゼルだ。
少しおとなびたけれど、ほとんど変わっていない。冷たい眼も、頬に触れた時の感触も、指先に感じるその肌の温度も、昔のままのような気がした。
はじめて、彼の顔をキレイだと思った。ハンサムという表現は、やはりわからないが──今も昔も、彼の顔が好きなのだと、ベラは心の底から実感した。
彼の言葉は変わらない。「ナイフ返せ」
再会したとしてもその態度が最悪であろうことは、予想していた。アゼルはそういう人間だ。
「──他に、言うことないの?」
「俺よりも、お前のほうが言うこと、あんだろ」
当然だ。話すことはたくさんある──彼がそれをすべて聞いてくれるのか、なにから話せばいいのかも、よくわからないが。
「──二月に風邪、ひいた」
「知ってる」
「引っ越した」
「知ってる」
「センター街でひとり暮らししてる」
「知ってる」
まだ涙が流れているのか、それとも止まっているのか、なにが真実なのかさえも、まったくといっていいほどわからない。
「──あんたのせいで、リーズたち、いなくなった」
「へえ」
なぜそんな反応なのか、それがどういう意味なのか、彼女はさすがに気になった。それでも、訊き返すことは無駄な気がした。
キスをしていいか、と訊こうとして、それもやめた。拒否される可能性が高いからだ。こうやって彼に触れても、心のどこかでまだ、これは夢なのではないかと思っている自分がいる。彼の存在を──彼が今目の前にいるという現実を完全に信じるには、キスをするしかないのにだ。
けっきょくなにも言わず、ベラは勝手に、アゼルの唇にキスをした。
彼は応えない。
もう一度する──フレンチキスではあったが彼の唇が少し、動いた気がした。
三度目のキスを唇で促すつもりで、彼の首に腕をまわしかけた彼女は、なにか冷たいものの存在に気づいた。
南京錠のチェーンだ。
一年と半年前のクリスマスに、支配がキライなことを承知で、アゼルにプレゼントした──自分のものと揃いでサイズが少し大きめ、カレルヴォに頼んで“TWD”と刻印してもらい、同じチェーンを使って、ペアのペンダントにしてもらったものだ。
黒い服の下に隠れていたそれがまだ彼の首にあることに、ベラは少々驚いていた。はずされていると思ったからだ。
すると今度は彼が、彼女の南京錠を掴んで彼女を引き寄せ、キスをした。
ベラは今度こそ、彼の首に腕をまわした。
一年半ぶりのキスだった──雨の味の混じった、深いキスだ。彼の両手が自分の頬に触れ、ベラはまた泣いた。大好きだった、かつて愛した懐かしいそのキスに、彼の存在を実感した。
みんな、いなくなった。
両親はいるが、いないも同然だ。
兄弟のような存在だったブルたちは、三年という期限つきで。
祖母は、永遠に。
“母親”は、捨てられるまえに捨てた。
ルキアノスやマルコは、いつまでかわからない。
アニタたちのことは、自分から突き放した。
アゼルは、帰ってきてくれた。
何度か深いキスを続けたあと──彼女が満足しないうちに、彼がそれを止める。彼女の両手を頬に残したまま、額を合わせて口を開く。
「──乗れ。送ってやる。そんでナイフ返せ」
乗れというのは、車に乗れということか。またこの手を離さなければならないのか。
「離れたくない──」
「無理。さっさとしろ」
冷たく返すと、彼女の腕を無理やりほどき、アゼルは自分が腰をあずけていた車の運転席に乗った。




